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こないだ電車の中で新国劇の「大菩薩峠」上演の広告ビラを見かけた。中里介山居士追善興行としてあった。この芝居の上演も久し振りな気がする。介山居士は戦争中、生れ在所の西多摩郡の羽村で急逝された。あれは何年のことであったろうか。救世軍の秋元巳太郎氏が葬儀委員長をされたという簡単な新聞記事を読んだ記憶がある。逝くなられた月日のことを私は覚えていない。また今年は何回忌に当るのか、それも知らない。
私は嘗て介山居士の「千年樫の下にて」という随筆集を愛蔵していた。見返に居士の筆で「質直意柔軟」と書いてある。私の愛読書の一つであったが、手許不如意の折に、鳴尾正太郎君がくれたフランシス・ド・サールの書簡集と一しょに、ほかの本とまとめて売り払ってしまった。私には介山居士という人はなんとなく忘れ難い人である。そうして居士のことを憶うときにはまたいつも鳴尾君のことを憶う。
最早十余年の昔になるが、私は一時、介山居士の経営になる羽村の西隣塾にいたことがある。早春から秋ぐちにかけての半歳ほどの間であった。私はすでに二十五歳にもなっていて、最早親の臑を齧っているのも工合が悪くまた家庭の事情もいつまでも私を養うわけにはゆかなくなっていた。羽村にゆく前日本橋の本町にあった大菩薩峠刊行会の事務所で初めて会った時、介山居士は云った。「瞑想したり、近隣の山野を散歩したりし給え。」
三月の上旬であった。立川で青梅線に乗り換えて羽村で下りた。生えはじめたばかりの麦畑や枝の芽吹いていない桑畑が見えて、まだ雪の消えずに残っている武甲の山脈が眼に迫ってくる感じだった。土地の人が「記念館」と呼んでいる西隣塾の文化瓦の赤い屋根が突き当りに見える、桑畑の間の一本道を歩いてゆくと、前方から自転車が走ってきたが、私を見かけると飛び下りた。
「小山さんですか?」
「そうです。」
「中里先生から通知がありました。待っていました。右手に建物が見えますね。あれは印刷所ですが、あそこに皆さんいますから。」
それが鳴尾君だった。鳴尾君はそこまで買物にゆくがすぐ帰ると云って、また身軽に自転車に飛び乗った。十七八の少年に見えた。黒の、ボタンも黒のだぶだぶな詰襟服を著ていて、眼のクリクリした、熊の子のような可愛い顔つきをしている。私は振り返って走ってゆく自転車の後姿を見送った。鳴尾君の微笑がとてもよかったからである。「クオレ」の中に出てくる少年のような印象を受けた。
印刷所の戸を開けると上端にストーブがあって、二人の人がちょうど一服しているところであった。介山居士の甥御さんに当る村木さんと田中澄徹さんであった。私は村木さんの顔を見てなんだか見覚えがあると思った。すぐ思い当った。聖徳太子に似ているのだ。国定教科書の挿絵にある太子像によく似ているのだ。あの肖像はばかに頸長に描いてあるが、村木さんの頸が丁度あんな工合であった。村木さんもいまは子供さんの三四人はある家庭のいいパパに成り澄ましていることであろうから、私が頸長などと云っても、まさか縁起を担がれるようなことはあるまいと思う。私はまた田中さんの顔を見て、子供の時分家の違棚に飾ってあった木彫の鬼の念仏を思い出した。
「すぐわかりましたか?」と村木さん。
私が頷いて、そこで鳴尾君に逢ったことを話すと、そのさい私が口にした若い人という言葉をきいて、
「若い人には違いないんですが、いくつだと思います?」
「さあ? 十七八じゃないんですか。」
「二十三ですよ。」
「若いなあ。」
そこへ鳴尾君が帰ってきた。鳴尾君はお茶請を買いに行ったのであった。鳴尾君の買ってきた饅頭を食べながら、
「いま、小山さんがね、そこで鳴尾君という可愛い少年に逢ったって話をしていたところだ。」と田中さん。
鳴尾君はまた子供のような微笑を見せて、
「小山さんはおいくつ? 検査はすんだの?」
私も笑いながら、
「ええ、検査はすみました。二十五です。」
「それじゃあ、僕よりお兄さんですね。若いなあ。」
私達は顔を見合せて笑った。私もふだん人から年少に見られる方ではあるが、鳴尾君の飛び抜けた若さには一驚を喫した。村木さんはまた私より二つ上の二十七であったが、私達が幼いせいか、ぐっと老けて見えた。この西隣塾のいわば留守居役であり、また印刷所の主任であった。田中さんはもう三十を越していて子供もある人で、近くの多摩河畔にある小山の麓に住んでいて、毎日自転車に乗って塾へ通ってきているのであった。
夕刻オート三輪車に乗って東京から介山居士が到着した。その頃介山居士は東京に十日羽村に七日という風に、居士の言葉を借用するならば、水陸両棲動物のような生活をしていた。東京羽村間の往復には最初オート三輪車を使用していたが、まもなく当時流行しはじめたダットサンを購入された。運転手は大竹さんと云って私達と同年配の人で東京の居士の家に夫婦で住み込んでいた。村木さんは器用な人で小型の運転が出来るので、居士が羽村へやってくると、大竹さんが東京へ帰るまでの時間を、私達はあちこちダットサンを乗り廻したものである。介山居士は大竹さんのことを「重兵衛、重兵衛」と呼んでいた。けだし先代貞山の読物に出てくる大竹重兵衛を連想されての愛称である。私は大竹さんに頼んで、駅留になっている私の夜具布団を、三輪車に乗せてもらって塾まで運んだ。介山居士はうどんを食べようと云って、五十銭銀貨を鳴尾君に渡した。鳴尾君は自転車を走らせた。東京の相場しか知らない私は、五十銭でいくらうどんが食えるものかと思い、あるいは介山居士という人は吝嗇なのであるまいかとひそかに心配したりしたが、やがて鳴尾君が帰ってきて、さて食べはじめてみて驚いた。一枚の五十銭銀貨は六人の大人がバンドをゆるめてかかっても食いきれないほどの大量のうどんに化けていて、鳴尾君と私は翌朝の食事もそれで済ましたほどであった。
その頃西隣塾には五棟の建物があった。文化瓦の赤い大きなのが本館で、ここには「大菩薩峠」に関するいろんな記念品が飾ってあった。記念館の称のある所以である。本館に向って右手に印刷所。ここで介山居士の著書や機関誌「隣人之友」の活字を組んだ。輪転機がないので印刷は東京の印刷屋でやってもらった。本館の裏手に草葺の家がある。この家は武州高尾山の妙音谷にあった居士の草庵をそっくりそのままこの地に移したもので、当時村木さんが住んでいた。耕書堂というのがあった。これは図書蔵で本館から渡り廊下が附いていた。その奥に居士が羽村に来た時に寝起する瓦葺の小庵があった。居士は羽村へ来るとこの小庵で自炊の生活をした。自分で畑の葱など抜いてきて汁をつくったりしていた。私達は居士は居士、村木さんは村木さん、そうして鳴尾君と私という風にめいめい勝手にやっていた。鳴尾君と私は始は二人かわりばんこに飯を焚いたが、そのうち私は横著を極め込んで、いつのまにか鳴尾君ひとり女房役に廻るようになった。鳴尾君は前年の十一月の末にここへ来たので、私より三月先輩というわけであった。
鳴尾君と私は本館の三階と云うと体裁はいいが、実は屋根裏に寝た。「ひどいとこですよ。」と鳴尾君は幾分気づかわしげに私の顔色を窺ったが、私がさらに辟易した様子を見せぬので安心したようだった。私は衣食住には無関心な方なので、野蛮な生活様式はむしろ望むところである。私は細長い屋根裏のまんなかへんに柔道用の畳を三畳がとこ敷いて、そこを塒にした。鳴尾君はまた窓際に陣取っていた。「寒くないですか?」と訊いたら、「星が見えるから。」と風流なことを云った。窓の外を凩が吹く音をききながら寝ていると、自分が非常な高処に巣をつくっているような気がしてきて妙だそうである。また樹上に坐禅を組んだという栂尾の明恵上人のことが偲ばれるという。私はまた当時流行していたジャングル映画に出てきたなんとか族の土人が樹上に住居を営んでいたことを思い出したりした。私はこれから始まる自分の生活のことよりも、鳴尾君のような人がよくも鼠にも曳かれずにこんなところに独り暮してこられたものだと思った。
話し合ってみると鳴尾君と私にはふしぎな縁故があった。私は十八の年に故高倉徳太郎先生から洗礼を受けた。当時の私にとっては基督教イコール高倉であった。それほどに私は一時先生に傾倒した。が、二十の年にはもう教会から離籍して浪人してしまった。私はズボンのポケットに無造作に突込んであった金を散歩の途上で落してしまったように、いつのまにか信仰を失くしてしまっていた。鳴尾君もまた二十の年に高倉先生から洗礼を受けた。そうしてその頃は高倉先生が校長をしていた東京神学社の学生であった。大竹重兵衛氏の説によれば失恋に由来する神経衰弱で一時休学しているのだということであったが、しかし失恋のことは措いて、鳴尾君のわだかまりのない微笑は、神経衰弱なんかとは縁のないものに見えた。「いいえ、わがままなんです。」と鳴尾君は言葉少に云うだけだった。高倉先生の消息を尋ねると、いまは郷里の綾部で病を養って居られるということだった。そうしてこの方はほんとの神経衰弱らしかった。鳴尾君は高倉先生のことが心にかかる風で「掛替のない人だから。」と云った。私はそういう鳴尾君にいきなり心が寄せられた。
私達はすぐに隔のない仲になった。鳴尾君は私のことを「案山居士」などと云った。山田の中の一本足の案山子のことである。勿論鳴尾君は口から出まかせを云ったのでなんの意味もないのだが、しかし私はそんなものに似ているわけはなかった。彼は頓馬で、哀れで、笑止千万な奴ではあるが、それでも少くとも雀威しの用には立つ。私には自分がなんによらず物の役に立とうなどとは思えなかった。私は自分を一本の焼木杙だと思っていた。誰だか知らないが白い衣を著たへんな人が丑の刻参りをして、私に象った人形に呪いと共に瞋恚の釘を打ち込んでいるのではあるまいかという妄想に襲われたりした。私にはしばらく前から睡眠中にギリギリ歯軋を噛むいやな癖がついてしまっていた。私こそ神経衰弱かも知れなかった。私は鳴尾君のことを「贋牧師」と呼んだりした。鳴尾君は黒の色が好きらしかった。小柄な躯にいつも黒のだぶだぶな服を著ていたが、そのだぶだぶなところがまた気に入っているらしかった。「僕は窮屈なのは嫌いなんです。」と云っていた。鳴尾君の外套というのがまたひどく特徴のあるものであった。やはり黒い色の、丈は恐ろしく短いが、身幅はまた恐ろしくたっぷりしている、外套というよりもマントに近い感じのものであった。そのうえ帽子がまたふるっていた。ウェイクフィルドかステパンチコヴォの村長さんでも被りそうな黒の小型の山高帽子というよりは、お椀シャッポに短い縁をくっつけたようなへんてこな代物であった。穿く靴がまたよかった。ボタンで止めるのでもなければ、紐で括るのでもない、ゴムの帯が附いていて、すぽっと足の入るやつ、あれであった。頭の天辺から足の爪先まで黒一色、宛然牧師の卵の如きものが出来上ったが、それが決して滑稽でなかった。偶然に寄せ集められたのではなくそこに鳴尾君の好尚がはたらいていたからではあろうが、なにか人柄にぴったり嵌っていて一分の隙もなかった。詩人の身嗜と云ったようなものさえ感じられた。私は鳴尾君におしゃれの天稟のあるのを察知した。恐らく年頃の娘さんはこういう可愛い牧師さんから祝福を授けてもらいたくなるのではなかろうか。鳴尾君はときたまそんな扮装でいそいそと青梅の町などに出かけたりしていた。私はそういう鳴尾君を「贋牧師」と呼んだ。鳴尾君はいつも持前の柔和な微笑で応じた。鳴尾君の意識に厭味な文学趣味など毛ほどもなかったことは云うまでもない。私はまた鳴尾君のことを時に「讃美歌牧師」と云ったりした。鳴尾君の声は純粋のバスだった。印刷所で文選をしながら詩吟をしたり讃美歌をうたうことがあったが、そういう時私達は思わずきき惚れた。そういう人を惑わす技倆を持っているからにはいよいよ贋牧師の資格があると云ったら、鳴尾君は真面目に「ええ、神学社の寄宿舎では僕が一番讃美歌が巧いんです。」と答えた。恐らく鳴尾君の讃美歌は天上のエホバの御座にまでとどいたことであろう。私は時に鳴尾君の祈祷の姿を瞥見することがあった。鳴尾君は私達の眼につかぬようにつとめて気をつけていたようではあるが、そういう時私は自分が大事なものを失くしてしまったような気持になった。隠れたるに見給う神に祈を捧げている鳴尾君の姿には、使徒トマスとかアンデレとかを彷彿させるものがあって、私はひどく心をそそられたのである。バンカラな不良学生がお行儀のいい優等生にふと感ずる郷愁のようなものかも知れなかった。