Chapter 1 of 10

最近都市居住者の中に、恐ろしい勢ひをもつて流行してゆくものの一つに「釣り」がある。そして一部の識者の間には、釣りをスポーツ化せよの叫びがありスポーツ天国、釣り味を高唱する人さへ出て来た。

臨海国としての日本が、その周囲にスポーツ味のある釣りを、今更発見したやうに騒ぎ立てるのも妙であるが、元来遊釣といふものがその生活環境とよく同化してゐて、何等の特殊な感興も認めず、永い間やつて来たので、全く今日のやうに人々の興味を惹くことが少なかつたに起因してゐる。誰しも子供の時には鮒ぐらゐ釣つてゐる。ハゼやタナゴも釣つてゐるので、釣技といふものは決して珍らしいものではない。そこで何だ、釣りかといふ事になつて、釣りをする程人々が有閑的で無くなつた。ところが最近は又生活が極度に忙しくなつて、人間が事務的、機械的になると、その反動でこの原始的で有閑味のある「釣り」が恋しくなり、土曜、日曜には、一日ゆつくり谿谷や海上で「釣り」を楽しまうといふ人々が続出して来た。

歴史的に見ても、釣りを遊びとして認めたのは、やつと徳川期になつてからであつた。神話時代には、神功皇后が船待ちの徒然に、裳の糸をぬかれて、初めて鮎をお釣りになつたと云はれてゐるが、その後の海幸山幸の話にしても、今でも石器時代の骨の釣針が貝塚から出ると同じで、原始生活者にとつては「釣り」は生活の一部であつた。魚を食料とする需用上の事で、決して反動的な「遊び」ではなかつたのだ。その後平安朝期にしても、「滝殿」で鯉などを釣つて遊ばれた事はあらうが、溪流や海へ出て釣り遊ぶといふことはない。それは漁民のする業で、「天の釣舟」は客観的にオツなものであつたらうが、漁る業といふものは下賤のする事であつた。戦国時代にしても、流刑に逢つて釣りをしながら、辛くも月日を送つたくらゐのもので、尊氏も頼朝も、「釣り」などといふ事はしなかつた。文献の上から見ても、世が太平であつた徳川期になつて、初めて吉良上野介の甥の津軽采女正が、『河羨録』といふ釣りの本を書き、次で黒田如柳の『釣客伝』が出たくらゐで、あとは黄表紙ものの材料として、釣師などがカリカチユア化されてゐるばかりである。して見れば、「釣り」といふものを、即ち「遊釣」といふものを認めたのは江戸時代である。それ以前は悉く「職釣」で、漁夫が生活のために釣りに出るか、子供か川や海に近い人が、ちよつと真似する程度のものであつた。

釣りに関する書物は、江戸時代から引続いて明治になつても現はれた。そして専門の研究雑誌も出るやうになつたが、今日確かな統計に拠ると、東京市内に釣りをする人が二十万人ゐる。その内の五万人は、先づ「釣り」専門のコンデイシヨンを心得て、近郊の海や川へ出掛けてゐるといふ事である。従つてアルプス山中の岩魚、日光の鱒、伊豆沖の鯛釣りも珍らしい事では無くなつた。

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