2
私達塾生の日課は主として印刷所で介山居士の著書や雑誌「隣人之友」を組むことであった。輪転機がないため印刷することが出来ないので、植字したやつをその都度大竹さんが東京羽村間を往復して印刷屋へ運搬した。植字は専ら村木さんがこれに当り、鳴尾君と私の二人が文選を受け持ち、田中さんは近眼だったので主に解版の仕事をやってもらった。私は日ならずして文選の仕事に熟達した。旬日を出ずして一日に九ポで八箱は拾えるようになった。自分でも意外であったがはたの人も驚いた。この仕事はあるいは自分の性に適するかも知れないと思ったが、しかし私の能率はそれ以上は決して上らなかった。一月立っても二月立っても同じであった。私の遣口にはどことなくもたもたした覚束ないところがあって、鳴尾君と比較すると、どうしても正確さや敏速さに欠けていた。二人で何度か競争もやったが、いつも負けた。自分のやることはいつもこれだ、決して番狂わせはないんだ、自分はやっぱり駄目な奴だ、焼木杙だと思った。
「僕は駄目なんだ。わかっているんだ。」
「そんなことはない。」
「誰かが丑の刻参りをして僕を呪っているんだ。」
鳴尾君は噴きだして、
「まさか、そんな、机竜之助ではあるまいし。小山さんのようないい人を呪う人なんかいるものですか。」
「そうかしら、僕はいい人かね。僕は買物をしても嘗て一度も有難うって礼を云われた験がないんだ。僻まざるを得ないね。」
鳴尾君はまた笑って、
「それはひどいな。ほんとですか。しかしそういう受難は聖者の生涯には附きものですね。人に賤しめられ擯けられてこそ聖者でしょ。まあ癩病人みたいなものだな。誰もその毫光には気がつかない。」
「なんだ。そんな子供みたいな顔をしていて、それでもお世辞の一つ位は云えるんだね。贋牧師の本性紛れもないな。」
「いいえ、僕はほんとうにそう思っているんです。小山さんは生涯の終にはきっとこういう風になりますよ。」
鳴尾君は眼をクリクリさせながら、指で頭の後に円を描いて見せた。
日曜日が来る毎に私達は印刷屋から日曜学校の先生に早変りした。本館の二階の大広間を開放して教場に使った。生徒は村の子供達だった。たいして面白いものでもなかったのだが、それでも大勢やって来た。介山居士は子供達のために毎週短い感話を書いた。私達はそれをカードに印刷して子供達に配った。多くそのときの季節や月日に因んだ話であった。彼岸のことや屈原についての小話があったのを覚えている。私を除いた三人の先生が話をした。私にはとても有象無象を前に控えて話など出来なかった。カードの文章を読んでそれを子供達に読ませるのがやっとだった。私はいまはそれほどでもないが、昔はひどいはにかみやでなにかと云えばすぐ処女の如くはにかんでしまったものだ。たまには介山居士が話をすることがあった。居士は子供達に多摩の河原からめいめいの好みの石を拾ってこさせてそれの品評をしたりした。居士は掌に一つ一つ石をのせて、この石は大へん奇抜な形をしていて面白いようではあるが、こういうものはすぐ飽きてしまって長くは私達の心を惹かない、この石は見た目は平凡でつまらないもののようではあるが、よく見るとこの素直な形には汲めども尽きない味わいがある。そんな風に話した。鳴尾君は話が巧かった。多く聖書の話をした。ノアの方舟の話、イエスの誕生の日の厩小屋の話、エマオの途上の話など記憶に残っている。ノアの方舟の話は傑作だった。鳴尾君は大混雑の方舟に乗り合せているいろんな動物の心理描写をやってのけたのだが、そのユウモラスな話し振りには子供達は大喜びであった。私は鳴尾君に文学の才能があると思った。
「童話を書いてみたら。」
と云ったが、鳴尾君は否定して、
「僕は子供が好きなんです。くにへ帰って小学校の先生になろうかとも思っているんです。教会の日曜学校にも出たことがあるけれど、ここの子供の方がいいですね。野育ちの方がいい。都会の子供はなんて云うか子供の癖に文化的な厭味みたいなものがあって。ここの子供は暮しは貧しいようだけれど、皆んなのびのびしていますね。話をきいていると面白いですよ。明るい機智に富んでいて。生活の智慧と云ったようなものさえ芽生えていますね。前にこの屋根裏へ上ってきて僕の寝床を見つけて、なんて云うかと思ったら、なんだ雀の巣かと思ったら人間の巣でやがんのだって。面白いことを云うでしょ。」
そういう鳴尾君は子供達から慕われていた。鳴尾君の机のまわりは子供達からおくられた図画や習字が一ぱい飾ってあった。
「あんまり殺風景だから子供の絵でも貼りつけてやろうと思って無心をしたら、こんなに沢山持ってきてくれたんです。子供なんて自分の持っているものを一ぺんに出してしまわないと気がすまないんですかね。」
「僕がそうなんだ。」
「ええ、実は僕もそうなんだ。」
二人は顔を見合せて笑った。なんと云っても私達は二人共に年が若かったのである。子供達に心を惹かれていることが、鳴尾君の滞在を長引かせている原因の一つであることは間違いなかった。
私はこの屋根裏部屋で「鸛物語」という習作を書いた。鸛が揺籃へ置いていった子供、若い日のアンデルセンのことを書いた。鳴尾君に読んでもらった。「僕は好きだな。涙が出そうになったところが一箇所あった。」と鳴尾君は云ってくれた。
鳴尾君はまた介山居士が子供達のために書いた文章をカードに印刷する際にハガキに印刷して(丁度カードの大きさがハガキ大だったので)その都度くにの弟妹達へ送っていた。鳴尾君の郷里は紀州のなんとか郡の富貴村というところで家は代々百姓をしていた。大家族らしく、そうして鳴尾君は長男で、弟妹達はまだ幼いらしかった。鳴尾君は私にもそうすることを勧めたが、私にはそんなハガキを送る宛はなかった。その時だったか、それからどんなことを云ったのか、それは忘れてしまったが、私が自分の家庭について云ったことをきき咎めて、鳴尾君が「エゴイストだなあ。」と嘆息を漏らしたことがある。私は鳴尾君の「神経衰弱」と云うより頭痛の種は家庭的なことかも知れないと思った。云うまでもなく鳴尾君の家の宗旨は基督教ではなかった。高倉先生が病気なのが鳴尾君には痛手らしかった。それでも鳴尾君は毎日日課のようにして英訳本で「基督教原理」を読み進めていた。その頃はいまのように宗教書の氾濫を見ず、「基督教原理」の完訳もまだ出版されていなかったのである。
印刷所の仕事がわりに忙しくて、介山居士の云ったように、そんなに近隣の山野を散歩も出来なかったが、それでも日曜の午後などには鳴尾君に案内してもらってあちこち歩いた。私は木や草の名など皆目知らなかった。桑畑も実はわからなかった。あの木の根っこみたいのは一体なんだろうと思ったものだ。鳴尾君はそんな私にいろいろ知識を授けてくれた。げんのしょうこが植物で薬草だということを知ったのも鳴尾君のたまものである。私はそれまで※牛児は山椒魚の一種のようなものだと思い込んでいたのだ。鳴尾君はこんな風に私に野外教授を施してくれた。「これは道のべの木槿は馬に喰われけりの木槿です。」とか、「これは遍く茱萸を挿んでの茱萸です。」とか。鳴尾君は王維の望郷の詩をよく吟じていたものだ。私は月見草さえ知らなかった。
「中里先生は月見草が好きなようですね。おそらく余の愛するに適した花かも知れない、なんて随筆に書いていますね。」
そうして鳴尾君は云った。
「小山さんは中里先生をどう思います?」
「やさしい人だと思う。」
「僕もそう思います。」
一日「大澄山」の麓にある田中さんの家庭を訪問した。この辺は多摩川の流に沿ってひとつらなりの丘陵が起伏していて、田中さんは自家の裏山に当る一つを仮りに名づけて大澄山と呼んでいたのである。こんもりとした恰好のいい小山で、この山を見た人には、田中さんの命名はなんとなく思いつきな気がされるのである。「私は大澄山の麓に居住いたします田中澄徹と申す者でございます。」など「大菩薩峠」の弁信法師もどきに、食後の腹ごなしにはよくやっていた。いつか、大澄山という名称と澄徹という雅号とは、どちらが先に生れたのかときき糺したところ、田中さんは頭をなでなで、「それは君、鶏がさきか卵がさきかというようなものだよ。」とぬからぬ笑を見せた。私はさきに田中さんのことを鬼の念仏に似ているように云ったけれど、なにも田中さんはあんな恐い顔もまた苦虫を噛み潰したような顔もしているわけではない。なんとなく感じに似ているところがあるのだ。また鬼の念仏とか鬼瓦とかいうやつはよく見ると、恐くもなんともない。かれらには人間に見かけるような悪相がない。つまり邪慳でも陰険でもないのだ。むしろ人間を恐怖するのあまりあんな顔つきになってしまったような形跡さえ見える。かれらの鬼面はあるいは正当防衛の結果なのかも知れない。口からはみ出している牙は敵に挑むためのものではなく守るためのものである。田中さんは愛想のいい気のおけない腰の低い人である。少しく多弁でそうして親切である。人と話しながら時々頭に手をやってなでさするような手つきをする。そういう時田中さんは相手の気を兼ねて口をきいているのだ。田中さんの家庭はお母さんに奥さんにそうして子供さんは二つ位の男の子が確か一人だったと覚えている。田中さんが毎日塾へ出かけている留守を、お母さんと奥さんは畑仕事をしているのだ。そういう暮しである。田中さんは生れつき鋤鍬作業は嫌いらしく、はたち前後から家を飛び出して、東京でいろんな職業に就いたり、宗教団体に加盟したり、社会改良派の仲間入りをしたりして、自分の好きなことをやってきたらしい。そういう「浮草」のタイプなのだ。狭山茶の行商をして苦学していた頃の思い出を書いて「隣人之友」に載せたこともある。田中さんのような人はどんな田舎にも一人や二人は見かけるのではあるまいか。田中さんはこまめであった。人の厭がるようなことも気軽に引き受けた。いつも進んで貧乏籤を引き当てようとする人間が塾には二人いたのである。田中さんと鳴尾君である。それをいいことにして村木さんと私はいつも横著を極め込んでいた。だから田中さんはちょこちょこしているように見えることもあった。けれども決してそんな人ではなかった。私は田中さんを見てやはり素朴な田舎人だと思った。都会で猫の額ほどの地歩を争っている者の持つずるさもひつっこさもない。まして田中さんは挑むにも守るにも牙などは持ち合せていなかった。私のような世間見ずの天邪鬼に対しても終始寛容を以て臨んでくれた。そういう田中さんにはいわば人生の端役を以て任じている者の雅懐があった。私がその第一印象に鬼の念仏を聯想したというのも、つまりその雅懐から生ずる田中さんの持つ微笑が然らしめたのではあるまいか。思うに子供の虫封などのまじないに利用されるかの鬼の念仏像はむしろユウモラスな存在ではなかろうか。その日鳴尾君と私は田中さんの東京放浪時代の形見とでも云うべき署名帳を見せてもらったが、それには実に各界名士の署名が綺羅星の如く並んでいて、よくもかく万遍なく天路歴程が出来たものだと二人とも魂消てしまった。サンプルをお目にかければ、床次竹二郎、菊池寛、与謝野晶子、山室軍平、賀川豊彦、喜多村緑郎、中村吉右衛門、堺利彦、丸山鶴吉、ざっとこんな工合である。中には寸言や俳句さえ書き添えてあるのがあった。田中さんは私達の驚いているのを満足そうに見て、「皆んないい人だった。気軽にすぐ書いてくれた。」と云った。奥さんがつくってくれた菜を炊き込んだ粥を御馳走になった。
塾へ帰る途で、
「羽村って貧乏村だね。なんにもないね。いいね。」
と云ったら、それで鳴尾君には通じたようで、
「ええ。土地の気風も悪くないし。どう? 落著けそうですか。」
私はそれには答えずに、
「僕は夢をみてもみんな東京のことばかりだ。ここの生活はまだ夢の中に入ってこない。」
鳴尾君はふと思いついたように、
「高尾山にいた頃の中里先生の生活はよかったようだな。御自分でもそう云っていますね。『千年樫の下にて』という本があるでしょ。読みましたか? あんな生活はたのしいだろうな。」