Chapter 1 of 13

転地療養

寿商店の独息子新太郎君が三度目の診察を受けた時、丹波先生は漸く転地を勧めてくれた。

「山が好いでしょう。一月ばかり呑気に遊んで来れば直りますよ」

と子供の頃から手にかけているから、新太郎君の容態を兎角軽く見る。新太郎君は又重く言う癖がある。今回は元来転地が希望だったので、既に去年の避暑の宿を頭に描いていたから、

「海岸じゃいけませんか?」

と註文をつけた。

「海岸でも結構です」

と丹波さんはニコ/\していた。番頭や小僧の多い商店は下町の開業医に取って一番大切の患家である。

「それじゃ海岸にします」

と新太郎君は元気好く答えた。去年までは学生だったから、毎年大威張りで避暑に行けたが、この四月からは親父の店の月給取だ。矢張り一緒に卒業した従兄弟の寛一君と二人がかりで番頭共にお手本を示す立場だから骨が折れる。神経衰弱にでも罹らなければ浩然の気は養えない。

「兎に角お父さんから避難出来れば宜いんでしょう?」

と先生も多少その辺の消息を解していた。

「冗談仰有っちゃいけませんよ」

と新太郎君は頭を掻いて診察室を出た。それから薬局の窓口へ廻って、

「もし/\、お薬は後から小僧が取りに参ります」

「一寸お待ち下さい」

と薬局生は先生のところへ訊きに行って来て、

「お薬には及びませんそうで、折角お大切に。ヘッヘヽヽヽ」

と窓の内から新太郎君を覗き上げた。

新太郎君は稍忌々しかったが、完全に目的を達した次第である。家へ帰ると直ぐに、

「丹波さんは何うも大袈裟で困りますよ。この忙しいのに、一月ばかり海岸へ転地しろと仰有るんです」

とお母さんに相談した。

「そんなに悪いの?」

「いや、今直ぐ何うってことはありませんが、無理をすると悪くなる心配がありますから、一思いに早く静養する方が宜かろうと仰有るんです」

「然うしますか?」

「えゝ。店の方の都合さえつけば」

「病気なら仕方ありませんわ。卒業試験の時に毎晩徹夜で勉強したのが応えているんですよ」

「然うです。学校を卒業すると大抵一遍は神経衰弱をやるものです」

と、まさかそんな理法もあるまいが、母親は瞞し宜い。

「でも寛一は平気じゃないの?」

「あれは特別です。撲ったって死にません。僕、何でも寛一君と一緒にされるんで困りますよ」

「お前は子供の時から弱かったからね」

「独息子で余り大切にし過ぎたからですよ」

「大切にしてやったり苦情を言われたりしちゃ埋まらないわ」

「毎日頭が重いんです」

「それじゃ私からお父さんに相談して上げましょう。折角卒業しても、身体を壊したんじゃ元も子もなくなってしまいますよ」

と母親は新太郎君の健康を案じてくれた。父親よりは理解がある。

「活動へ行って夜更しをするから、朝の中頭がボンヤリしているんだ。晩に早く寝れば直るよ」

なぞとは言わない。

新太郎君のお父さんは一代で身上を起した人丈けになか/\激しい。朝から晩まで店に坐って采配を振っている。家業一方で趣味も嗜好もない。道楽といえば番頭や小僧に小言をいうぐらいのものだ。この方は大分研究している。新太郎君がお医者さんから帰って来た時も、

「清吉や、今の電話は何だい?」

「間違ったんですよ」

「ふうむ。これから間違ってかゝって来たら利用してやりなさい。唯時間を潰しちゃ損だろう?」

「はい」

「違いますと直ぐ言わないで、『此方は銀座の寿商店、羅紗一切を扱います』と言ってやりなさい。それから切っても晩くない。つまり電話料は先方持ちで此方の広告が出来る」

「はい」

「お前は返辞丈けは宜いな」

と冗談まじりに小僧を戒めているところだった。

「行って参りました。矢張り今の中に静養しなければいけないそうです」

と新太郎君は改まって報告した。お母さんには我儘を言っても、父親の前へ出ると鼠のようになる。

「ふむ。然うかい? 二三日休むか?」

「はあ。お母さんが一寸何か御相談があるそうです」

「俺にか? よし/\」

と父親は奥へ入って行った。

「何うだったい?」

と寛一君が近寄った。

「巧く行きそうだよ」

と新太郎君は囁いた。

「若旦那、如何でございましたか?」

と大番頭の栗林さんが訊いた。

「神経衰弱で少くとも一ヵ月の転地療養を要するそうです」

と新太郎君は今度は大きな声で答えた。それから持場に坐って帳簿を繰り始めると間もなく女中が迎いに来た。恐る/\奥へ入って見ると、

「新太郎や、お母さんから種々聞いたが、真正に悪いのなら何も遠慮することはないよ。一月遊んで来るさ。身体が一番大切だ。充分健康を恢復して、ミッシリ働くさ」

と父親がもう承諾していたのには、新太郎君、少し気味が悪かった。しかしお許しの出た上は御意の変らない中にと、早速店の方を休むことにして、逗子の避暑宿へ問合せの手紙を出した。

「お母さん、田舎へ行くんですから、せめてもの名残りに、今日はこれから芝居を見て来ます」

と新太郎君は身体が明けば凝っとしてはいられない。

「心細いことを言うのね。見ていらっしゃい。お父さんには内証ですよ」

と母親は少し厭やな顔をした。お父さんに内証で独息子を悉皆馬鹿にしてしまう。男親が厳し過ぎると思って庇う気があるからいけない。

翌日新太郎君は同期卒業で未だ職業にありつかない友達を訪れた。少時話し込んだ後、

「何うだい? 海岸へ遊びに行かないか?」

と誘ったが、

「君は罰が当るぞ。おれなんか働きたくても使ってくれないんだ」

と言って、友人は応じなかった。

「親父に使われるのは又違うよ。怠ければ家の損になるから何うしても勉強する。身骨が折れるぜ。自然神経衰弱になる」

「神経衰弱って柄でもないじゃないか?」

「いや、嘘じゃない。医者が転地を勧めるくらいだから確かなものさ」

「一体君は神経衰弱の徴候を知っているのかい?」

「馬鹿にするない。これでも朝起きると頭の重いことがある」

「それは酒を食って夜更しをすれば誰だって然うだよ」

「次に仕事をするのが億劫でいけない。斯うやって無駄話をしている方が余っ程楽だ」

「それは人類全体の傾向さ。何も神経衰弱だからじゃないよ」

「実は医者も神経衰弱といえばまあ神経衰弱でしょうなあと頗る不平のようだったよ」

「それ見ろ。この親不孝もの!」

「家へ密告丈けはするなよ」

と新太郎君は事実を告白した。それから夕方まで喋って、

「晩飯を附き合い給え」

と友人を神田辺へ引っ張って行った。銀座は親父の目が光っている。

その次の日に逗子の宿から返事が来た。見晴らしの好い部屋が明いているとあった。未だ海水浴には少時間があるから、今の中なら択り取りらしい。

「お母さん、長々お世話になりましたが、明日出掛けます」

と新太郎君はその晩荷物を纒め始めた。

「変なことを言うのね、お前は」

「一寸お礼を申上げたんですよ」

「お前に改まってお礼なんか言われると、私は気にしますよ」

「普段が普段ですからね」

「然うさ。いつにもないことだからさ」

と言っても、母親は息子の殊勝らしい態度が多少嬉しかった。

「荷物がナカ/\ありますよ」

「沢山本を持って行くのね? 皆小説?」

「えゝ。退屈するでしょうから」

「明日何時に立つの?」

「朝の八時の汽車で行こうかと思っていますから、七時を打つのを合図に……」

と新太郎君は態と言い淀んだ。

「合図に何ですの?」

「イヨ/\お別れです」

「厭なことばかり言うもんじゃありませんよ。好い気になって」

と母親は怒ってしまった。

「そこが神経衰弱ですよ。皆病気が言わせるんです」

「そんなに心細いなら、誰かつけてやりましょうか? 私がついて行って上げましょうか?」

「いえ/\、それには及びません。大丈夫ですよ」

と新太郎君は慌てた。監督者につかれたんじゃ些っとも保養にならない。

「それは然うとお父さんから月給を戴いて?」

「六七八と三月分頂戴しました。これからは万事店員並みで、自分の養生も自分の月給でするんだそうです」

「それは仕方がないわ。お店を休んで保養に行くんですもの」

「転地から帰って来ると夏中只で働かなければなりません」

「その時は前借りをして、チビ/\済し崩しにすれば宜いのよ」

「お母さんまで現金ですね。まるで手の平を返したようですよ」

「何故さ?」

「学校へ行っている間は大切にして置いて、卒業すれば直ぐに虐待するんですもの」

「虐待なことがあるもんですか。皆お前の身の為めよ」

「宜いです。自費で海岸へ行って自費で養生をして来ます」

「そんなに恩に着せることはないわ」

「種々とお世話になりました」

「改まってお礼を言うこともないわ。親子の間ですもの」

「親子の間に月給制度があるんですね?」

「七八月が心配になるなら、私からお父さんに話して何うにでもして上げますよ」

「然うして戴かないと励みがありません」

「機嫌好く行ってお出なさい。変なことばかり言われると私も気になりますよ。お金は三月分あれば沢山でしょう?」

「大抵間に合う積りですが、お母さん、思召はございませんか?」

「まあ、厭な子だねえ。先刻からお別れだの何だのって妙に心細がらせると思っていたら、私からも取る積りだったの?」

とお母さんは合点が行くと共に安心して、早速三十円出してくれた。

翌朝新太郎君は寛一君と清吉に送られて新橋から立った。その折寛一君は、

「少し手廻しが早過ぎるようだぜ」

と言って笑った。

「何だい?」

「二度言うと風邪を引く」

「何だよ。もう汽車が出る」

「斯う乗り込んでしまえば憤っても構わない」

「足許を見るなよ」

「君は去年の松浦さんが忘れられないんだろう?」

「馬鹿を言え」

「今から行って待っているんだろう?」

「馬鹿あ言え。こん畜生!」

「土曜の晩に行くよ。さよなら」

「さよなら。待っている。清吉、御苦労」

と新太郎君は動き出した。

湘南の海岸も季節前は生地のまゝで、一帯の漁村続きに過ぎない。逗子の町は未だひっそりしていた。新太郎君は渚伝いに散歩をしても宿で小説を読んでいても、常に太平洋を独占するような心持がした。淋しかろうとは素より予期していたことだから苦情もなかったが、退屈を免れない。その中に寛一君が約束通り土曜から日曜へかけて遊びに来た。この二人は従兄弟同士で似たり寄ったりの現代青年、成績も等しく抜群ではなかったから○○大学を恨みっこなしに中どころから少し下で卒業した。六年間何でも一緒で極く仲が好い。現に去年もここへ二人で来て最後の暑中休暇を泳ぎ暮した。寛一君は新太郎君の家の店に勤めていても遠慮はない。新太郎君も今更若旦那風を吹かせる程の馬鹿でない。

「何うだい? ガナーの御機嫌は?」

と新太郎君は気が咎めると見えて、間もなく父親を問題にした。英語で親父のことをガナーというと聞いた時、如何にも適称だと思って、以来ガナーにしている。

「好かろう筈があるものか」

と寛一君は怖い顔をして見せた。

「何か言っていたかい?」

「うむ。新太郎の奴、お母さんを瞞すのが上手で困るって言っていた」

「矢っ張り知っているんだね」

「知っているとも。『見す/\嘘と分っていても、それを言えば母親が先に立って騒ぐからと思って黙っていたが、まさかお前も後から神経衰弱を起す約束じゃあるまいな』と僕に一本釘を打ったよ」

「遣り切れないね」

と新太郎君は大袈裟に頭を掻いた。

「未だあるんだよ。『女親の馬鹿には困る。お前の前だけれど』と来た。余り無理な拵えごとをすると伯母さんが可哀そうだぜ」

「全然拵えごとでもないんだがな」

「おれにまで嘘をつくなよ」

「いや、真正だよ。苦労をかける分、病気が直ってから一生懸命に働く」

「然うし給えよ。悪いことは言わない。僕は今夜は忠告係だ。未だあるんだぜ」

「何だい?」

「君は既に七月まで引き出していたんだってね? そこへガナーから六七八と三月分渡せと特別命令が出たものだから、新井さんは狼狽したのらしい。前貸をしましたと言えば叱られるに定っている。何とかしなければならない。『長いこと会計係をやっていますが、帳簿を誤魔化したのは今度が初めてです。若旦那が勤めるようになってからは種々の芸当をさせられます』と言っていたぜ」

「新井さんは気が小さいからね」

「会計係は気が大きくちゃ困る。兎に角暮までに何とかしてやらないと、新井さんがお目玉を食うよ」

「年末賞与で埋めてやる」

「年末賞与が貰える積りかい?」

「些っと怪しいか? ガナーは他人も身内も見境がないからね」

と新太郎君、甚だ覚束なかった。

寛一君は翌日昼過まで海岸の空気を吸って又次の日曜を約したが、

「君、そこの離れにいる男は確かに肺病だよ。折角丈夫な身体を転地療養に来て、病気を背負っちゃ詰まらないぜ。早く何処かへ越し給え」

ともう一つ忠告を残して行った。新太郎君はその晩女中に、

「あの離れにいる人は何処か悪いのかね?」

と訊いて見た。

「あの方は……」

「何だい?」

「……あの、肺が極く少しお悪いんだそうでございます」

と女中はモジ/\しながら答えた。尋ねられても言わないようにと教えられているのらしかった。

「驚いたな。ふうむ。食器なんかは何うしているね?」

「はあ?」

「お茶碗なんか別にしているのかい?」

「いゝえ、此方さまと御一緒でございます」

「厭だぜ/\」

と新太郎君は慌て出して、

「もう一人この外れにいる人は?」

と念を入れた。

「あの方も東京でございますよ」

「東京は分っているが、矢っ張り病人だろう? 何処が悪いんだい?」

「チブスをやったとか仰有いました」

「チブスか? 此奴も気味が悪い。そうしてやっ張り御一緒だろう?」

「オホヽヽ。でも最早悉皆直っていらっしゃいます」

と女中は膳を引いて行った。

実際、転地療養に来て丈夫な身体に病気の背負い込みをしては溜まらない。新太郎君は転宿の意を決して、即夜お上さんに相談した。そこは去年から馴染みだから都合が好かった。

「肺の方は離れですから大丈夫ですわ。此方の方もチブスはもう疾うの昔に直って神経衰弱を起している丈けですから、うつる気遣はありませんよ」

とお上さんは一応弁明した。

「うつらなくても毎日顔を見るのが厭だよ。神経衰弱なんか」

と新太郎君はいくら大きな声を出しても東京まで聞えっこないから安心だった。

「季節外れにお出になる方は大抵病人ですよ。あなたのように御勉強にお出になる方は滅多にありません」

とお上さんは誤解していた。結局、そこの主人の庶弟のところも貸間をしているから、それへということになった。新太郎君は今度は用心深く相宿を確めたが、

「一人東京から年寄の方が見えています。釣道楽で朝から晩まで岩の上に立っているくらいですから大丈夫でしょう」

とあった。

引き移った宿は前のよりも間数が多く且つ小綺麗で申分なかった。新太郎君は一番好い室を占領した。同宿の老人は毎朝釣竿を担いで出て行く。夕方にならなければ帰らない。

「大分熱心のようですが、何か釣って来ますか?」

と或日そこの主人に訊いて見た。

「あれこそ下手の横好きってんでしょうな。河豚ばかりです」

「河豚は食えますまい?」

「食えませんけれど、釣れないよりは宜いと見えて持って来ます。しかし彼奴は鶏が食っても死にますから、肥溜へ棄てるより外ありません」

「厄介ですな」

「けれども面白いんですよ。釣竿さえ持っていればニコ/\ものです。あれで鯛を釣って来れば真正のお恵比須さんでさあ」

と亭主は笑っていた。

或朝新太郎君は干潟を歩いていると、岩の上でもう釣魚を始めていた老人が振り向いたから、

「何うですか?」

と声をかけた。お辞儀丈けは交換していたが、口を利くのはこれが皮切りだった。

「今黒鯛の大きいのを釣り落しました」

と相手が極く気軽に応じたので、新太郎君は岩へ上って行った。

「浮子はないんですか?」

「ハッハヽヽヽ、あなたは素人ですね?」

「えゝ」

「玄人は感で釣ります。目で釣りません」

と老人ナカ/\天狗だ。

「魚が食うと竿へ響くんでしょう?」

「竿から手、手から脳天へ響きます。ブル/\ッとね。何とも言えない好い心持です」

「それは僕も経験があります。心臓がドキッとするでしょう?」

「これは話せますな」

「矢っ張り浮子を使わないで、こんな大きな鯉を引っかけたことがあります」

と新太郎君は手を拡げて見せた。

「鯉はむずかしいですよ。何処ですか?」

「子供の時浅草の釣り堀でやったんです」

「ハッハヽヽヽ」

「ヘッヘヽヽヽ」

「浅草の釣り堀と太平洋を一緒にされちゃ溜まりませんな」

「太平洋では何が釣れますか?」

「こんな大きな黒鯛を二枚釣り落しました」

と老人も手真似で寸法を示した。釣り落したことばかり言っている。

「お邪魔じゃありませんか?」

「いや、結構です。あなたは東京だそうですな?」

「はあ」

「私も東京です。私は道楽で来ていますが、あなたは御休養ですか?」

「えゝ、少し神経衰弱をやりまして」

と新太郎君は逗子でも都合によっては神経衰弱を利用する。

「然うですか。それはいけませんな」

「何あに、大したことはありません」

「一つ神経衰弱の直る妙法を伝授しましょうか?」

「承りましょう」

「これです」

「何れですか?」

「これですよ」

と老人は釣竿を動かして見せた序に引き上げたら、河豚の子が釣れていた。

「それを喰べれば死にましょう?」

「いや、これは毒です。釣魚が神経衰弱の薬なんです」

「はゝあ」

「釣魚ぐらい気の紛れるものはありませんよ。斯うやって一本の糸に心を打ち込んでいると、苦痛も何も忘れてしまいます。無念無想って奴ですな。同時に海辺の好い空気を吸う。運動にもなる。私も神経衰弱をやって長いことブラ/\していた揚句、人に勧められて釣魚を始めたのです。これくらい自然に叶った療法はありませんな。御覧なさい。この辺の漁師達は始終釣魚をやっていますから、決して神経衰弱に罹りません」

「成程」

と新太郎君は相槌を打って傾聴の態度を取った。老人の説によると、釣魚は啻に神経衰弱の自然療法ばかりでない。釣れるか釣れないかという不確実なところに博奕の興味を備えている。人生五十年の運命を一日の中に髣髴させる一種の哲学だとあった。

翌日老人が釣魚に誘った。新太郎君は釣魚を見物するのが馬鹿の標本のことを知っていたが、先方は神経衰弱を直してくれる積りだから断り兼ねた。しかし老人、この日は好運に恵まれて、見る/\大きな磯魚を三疋まで釣り上げた。

「何うです? あなたも釣竿をお求めになっちゃ?」

「然うしましょうかな」

と新太郎君は興味を覚えた。

「これから町へ行って私が吟味して上げます」

と老人はナカ/\親切だった。新太郎君は釣道具一切を揃えて、昼から又お供したが、河豚を三疋釣ったばかりだった。

「汐加減で河豚ばかりです」

とお師匠さんも十疋ばかり釣った後、早目に切り上げることにした。

宿へ帰ると間もなく、新太郎君の室の窓下で鶏が喧しく騒ぎ出した。顔を出して見ると釣竿が転んで動いている。鉤にゴカイをつけたまゝにして置いたら、それを鶏が喰べて引っかゝったのだった。新太郎君は亭主を呼んで来た。お上さんも手伝って、鉤を外すのに大骨折りだった。

「西川さん、大物が釣れましたな」

と老人はもう名前を覚えてしまった。

「いや、大失策でした。ゴカイをつけっ放しにして置いたものですから」

と新太郎君は亭主に気の毒でならなかった。

「何あに、明日黒鯛が釣れる瑞祥ですよ」

「海じゃ駄目です」

「いや、あなたは確かに見込があります」

と老人はいつの間にか明日の約束を固めた。

次の日、玄人と素人はかなり遠方まで出掛けて、長い岩鼻の突っ先に陣取った。

「釣魚って奴は一寸詐偽に似ていますな」

と新太郎君は幾度も餌を取られてから感想を洩らした。

「何故ですか?」

「斯うやってゴカイを寄進についても中に鉤が仕込んであります。人間相手にこんなことをやったら直ぐに縛られましょう」

「しかし鉄砲よりは罪が軽いです。鉄砲は鳥獣が何も知らないでいるところを、ズドンと一発で引導を渡します。理窟も何もない。純然たる暴力です。ところが釣魚は先方の料簡で此方のものを食いに来て引っかゝるのですから、責任は五分々々です。それに釣り上げるまでには幾ら餌を取られるか知れません。鉄砲と違って資本がかゝっています。中には鉤があるのを承知で、餌丈け取りに来る横着な魚もいますよ。此方は万物の霊長ですもの。然ういう狡い奴に制裁を加えるのは当り前のことです」

と老人は又々釣魚の効能を述べ始めた。

「大変な議論です。おやッ!」

と驚いて竿を引いた時、新太郎君は可なり大きなのを釣り上げた。

「おや/\」

「何でしょう?」

「黒鯛々々。これはお手柄だ」

と老人は自分のことのように喜んだ。名ある魚は滅多に磯から釣れるものでない。この黒鯛は矢張り神経衰弱で転地をしていたものか、或は何か特別の天意があった一疋かも知れない。

兎に角、これが病みつきで、新太郎君は釣魚が大好きになった。毎日老人と二人づれで出て行く。もう黒鯛はかゝらなかったが、磯魚が結構釣れた。天然療法が効を奏して、心持あった神経衰弱も拭ったように取れた。その間に寛一君が両三度遊びに来て、海水浴の季節が近づいた。新太郎君の許された一ヵ月の静養期間が切れた頃、もう帰って来そうなものと待っていた寛一君は或日次の手紙を受取った。

寛一君。

大変なものが釣れた。黒鯛どころの騒ぎじゃない。今日昼から釣魚に出掛けようとすると松浦さんの姉妹にバッタリ行き合った。僕を覚えていてくれたのは有難い。

「おや/\」

「あらまあ」

といったような次第さ。二人は宿を探しに来たのだ。直後から供の兄さんが追いついた。

「これは/\」

と又覚えていて貰ったのには光栄身に余った。

「去年のお連れも御一緒ですか?」

と、君も光栄だぞ。しかし僕は、

「彼奴は店番に残して来ました。僕達はもう卒業したんです」

と言ってやった。僕の宿を紹介したら、気に入って直ぐに定めてしまった。矢張り五人連れで来月早々来るそうだ。

寛一君、君の言った事が実現した。斯うなると僕も期限通りには帰れない。察してくれ。ガナーの御機嫌を宜しく頼む。君とは年来の兄弟だ。手を合せて頼む。七月一杯といって同時に母へ願入れたから、御助力を頼む。日曜に容態を見に来てくれ給え。

六月三十日新太郎寛一君

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