Chapter 1 of 7

秘密の上にも秘密にやった事だったが、新聞記者にかゝっちゃ敵わない、すぐ嗅ぎつけられて終った。

子爵二川重明が、乗鞍岳の飛騨側の頂上近い数百町歩の土地を買占めただけなら兎に角、そこの大雪渓を人夫数十人を使って掘り始めたというのだからニュース・ヴァリュ百パーセントである。

二川家は子爵の肩書が示している通り、大名としては六七万石の小さい方だったが、旧幕時代には裕福だった上に、明治になってからも貨殖の途が巧みだったと見えて、今では華族中でも屈指の富豪だった。然し、当主の重明は未だやっと二十八歳の青年で、事業などにはてんで興味がなく、帝大の文科を出てからは、殆ど家の中にばかり閉じ籠っているような、どっちかというと偏屈者だったが、それが何と思ったか、三千メートル近い高山の雪渓の発掘を始めたのだから、新聞が面白可笑しく書き立てたのは無理のないことである。

二川重明の唯一の友人といっていゝ野村儀作は重明と同年に帝大の法科を出て、父の業を継いで弁護士になり、今は或る先輩の事務所で見習い中だが、この頃学校時代の悪友達に会うと、直ぐ二川重明の事でひやかされるのには閉口した。

野村の悪友達は、二川の事を野村にいう場合には、極って、「お前の華族の友達」といった。この言葉は、親しい友達の間で行われる、相手を嫌がらせて喜ぶ皮肉たっぷりのユーモアでもあるが、同時に、彼等が「華族」というものに対する或る解釈――恐らくは羨望と軽侮との交錯――を表明しているのでもあることを、野村はよく知っていた。

それで、野村は悪友達から二川の事をいわれるのを余り好まなかった。野村は別に二川を友達に持っていることを、誇りとも、恥とも思っていないし、二川を格別尊敬も軽蔑もしていないのだが、それを変に歪めて考えられることは、少し不愉快だった。

それに、野村と二川とは性格が正反対といっていゝほどで野村は極く陽気な性質だったし、二川は煮え切らない引込思案の男だった。この二人が親しくしていたのは、性格の相違とか、地位の相違とかを超越した歴史によったものだった。

というのは、二川重明の亡父重行は、やはりもう故人になった野村儀作の父儀造と、幼い時からの学校友達であり、後年儀造は二川家の顧問弁護士でもあった。そんな関係で、野村と二川は極く幼い時から親しくし、小学校は学習院で、同級だったし、中学では別れたが、後に帝大で科は違うが、又顔を合せたりして、学校の違う間も互に往来はしていたのでいわば親譲りの友人だった。卒業後は野村もあまり暇がないので、そう繁々と二川を訪問することは出来なかったが、二川には野村が唯一人といっていゝ友人だったので、既に父も母も失っている彼は淋しがって、電話や手紙でよく来訪を求めた。野村も二川の友人の少いのを知っているので、三度に一度は彼の要求に応じて、訪ねて行く事にしていた。

大体そういった交友関係だったが、二川が突然変った事を始めたので、野村は悪友達の半ば嘲笑的な質問攻めに会わなければならなくなったのだった。

「オイ、お前の華族の友達あ、日本アルプスの地ならしを始めたていじゃねえか」

「一体、雪を掘って、何にする気だい」

「お前の華族の友達あ、気が違ったんじゃねえか」

こういった質問が代表的のものだった。

この三つの代表的質問のうち、第一は、意味のない単なるひやかしに過ぎないので、野村はたゞ苦笑を以って、報いるだけだった。

第二の質問には、やゝ意義があった。それはひやかしのうちに、幾分の好奇心を交えて、雪渓発掘の目的を訊いているのだった。

雪渓発掘の目的については、当の二川ははっきりした事をいわないので、憶測を交えた噂がいろ/\と伝えられた。或者は、鉱脈を掘り当てる為だといい、或者は温泉を掘る為だといい、或者は登山鉄道でも敷くつもりではないかといった。然し、野村はそんな浮説を全然信用しなかった。というのは、二川重明は鉄道とか温泉とか鉱山とかいう企業などには、少しも興味を持たない人間なのだ。又、登山などには、全然趣味がなく、恐らく五百メートル以上の山に登った事さえないだろうと思われるのだ。然し、野村にも、そんな男が何故急に日本アルプスの雪渓を掘り始めたかという理由は全然分らなかった。

だから、第二の質問には、単に分らないと答えるだけだった。

第三の質問は一番不愉快だった。この質問を受けると、野村はハッとせざるを得なかった。

何故なら、野村も実は二川が発狂したのではないかと、私かに危懼の念を抱いていたからだった。

二川は以前から痩せた方で、変に懐疑的なオド/\した人物ではあったが、色白の細面にはどこか貴族的な品位があり疑り深そうな大きな眼のうちには、同時に考え深そうな哲学者の閃めきがあり、時に物怯じのする態度のうちにもどことなく悠揚迫らざるものがあったが、この二三年来、それらのものが全く一変して終った。

猛烈な不眠症に陥ったのが原因らしいが、頬はゲッソリとこけて、頭ばかりが大きくなり、眼は落着なくギョロ/\と動いて、一種異様な光を発し、絶えず何者かに怯やかされているようにビク/\しているのだ。

これらの症状は明かにひどい神経衰弱で、その行為にも言葉にも、別に甚しい矛盾は現われなかったので、野村は幾分安心していたのだったが、乗鞍岳の雪渓を買占めて、発掘し出したという事になると、どうも発狂したのではないかと思わざるを得ないのだ。

真夏になっても消え残っている広さ数十町歩、深さ幾丈だか分らないような大雪渓を掘るという事は想像以上の難事業で、到底人間業では出来ることではないのだ。我国には正しい意味での万年雪というのはないそうであるが恐らくその辺の雪は数世紀間溶ける事を知らないでいるのだろう。千古の雪の下の神秘を探るという事は、人間に許されない事ではなかろうか。又、二川は神秘の扉を開いて、そこに何を見出そうとするのだろうか。

家人の反対も断乎として退け、唯一の友達の野村にさえその目的を洩らさないで、この無謀の挙を敢行する二川は、発狂したとしか野村には考えられないのだった。

第三の質問には、野村はこう答えた。

「うん、気違いじみているよ。だが、何か目的があるんだろうよ」

この後の半分の言葉は、質問者に答えているよりは、むしろ彼自身に安心の為にいって聞かせているのだった。

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