水銀石英灯
読者諸君は、塚原俊夫君の取り扱った「紅色ダイヤ」事件というのを記憶していてくださるだろうと思います。その事件を紹介する際、私は俊夫君に金持ちの叔父さんのあることを話しておきましたが、最近俊夫君はこの「赤坂の叔父さん」に実験室の一部を建て増してもらい、そこへ水銀石英灯というものを買ってもらって据えつけたのであります。
どうして、俊夫君が水銀石英灯を買ってもらったかと言いますと、先日俊夫君は、ある外国の犯罪学に関する雑誌を読んで、近頃外国では犯罪の探偵に水銀石英灯がさかんに使用されるということを知ったからであります。
そこで、研究好きな俊夫君は、赤坂の叔父さんに頼んだところ、さっそく叔父さんは快諾して実験室を建て増し、器械を買い入れて備えつけてくださったのであります。
かねて俊夫君はレントゲン線の装置がほしいのでしたけれど、あまりに大袈裟になるゆえ我慢していましたが、水銀石英灯は簡単なものですから、とうとう叔父さんにねだったわけです。
さてここで皆さんに水銀石英灯がどんなものかということをお話ししておこうと思います。水銀石英灯というのは一口にいえば、紫外線と称する一種の光線を発生する器械なのであります。そこで私はさらにさかのぼって、紫外線が何物であるかということを述べる必要があります。
皆さんは日光が通常七色の光線から成っていることをご存じであろうと思います。すなわち赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色がこれでありまして、日光光線を分光器で分析しますと、いわゆるスペクトルとなって、これらの美しい色にわかれます。しかし、日光光線には、この七色の光線の他になお眼に見えぬ二種の光線が含まれているのでありまして、通常赤外線、紫外線と呼ばれているのであります。
赤外線はスペクトルの赤色の外部に位するという意味であり、紫外線とは紫色の外部に位するという意味であります。
光線は申すまでもなく、光波と称する一種の波でありますが、スペクトルの赤色の方から紫色に向かって漸次その波長が小さくなり、反対に屈折力は大きくなるのであります。そうして赤色の側の光線は温熱的作用を有し、紫色の側の光線は化学的作用を有するのであります。それゆえ赤外線は最も温熱的作用に富み、紫外線は最も化学的作用に富んでいるのであります。
日光が人間の健康を増進するのは、この紫外線の化学的作用によるものでありますから、フィンセン〔(一八六〇~一九〇四)〕という人は、紫外線を発生せしめて色々の病気を治そうと企て、いわゆるフィンセン灯なるものを発明したのであります。ところがこのフィンセン灯なるものは装置が少し大袈裟でありますから、後にクローマイエルという人は、もっと簡単に紫外線を発生する装置を考えたのであります。それがすなわち水銀石英灯なるものであります。
水銀石英灯というのは、その原理を一口に申しますと、真空の石英製の管内に水銀の蒸気をみたし、それに直流の電気を通じて発光せしめるのであります。そうすると水銀は紫外線を発生し、石英はよく紫外線を通過せしめますから、すこぶる簡単に装置することができるのであります。
通常石英灯に要する直流電気は、七十ボルトから二百ボルト位のものであります。実際に装置するにあたっては石英灯が熱しすぎないように水をもって冷却する必要などがありますが、全体はきわめて簡単なものであります。
さて、水銀石英灯は通常病気を治療する目的で使用されているのでありますが、近頃は犯罪の科学的捜査にも使用されるに至ったのであります。そうして犯罪の科学的捜査には、紫外線の化学的作用でなしに、主として物理的作用が応用されるのであります。
紫外線がどういう物理的作用を有するかと申しますと、紫外線は多くの物質に当たりますと一種の燐光様の光を発生せしめるのであります。この燐光様の光は、紫外線の当たっている間光るのと紫外線を当てることを止めてからもなおしばらくの間光っているのとがあるのであります。
そうしてこの後者、すなわちいったん紫外線を当てると、紫外線を当てることを止めてからでもなおしばらくの間、光っている物質の方がはるかに多いのであります。
紫外線に当たって光るものはどんなものかといいますと、多くの自然の産物がそれであります。そうして、その自然の産物を人工的に模倣したものは光らないのであります。
たとえば、人間の歯は、紫外線に当たって光りますけれど、他の物質で作った義歯は光りません。また、象牙や骨などは光りますけれども、象牙に似せて作ったものは光りません。また、天然に産するダイヤモンドは光りますけれども、ガラスで似せて作ったのは光りません。
それゆえ紫外線に当てて見れば、ダイヤモンドの真偽はすぐに鑑別することができるのであります。
なおまた多くのアニリン色素は、紫外線に当たるときわめて美しい光を発します。それゆえ染物の鑑定などにも紫外線は応用されるのであります。
なおまた同じ原理によって書画の真偽の鑑定をすることもできるのであります。この他なお穀物の粉末なども、紫外線に当たるとやはり光りはじめるのであります。
俊夫君は、叔父さんから水銀石英灯を買ってもらった当座、毎日、実験室にこもって色々のものを持ってきては紫外線を当て、電流の強さを色々に加減して深い研究を行い、いちいちそれを手帳に書きとどめておりました。
人間の髪の毛とか動物の毛とかあるいは血液とか尿とか、あるいは各種の絵の具とか、手紙に用いる封蝋とかあるいは衣服の繊維など手当たり次第に研究し、しかもある場合には立派に鑑別ができるので、俊夫君は有頂天になって喜び、それこそ寝食を忘れて実験室にとじこもり、十数日の後にはもう紫外線通となってしまいました。
「兄さん、何か一つ大事件があってほしいものだねえ。こんどはこの紫外線を使って探偵してみたいから」
とある日――それは四月のことでした――俊夫君は私に向かって言いました。
「そうだねえ、大事件といえば、この頃銀座の××宝石商を襲った賊はいまだに逮捕されないじゃないか。どうだね、あの事件など、紫外線では解決できぬかね」
と私は冗談半分に笑いながら申しました。
銀座の××宝石商は、東京でも屈指の大店で、時価八十万円の首飾りが、一夜盗賊のために盗み去られたのであります。
警察では非常な活動をしているのですけれど、二週間余を過ぎた今日盗賊はもちろんのこと、首飾りがどこにあるかということもさっぱり分かりません。犯行の現場にも何の手掛かりも発見されず、金庫はアセチレン吹管で破壊されておりましたが、ただ賊が外部から侵入したことだけは確かだそうであります。
俊夫君も私の言葉を聞いてにっこり笑いましたが、またたちまち真面目顔になりました。
「僕はこの頃中、紫外線の研究に一生懸命になっていて、犯罪事件の研究はそっちのけになっていたよ。なるほど兄さんの言うとおり、あの事件は面白そうだね。ひとつPのおじさんにその後の経過を聞いてみるかな。兄さん、ちょっと電話をかけてくれないか」
私が立ちあがろうとすると、ちょうどそのとき実験室の扉を叩く音がしました。開けてみると、来訪者は驚いたことに、「Pのおじさん」すなわち警視庁の小田刑事でありました。
「やあ、ちょうど今、あなたのお噂をしていましたよ」
と私が言いました。
「そうかね」
と小田さんはにっこり笑って中へ入り、やがて俊夫君と対座しました。
「Pのおじさん、銀座の宝石事件はどうなったですか?」
と俊夫君は尋ねました。小田さんは顔を曇らせました。
「まださっぱり見当がつかない。どうも、今まで取り調べたところによると、そこらにうろついている盗賊とは違うらしいのだよ。ことによると、東京市中に堂々たる邸宅をかまえている人間であるかもしれない。
だから今は、その方針で捜しているのだが、中々はかどらないよ。――それはまあ、それとして実は昨夜妙な事件が起きたので、それについて俊夫君の知恵を借りにきたのだよ」
こう言って小田さんは俊夫君の顔を見つめました。すると俊夫君の眼は急に輝きだしました。
「それは何ですか?」
と俊夫君は尋ねました。
「実はね、昨夜須田町の電車停留場で、一人の男が電車に轢かれて死んだのだ。男は二十五六で洋服を着ていたが、ポケットの中には、蟇口と手巾とが発見されたばかりで、その他には手帳も何もなく、さっぱりその身元が分からないのだ。
洋服にも手巾にも姓名が書いてないので、とりあえず警視庁へ死体を運んだのだが、今日になっても身元は分からない。ところが、その蟇口の中には十二円五十三銭の金と、他に黒い色をした紙が一枚入っていたのだ。
その紙には、白い絵の具である文句が書かれてあるのだが、その意味がどうしても分からないのだ。警察のものが、頭を搾って考えても分からぬので、俊夫君に読んでもらおうと思ってきたのだ」
こう言って、小田さんはポケットから、一枚の黒い紙を取りだしました。それは三寸四方位の大きさの紙でした。