思い出
私は数え年の二つのとき、父母に伴われて大阪へ行った。大正の始であった。
その頃、私の父は摂津大掾の弟子で、文楽座に出ていた。父は二つのとき失明した。脳膜炎を患ったためだという。父は十三四の頃初めて大阪へ行き、はじめ五世野沢吉兵衛の手解をうけ、その後当時越路太夫と云った摂津大掾のもとに弟子入りをした。祖父の姉で出戻の身を家に寄食していた人が、父に附添って行った。父は時々、学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、兄と私が生れた。乳離れのしなかった私が連れられて行ったのは、父の最後の大阪行のときであった。
大阪のどこに私の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪の家には、父母と私と祖父の姉にあたる人(この人のことを、家ではひとつは祖母と区別するために、大阪おばあさんと呼んでいた)と、それから私の子守のしづやがいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。兄は私より二つ年上であった。
その頃、文楽座は御霊神社のそばにあった。私達が住んでいたのも、そこからそう遠いところではなかったであろう。御霊神社のことを、「ごりょうさん。」と云っていたのを覚えている。おそらく土地の人がそう呼び馴染んでいたのを、私達もそのまま云い倣っていたのだろう。私はしづやに被負って、よく御霊神社の境内へ遊びに行ったようである。「しいや、ごりょうさんへ行くの、しいや、ごりょうさんへ行くの。」そう云って私がしづやにせがんだということを、東京に帰ってきてから、よく母などから聞かされたものである。私は「しづや。」という発音ができず、いつも「しいや。しいや。」と呼んでいた。御霊神社の縁日で、夜店の飴屋のみせをしづやの背中にいて見て、あめが欲しいとせがんだら、「あれは毒です。」としづやから叱るように云われて、飴屋の親爺の顔がそのとき鬼のように見え、毒なものをなぜ売っているのだろうと子供心に訝しく思ったことを覚えている。文楽座で御廉の垂れているのを見た記憶が眼に残っている。おそらく開演前に土間からでも、しづやに被負っていて見た記憶であろう。やはり御霊神社の近くだったらしいが、あやめ館と云う寄席があって、そこへも私はよくしづやに連れられて行ったようである。寄席の入口の前にしづやといたとき、女芸人が人力車で乗りつけたのを見た。中へ入って私達はその女芸人が舞台でやるのを見た。「さっきのねえさんですよ。」としづやが私におしえた。私も覚えていた。女芸人が懐中電灯を掌にして踊りのようなことをしたのを覚えている。しづやは木魚を敲いて阿呆陀羅経の真似をするのが巧かったそうである。暮れがたの町中で、しづやに被負りながら、その阿呆陀経を聞いたような記憶がある。私の玩具の中には、黒ずんだ色の手頃の大きさの木魚が一つあって、かなり後まで残っていた。摂津大掾は私の父を可愛がり、私も家に連れてゆかれて、摂津大掾の膝に抱かれて、摂津大掾がてずからむしってくれた魚を食べたことがあるそうである。私の幼い記憶には、そのときの膳の上の魚の白身の印象が眼に残っていた。少し覚束ない気もされるが、後になってその話を聞いてから、私がつくりあげたイメージではないようだ。住んでいた家のことは、殆ど記憶にない。ただその家が通りに面して格子窓のある家であったのを覚えている。窓の外を牛乳売りが通りかかったのを聞きつけて、買ってくれと母にせがみ、宥められてもききわけがなくて、仕方なく母が買ってくれた牛乳を一口飲んで吐出してしまったことがあったのである。「そらごらん。」と母から云われたようである。おそらく、それまでにも母が一度ならず牛乳を与えても、私は嫌って飲まなかったのだろう。窓の外を通りかかったものが、常々自分が嫌っているものだとは知らず、私はしつこくせがんだのだろう。そのとき私は子供ながらにひどく懲りたらしく、その後かなり長いあいだ私は牛乳を毛嫌いしていた。私は牛乳を飲まず、母乳だけで育った子供のようである。瀬多屋という菓子屋と私の家は懇意にしていたようで、その後東京へ帰ってからも、その家のうわさがよく出た。瀬多屋の主人は私を可愛がってくれたそうである。
私が五つになった年に、父は文楽座を退いて、私達一家は東京へ帰った。鮨屋の娘で同じ年頃の女の子がいて、私と仲よしで、私が東京へ帰ることを聞かされて泣いたそうである。後になっても、その話を聞かされた。私はその女の子のことを少しも覚えていない。私達は夜汽車で大阪を立ったようである。夜の道を俥を連ねて停車場へ行った。私は母の膝に抱かれて俥に乗っていたのだろうが、前をゆく俥の後姿が眼に残った。発車前に、見送りにきてくれた人が、男の人が思いついたように駅弁を買って窓口から入れてくれたことを覚えている。その人が瀬多屋の主人であったと私は記憶してきている。東京駅から自動車で家に帰った。それが私が自動車というものに乗ったことを記憶している最初である。電車通りを行ったことを覚えている。自動車には出迎えにきてくれた年寄の女の人が同乗していた。それは祖母だったらしいのだが、その後祖母と一緒に暮すようになってから、私にはどうもその年寄が祖母とは別の人だったような気がしてならなかった。その日は旗日で、家の玄関の前に国旗が掲げてあったのを覚えている。私の家は吉原遊廓のはずれの俗に水道尻という処にあったのだが、検査場(吉原病院)の方から太鼓の音のようなものが聞えてきて、私はそれを気にして久し振りに帰ってきたわが家の玄関を頻りに出たり入ったりしたようである。
東京に帰ってきてからも、しづやはしばらく私の家にいた。なかやという兄の子守もいたが、なかやはしづやよりも早く暇を取ったようである。兄と私はその頃根岸にあった幼稚園に通った。私の家から廓外へ出るには、検査場裏の裏門が近かったが、そこは昼間は締まっているので、私達は幼稚園へ通うのに、京町一丁目の番屋を抜けておはぐろ溝に架かった刎橋を渡って竜泉寺町へ出た。その頃は、廓の周囲をとりまいていたおはぐろ溝はまだ埋められていなかった。三島神社のある通りに出て、永藤という屋号のパン屋の横町だったかの狭い露地を通りぬけると、そこはもう根岸で幼稚園は鶯谷へ出る途中のやっちゃ場(青物市場)の近くにあった。しづやに附添われて行った。私ははにかみやで、はじめは、運動場で組に分れて紅白の毬を立てた棒の先にとりつけてある網の中へ投げ入れる競技などを、ほかの子供達と一緒になってやることが出来なかった。私はほかの子供達が活溌にやっているのを、ひとり手をつかねてきまり悪そうにただ見ていた。後でしづやから、なぜ一緒にしなかったのかと云われた。そのうち私も慣れてきて、先生が弾くオルガンの音に合わせて輪になって歩きながら、自分ひとり草履の爪先で歩くような真似をした。附添の人達が見ている前で。後で私は先生から叱られ、懲のために教室の戸棚の中へ閉込められた。このことは、後になっても、一つ話のように家の者から聞かされた。戸棚の中で私が唱歌をうたい出したので、先生が呆れて私を戸棚から出したと、そんなふうに家に帰ってから、しづやが家内に披露したようである。私には自分が戸棚に入れられた記憶はあるが、果して唱歌をうたったかどうかはっきりしていない。しづやの話におまけがなかったとすれば、私は戸棚の中に入れられてはじめは心細かったに違いないが、そのうち退屈してきて思わず歌をうたったのだろう。あるとき先生が、雨はどのように降るかと私達に質問した。たしか雨の日で、教室の窓硝子越しに雨の降るのが見えたように覚えている。私は雨は横に降ると答えて、先生やみんなから笑われた。私には腑に落ちなかった。窓硝子越しに見える雨は、風があったのだろう、少しく斜に降っていたから。ある式日に、兄は洋服を着て行ったが、私は臙脂色の女物の袴をはいて行った。それは他家に嫁いでいる叔母(父の妹)が、子供の時分にはいたものであった。私には長すぎたので、たっぷり上をしたやつを、私ははいて行ったのである。私も気がすすまなかったのだが、祖母が強いてはかせた。子供心にもなんとなく変に思われ、女物ではないかという気がされたのだが。格別みんなからからかわれたというわけではなかったが、その日幼稚園にいる間私は気持がはずまなかった。幼稚園の先生は女の先生であった。「おこうや」の先生というのを覚えている。その先生のたしか左の上顎の辺に、小さな膏薬を貼ったほどの痣があった。私は痣というものを知らず、先生が膏薬を貼っているのだとばかり思い、「おこうや」の先生と呼んだ。先生の痣は、その頃生薬屋で売っていた万金膏という膏薬を貼ったように見えたのである。私の記憶ちがいでなければ、角町の稲本楼の帳場でもこの膏薬を売っていて、私はいちど買いにやらされた覚えがある。「おこうや」という云い廻しには大阪訛が雑っているかも知れない。私は大阪から帰った当座、しばらくはその訛がとれず、兄からよく笑われたそうである。父や母はずっと後になっても、時々会話に大阪弁をまぜていた。私は「おこうや」の先生に抱かれて、その痣をふしぎそうに指でなでたことを覚えている。まだ年若な色の白い人であったような気がしている。幼稚園へ行く途中にあった子供相手の文房具屋で、かねて欲しいと思っていた蝋しんこというものを買ってもらい、自分の指の力ではそれを柔くすることが出来ないので、幼稚園での休憩時間に運動場の隅のベンチで附添同士話しているしづやのもとへかけつけて、柔くしてもらったことなどを覚えている。しづやが私の家から暇を取ったのは、幼稚園へ通っている間であったようである。幼稚園の終りの頃には、私は年寄の婆やに附添って行ってもらうようになったから。しづやが私の家にいた間のことで覚えていることが一つある。その頃私はひとりでは廓外へ出たことはなかったが、ある日ひとりで京町二丁目のはずれのおはぐろ溝の際にあった、ふだん私の家で浅草方面へ行く場合に使用させてもらっている小林と云う仕舞屋の土間を通りぬけて廓外へ出て、小松橋の方まで行って木刀を買って帰り、水道尻のとば口にあった共同便所の前で、さかんに振り廻していたら、通り合せたしづやに見つかってうしろから目隠しをされたことがあった。しづやは十五六からはたち頃まで、私の家にいた。健康体で、太っていて、豊頬で、血色がよく、細い眼をしていた。しづやの家は吉原土手の向うにあって、べつに縁つづきというわけではなかったが私の家とは同姓で、またしづやの弟は私の兄と同年で、同じく土手向うの待乳山小学校に通学していた。なかやもしづやも、私の家を暇取ってからも、時々顔出しにきた。しづやの後にきた婆やは、それほど長くは家にいなかったようである。婆やに連れられて幼稚園へ行く道すがら、私は空にある雲を指さして、あの雲が西洋の国へ行くと、西洋の国が昼になって、そして日本が夜になるのだということを婆やに教えた。婆やは本当のことを聞いているようなまじめな顔つきをしていた。どうやら、幼稚園というところは子供にそういうことを教えるところだと思い込んでいるようであった。米騒動の事件があったとき、吉原もそのとばっちりのようなものを受けた。そのあくる朝、まだ寝ている私の枕もとに婆やがきて、昨夜騒ぎがあったことを告げて、まさかのときには私を連れて逃げるつもりであったと話した。私はいつも夜は早く寝かしつけられてしまうので、なにも知らなかったのである。騒ぎの跡を見に行ったら、京町一丁目のある店の鎧扉の下りた鉄格子の間に煉瓦が押し込んであった。軒灯が毀されているのもあった。裏門のところには、騎馬巡査や銃剣を持った兵隊がいた。私は子供の頃、鮪の刺身を御飯のうえにのせてそれに湯を注いで食べるのが好きだった。いちど誰かがそうして御飯を食べさせてくれたのが、ひどく私の気に入ったのであろう。湯を注ぐと、赤い色の細身が白っぽい脂身のような色に変った。私はそれを、誰かから聞いたのだろう、しぐれと呼んで、おかずが刺身のときは、いつもそうして食べた。吉原のお祭の晩に、六畳の蔵座敷で、婆やからしぐれ御飯を食べさせてもらったことを憶えている。
小学校の入学式の日には、私の祖母に連れられて行った。帰りに吉原土手の下にあった汁粉屋に寄った。上が畳敷になっている縁台に腰かけて汁粉を食べながら祖母は、兄が入学したときにも、その帰りにはここで汁粉を食べたのだという話をした。私は行灯袴をはいて、兄のお古の鞄を肩に掛けて、赤い色の草履袋を手に提げて学校へ行った。私には鞄がお古であることよりも、草履袋の色が赤いことの方が気になった。最初の授業がある日に、学校へゆく途中私がひとりで仲の町を歩いていると、一人の新入生を交えた二三人連れの顔知りの上級生が通り合わせて、上級生の一人が私の袴の紐に下げてある手拭のうえに書いてある組名を見て、私の組は昼組だと云った。その頃、午前中に授業を受ける者のことを朝組と云い、午後から行く者のことは昼組と云った。上級生からそう云われて私は迷った。そのまま聞かないふりをして学校へ行く勇気は私にはなかった。私はすごすごと家に引返して、上級生から昼組だと云われたことを家の者に告げた。家の者は、先生はどう云ったのかと私に尋ねた。先生は朝組だと云ったのである。家の者から先生が云うのが正しいと聞かされて、私はまた学校へ行ったが、心細くて泣きたいような気持であった。私はやはり朝組であった。それでもいい塩梅に遅刻はしなかった。上級生はいたずらな気持から、私にそう云ったのであった。兄は私にはかまわずに自分だけ先へ行ってしまったのだろう。その後も私は学校へゆくのに兄と連れ立ってゆくことはあまりなかった。私は子供のときは腰巻をまいていた。その頃は男女共に腰巻を纏う習慣がまだ廃れてはいなかった。それでも子供も学校へ行くようになれば、もう腰巻はしていなかった。兄も腰巻から猿股に変っていた。私も腰巻は嫌だったが、けれどもお前はまだ小さいのだからと云われて、依然腰巻をさせられていた。私の遊び友達もみんな猿股をはいていた。私は戸外で立小便をするときなど、自分だけ腰巻をしているのが恥しくてならなかった。学校で身体検査があったとき、目方を計るときに私は腰巻を外して真っ裸になった。同級生の見ている前で、腰巻姿で秤の上にあがるよりは、真っ裸の方がまだよかったから。ある日、吉原公園の池の際にあった吉原の鳶頭の家の前で友達と遊んでいたときに、私はそこに転してあった土木作業に使う鉄の重石のようなものを、過って右足のうえに落した。足の甲が腫れあがって指の股がひっついてしまった。たいした怪我ではなかったが、私は足を引摺らずには歩くことが出来なかった。直るまで学校は休んでも差支えはなかっただろうが、家では私を休ませなかった。その頃父のもとに内弟子にきていた春さんというはたちあまりの若者の背に負われて私は学校へ行った。体操の時間に私が繃帯をした足を引摺って歩いているのを見て、先生が私を列外に出して休ませた。私は運動場にある号令台に躯をよせて佇んで、同級生が元気よく行進しているさまを眺めていた。私は自分ひとり落伍しているのが、きまりが悪くて仕方がなかった。私のそばを通る際に、嘲弄してゆく生徒もあった。後になっては私も、もっと些細な怪我でも、それを理由にして体操をなまけたこともあった。
婆やの後にきた女中はえつと云った。えつやは叔母の嫁ぎ先の縁故で私の家にきたのであった。年頃は十六七であった。えつやの髪に虱がいっぱい集っていたことを、母が呆れたように云っていたのを覚えている。家の玄関には大きな姿見が置いてあった。その前で、私はえつやから帯の間に新聞紙を折りたたんで心代りに入れることを教えられた。えつや自身そうしていた。私は新聞紙を挟んで幅広に帯を締め、そのうえに袴をつけて腹のとびでるほどにきつく紐を結んで、そうして学校へ行った。私はえつやに本を読んでもらった。えつやはいつもいやな顔をしないで読んでくれた。「深夜の人」「虎の面」などという西洋の活劇物や水戸黄門漫遊記などの類であった。えつやは西洋人の名前を読み損うことがあった。けれども私はえつやの朗読に殆ど満足していた。家では河鹿を飼っていた。湯河原かどこかで捕獲したものであった。夏になると、金網の中に放して縁先へ置いた。金網の中で、河鹿はその形に似げない可愛い声を出して鳴いた。私ははじめ河鹿の声を虫が鳴いているのだと思っていた。河鹿が鳴いていると家の者が云っても、私はかじかという虫が庭のどこかで鳴いているのだと思い、その声と金網の中にいる小さい醜い生物とを一つにしては考えなかった。私は金網にとりついている河鹿の腹を指さきで押して水の中に落したり、金網越しに如雨露の水をかけたりした。餌には蠅や油虫をやった。揚屋町のある台屋に、その料理場に繁殖したものだろう、油虫をもらいにやらされた覚えがある。冬の間には河鹿を大きな瓶の中に入れてうえから海綿をかぶせ蓋をして湯殿の隅に置いた。瓶の中で河鹿は冬眠したのだろう。夏になって瓶から出そうとしたら、沢山いたやつが一匹残らずいなくなっていた。誰かが瓶の蓋を動かした形跡があり、その隙間から河鹿は逃げたものらしかった。犯人はすぐわかった。えつやであった。えつやが湯に入ったとき、こっそり海綿を取出してそのあとよく蓋をしておかなかったのである。えつやも年頃であったから、海綿で顔を磨きたかったのだろう。ある日私は学校の帰りみちに鞄から筆箱を落した。家に帰ってから気がついた。道に落ちているだろうから探してこいと祖母が云った。誰かが拾って交番に届けてあるかも知れないから聞いてこいと云った。私はえつやに附いてきてもらった。往来には見あたらなかった。私は交番へ行ってお巡りさんに聞くのは恥しかったので、えつやひとりに行かせた。土手下の見返り柳の向い側にあった交番の手前で、私はえつやにお巡りさんに云うべき台詞を伝授した。うちの坊ちゃんが筆箱を落したのですが云々という台詞であった。えつやはまじめな顔をしてうなずいた。交番に筆箱は届けてなかった。私の家では子供は早く寝る習慣であった。夕飯を食べてしばらくすると、兄と私は湯に入れられそして寝かしつけられた。戸外で友達と遊んでいて漸く遊びが佳境に入るところで、よく連れ戻された。私が後に心を残して迎えにきたえつやと一緒に帰ると、先廻りをした友達が不意に物陰からあらわれて私達を威した。
二年生のときだったと思う。ある日私は放課後ひとり教室に残されて、先生から説諭された。その日大阪おばあさんが学校にきて、私が我儘で家の者の云うことをきかず、また日頃貝独楽やめんこ遊びに夢中になっているということを先生に告げたのであった。「先生はお前のことをおとなしい良い子だと思っていた。」と先生は私に云った。先生からそう云われて私も恥しい気がした。貝独楽やめんこ遊びは良い子のすることではないと私も思っていたから。けれども家の者がわざわざ学校にきて先生に告げなければならないほどの行状を自分がしているとは私には思えなかった。私には大人のやることが納得できなかった。私が先生から説諭されている間に、小使さんが教室の掃除をしに入ってきた。先生は小使さんをかえりみて、さっきこれのお祖母さんがきてねというようなことを云った。私は先生に大阪おばあさんを祖母だと思われたことが恥しくてならなかった。私はふだん大阪おばあさんを子供心に侮っていたし、また大阪おばあさんは貧相で少しも立派ではなかったから。私は祖母にも親しみを感じていなかったが、それでも大阪おばあさんよりは祖母の方が、私の虚栄心を満足させるものを備えていた。大阪おばあさんは家では玄関脇の四畳半に寝起きしていた。そこは女中部屋に次いで薄暗い感じがした。多分大阪おばあさんの持物だったろう、小さな古ぼけた鏡台が置いてあったのを覚えている。大阪おばあさんはもう七十位ではなかったかしら。多少耄碌している感じであった。少しは三味線を弾けたようで、父のもとにくる女弟子に稽古をつけていたこともあった。あるとき、御飯を食べていたときに私は大阪おばあさんがどんぶりの中に洟をたらしたのを見つけた。私がそれを云ったら、大阪おばあさんは頑固に否定した。私は母からたしなめられたようである。大阪おばあさんが座を立ってから、祖父はどんぶりの中のものを捨てさせた。
家の門口には父の名の標札のほかに祖父のも懸かっていた。祖父の姓は私の家のではなかった。祖父と私達とは血の繋りはなかった。祖母との間に父を設けた人が離縁になってから、祖父がきたのである。祖父は私の家と籍を別にしていて、菩提所なども違っていた。他家に嫁いでいた叔母は祖父と祖母との間に生れた人で、この人は家にいたときは祖父の姓を名乗っていた。嫁ぎ先が牛込原町にあったので、この人のことを私達は原町の叔母さんと呼んでいた。父と叔母はそんなに年の隔りはなかったから、祖父が私達の家にきたのは父がごく幼かったときのようである。祖父は私が四年生のときに死んだが、祖父の死後、樺太のおじいさんという人が尋ねてきたことがあり、子供の私達も引合された。けれども私はその血の繋りのある人に対して、その後も続いて疎い気持しか起きなかった。そのときの印象に格別のことがあったわけではなく、ただ私の気持の中だけで常に見下すものがあった。祖母とその人とのことを母が口汚く云った悪口が、子供の私の心に侮蔑の念を喚んだのである。祖母はその人に対して相当酷い仕打もしたらしいのだが、祖父が死んで、またその人を家に迎えたりしていたのである。樺太のおじいさんのもとからは、折にふれて海産物の小包が送られてきた。私の家はもと京町二丁目で貸座敷業を営んでいて、一時祖父も三業取締の役員をしていたようだが、ちょうど私が生れた年にあった吉原の大火以後廃業したのである。祖父は相当な喧屋のようであった。煮物の味加減なども気難しかったらしく、自分で台所に出てきて鍋の蓋を取って験していたのを、私も見かけたことがある。左の二の腕に桃の実の小さい刺青をしていた。骨董道楽で、家には祖父の蒐めたものがかなりあったが、震災のときに焼失した。子供のときに眼に触れた感じだが、いまその記憶を思い起してみても、祖父の趣味はまんざらでもなかったような気がする。器用な質だったらしく、兄や私のためにも、木片に船を彫ったり、竹細工に渋紙を張ったりなどして飛行機の模型を作ってくれたりした。私の家の裏に私の家の持家である長屋があったが、その一軒に祖父の弟にあたる人の一家が住んでいた。大阪おばあさんにしろ、またその弟の人にしろ、共に祖父が呼び寄せたのだろうが。弟の人は彫金をやっていたが、母の口振りによると、腕の確なわりには不遇であったようである。一家は貸座敷の新造をしていたおかみさんと浪江と云う年頃の娘との三人暮しで、ほかにどこやらに奉公していた太郎と云う少し人並でない長男があった。私にはおかみさんのかおかたちがいちばんはっきり思い出される。貸座敷の新造によく見かけるタイプの人であった。弟の人は痩形の色の黒い、どことなく沈鬱な感じの人であった。若しもこの人の顔が明るい感じのものであったなら、その男ぶりももっと引立って見えたに違いない。毎日父のもとに義太夫をやりにきていた。浪ちゃんは顔は母親似で、おとなしい内気な感じの娘であった。浪江だなんてまるで小説にでも出てくる人の名のようだと母が幾分冷笑ぎみに云ったのを覚えている。私は裏手の縁側の方から、浪ちゃんが針仕事などをしているところへよく遊びに行ったものである。ある日置き忘れてきた絵本を取りに行ったら、めずらしく太郎さんがきていて絵本を手にして見ていた。浪ちゃんは太郎さんのことを私の手前恥るけしきで、私の気を兼ねるように「貸してあげて下さいね。」と云った。浪ちゃんは湯は私の家に入りにきた。私は浪ちゃんと一緒に湯に入りながら、わざと恥がるようなことを口にして、浪ちゃんを困らせた。私はすぐ倦きてやめてしまったようだが、浪ちゃんのお父さんから習字の稽古をしてもらったことがある。ある晩、家の茶の間で祖父と大阪おばあさんと浪ちゃんのお父さんの三人姉弟が顔をそろえたことがあったが、祖父と浪ちゃんのお父さんが不意に立ち上って腕力沙汰に及んだ。浪ちゃんのお父さんが大阪おばあさんのことを悪く云ったのを祖父が聞き咎めて浪ちゃんのお父さんを擲ったのである。おかみさんがきて浪ちゃんのお父さんを連れて帰った。あとにおかみさんの櫛が落ちていた。私は櫛を届けにやらされた。縁側の方から行って障子越しに私が櫛を持ってきたことを告げると、うちからおかみさんが「ご苦労さん。」と云った。私はほっとして縁先に櫛を置いて帰ってきた。