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一九二八年三月十五日
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一九二八年三月十五日
小林多喜二
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 6 of 9

六

龍吉と一緒の室にゐた齋藤が便所に行く途中、廊下の突き當りの留置場の前で、

「おい。」――と、その留置場にゐる誰かに呼ばれた、と思つた。

齋藤は足をとゞめた。

「おい。」――聲が渡だつた。小さい窓へ、内から顏をあてゝゐるのが、さう云へば渡だつた。

「渡か、俺だ。――何んだ、獨りか?」

「獨りだ。皆元氣か。」何時もの、高くない底のある聲だつた。

「元氣だ。――うむ、獨りか。」獨り、といふのが齋藤の胸に來た。

少し遲れて附いてきた巡査が寄つてきたので、

「元氣で居れ。」と云つて、歩き出した。

歩きながら、何故か、これは危いぞ、と思つた。室に歸つてから、齋藤はその事を龍吉に云つた。龍吉はだまつたまゝ、それが何時もの癖である下唇をかんだ。

石田は、渡とは便所で會つた。言葉を交はすことは出來なかつたが、がつしり落付いた、鋼のやうに固い、しつかりした彼の何時もの表情を見た。

「おい、バンクロフトつて知つてるか。」石田が齋藤にきいた。

「バンクロフト? 知らない。コンムユニストか?」

「活動役者だよ。」

「そんなぜいたくもの知るもんかい。」

石田は渡に會つたとき、ひよいと「暗黒街」といふ活動寫眞で見た、巨賊に扮した、バンクロフトを思ひ出した。渡――バンクロフト、それが不思議なほど、ピツタリ一緒に石田の頭に燒付いた。

渡は、自分が獨房に入れられたとき、(最初組合に踏込まれたときと同じやうに、)自分等が主になつてやつてゐる非合法的な運動が發覺した、と思つた。瞬間、やつぱり顏から血がスウと引けてゆくのが自分でも分つた。彼にとつては、然し、それはそれつきりの事だつた。すぐ何時ものに歸つてゐた。そして殊に獨房にどつかり坐つたとき、遠い旅行から久し振りで自家に歸つてきた人のやうな、廣々とつくろいだ氣持を覺えた。――渡でも誰でも、朝眼をぱつちり開ける。と待つてゐたとばかりに、運動が彼をひツつかんでしまふ。ビラを持つて走り廻る。工場の仲間や市内の支部を廻つて、報告を聞き、相談をし、指令を與へる。中央からのレポートがくる。それが一々その地の情勢に應じて色々の形で實行に移されなければならない。委員會が開かれる。石投げのやうな喧嘩腰の討論が續く。謄寫板。組合員の教育、演説會、――準備、ビラ、奔走、演説、檢束……彼等の身體は廻轉機にでも引つかゝつたやうに、引きずり廻はされる。それは一日の例外もなしに、打ツ續けに、何處迄行つても限りのない循環小數のやうに續く。――もう澤山だ! さう云ひたくなる位だ。そしてそのあらゆる間、絶え間なく彼等の心は、張り切り得る最高の限度に常に張り切つてゐなければならなかつた。然し「別莊」はその氣持に中休みを入れさせてくれる効果を持つてゐる。だから「別莊行き」には皮肉な意味を除けば、ブルジヨワの使ふ「休息」さういふ言葉通りの意味も含まつてゐた。然し誰もこの後の方の事を口には出して云はなかつた。そんな事を云へば、一言のもとに非戰鬪的だとされることを皆はこつそり知つてゐたからだ。

渡は、足を前に投げ出して、それを股から膝、脛、足首――それから次には逆に――揉んだり、首や肩を自分の掌でたゝいたり、深呼吸するやうに大きく、ゆつくりあくびをしたりした。ふと、渡は、自分は今迄ゆつくりあくびさへした事のなかつた事を思ひ出した。そして獨りで可笑しくなつて、笑ひ出した。

四、五日前から鈴本の歌つてゐたのを聞きながら、何時の間にか覺えた、「夜でも晝でも牢屋は暗い。」の歌を小聲で樂しむやうに、一つ/\味ひながら、うたつて、小さい獨房の中を歩いてみた。渡の頭には何も殘つてゐない。さう云つてよかつた。然し時々今日全國的に開かれる反動内閣打倒演説が出來なくなつた事と、自分達の運動が一寸の間でも中斷される殘念さがジリ/\歸つてきた。が正直に云つて――又不思議に、渡には、それ等の事は眠りに落ちやうとする間際に、ひよい、ひよいと聯絡もなく、淡く浮かんだり消えたりする無意味なものゝやうでしかなかつた。

渡は口笛を吹いて歩きながら、板壁を指でたゝいてみたり、さすつてみたりした。彼は實になごやかな氣持だつた。監獄に入れられて沈んだり憂鬱になつたりする。さういふ氣持はちつとも渡は知らなかつた。然しもつと重大な事は、自分達は正しい歴史的な使命を勇敢にやつてゐるからこそ、監獄にたゝき込まれるんだ、といふ事が渡の場合苦しい苦しいから跳ね返す、跳ね返さずにはゐられないその氣持と理窟なしに一致してゐた。彼は、自分の主義主張がコブのやうに自分の氣儘な行動をしばりつけてゐるやうな窮屈さや、それに對する絶えない良心の苛責などは嘗つて感じなかつた。渡は、自分ではちつとも、何も犧牲を拂つてゐるとは思つてゐないし、社會的正義のために俺はしてゐるんだぞ、とも思つてゐない。生のまゝの「憎い、憎い!」さう思ふ彼の感情から、少しの無理もなくやつてゐた。これは彼の底からの氣持と云つてよかつた。それに彼はがんばりの意志を持つてゐた。裏も表もなくムキ出しにされてゐた彼の、その「がんばり」はある時には大黒柱のやうに頼りにされたが、別な場合には他の組合員の狂犬のやうな反感をムラ/\ツとひき起すこともなくはなかつた。

彼は前へすぐ下る髮を、頭を振つて、うるさげに拂ひあげながら、一人ゐる留置場を歩き廻つた。彼の長くない、太い足は柔道をやる人のやうに外に曲がつてゐた。それで彼の上體はかへつて土臺のしつかりしたものに乘つてゐるといふ感じを與へた。彼は一歩々々踵に力を入れて、ゆつくり歩く癖があつた。彼の靴は一番先きに、踵の外側だけが、癖の惡い人に使はれた墨のやうに斜めに減つた。彼は歩きながら同志の者たちはどうしてゐるだらふ、と思つた。誰かかういふ彈壓に恐怖を抱くものがあつては、その事が一番彼の考へを占めた。若しも長びくやうだつたら、それがもつと工合惡くなる、彼はそれに對する策略を考へてみた。

壁には爪や、鉛筆のやうなもので、色々な樂書がしてあつた。退屈になると、渡は丹念にそれを拾ひ、拾ひ讀んだ。何處にも書かれる男と女の生殖器が大きく二つも三つもあつた。

「俺は泥棒ですよ、ハイ。」「こゝの××は劍難死亡の相あり――骨相家。」「×事、×事、×事、×、×。(これが未來派のやうな字體で。)「不良青年とは、もつとも人生を眞劍に渡る人のことでなくして何んぞや。呵々」「社會主義者よ。何んとかしてくれ。」「お前が社會主義になれ。」男と女の生殖器を向ひ合せて書いてある下に「人生の悲喜劇は一本に始つて、一本に終るか。嗚呼。」「私は飯が食えないんです。」「署長よ。お身の令孃には有名な蟲が喰ツついてゐる。」「何んでえ、こつたら處。誰がおつかながるものか。」「勞働者よ、強くなれ。」「こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。樂書はみつともないから止しにしやう。」「糞でも喰らえ。」「不當にも自由を束縛されたものにとつて、樂書は唯だ一つののび/\と解放された樂天地だ。こゝに入つてくるあらゆる人に告ぐ。大いに樂書をしたまへ。」「勞働者がこの頃生意氣になりました。」「この野郎、もう一度云つてみろ、たゝき殺してやるぞ。勞働者。」「巡査さん、山田町の吉田キヨといふ人妻は、男を三人持つてゐて、サツク持參で一日置きに廻つて歩いてるさうだ。探査を望む」「お前もその一人か。」「妻と子あり、飢えてゐる。俺はこの社會を憎む。」「ウン、大いに憎め。」「働け。」「働け? 働いて樂になる世の中だか考へてかう云へ、馬鹿野郎。」「社會主義××。」……

渡は何時でも入つてくる度に、何か書いてゆくことにしてゐた。今迄に、さう決めてからは、何度もやつてゐた。

「俺はとう/\巡査の厄介になつたよ。悲しい男。」「巡査の嬶で、生活苦のために一回三圓で淫賣をしてゐるものが小樽に八人ゐる。穴知り生。」

渡はさう書かれてゐる次の空いてゐる壁に、爪で深く傷をつけながら丹念に樂書を始めた。熱中すると知らないうちに餘程の時間を消すことが出來た。それは畫でも描いてゐるやうな氣持で出來る愉快な仕事だつた。成るべく長く書かうと思つた。彼は肩先きに力を入れて仕事にとりかゝつた。熱中したときの癖で、何時の間にか彼は舌を横に出して、一生懸命一字々々刻んで行つた。

おい、皆聞け!(以下三十三行削除)

かなり長い時間それにかゝつた。渡は讀み返へしてみて滿足を感じた。口笛を吹きながら、コールテンのズボンに手をつツこんで、離れてみたり、近寄つてみたりした。

夜が明けてゐた。電燈が消えると然し、眼が慣れない間、室の中が急に暗くなつた。壁の樂書も見えなくなつた。青白い、明け方の光が窓の四角に區切られて、下の方へ三、四十度の角度で入つてきてゐた。渡は急に大きく放屁した。それから歩きながらも、力を入れて、何度も續けて放屁した。屁はいくらでも出た。そしてそれが自分でも嫌になるほど、しつこく臭かつた。「えツ糞、えツ糞!」渡はその度に片足を一寸浮かして放屁した。

八時頃かも知れなかつた。入口の鍵がガチヤ/\鳴つた。戸が開いて、腰に劍を吊してゐない巡査が指先の分れてゐる靴下に草履を引つかけて入つてきた。

「出るんだ。」

「動物園の獸ぢやないよ。」

「馬鹿。」

「歸してくれるのかい、有難いなア。」

「取調だよ。」

さう云つたが、急に「臭い臭い!」と 廊下に飛び出てしまつた。

Chapter 6 of 9
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