Chapter 1 of 1

Chapter 1

或る晩、私は倶楽部でたったひとりテーブルに肘を突いたままひどくふさぎ込んでいる佐藤春夫の横顔を見た。そこで私は彼に近づいて、晩春のこんな美しい夜をどうしてそんな顔つきをしているんだと尋ねた時に、彼は少しばかり風変りな話を私に聞かせた――

……その停留場に私は立っていた。つい一週間ほど前のある夕方のことなのだが。

と見ると、私の二間ほどさきのところに年のころ二十七八というひとりの美装した婦人がやっぱり電車を待っている。美人だったろうと思う。が私の見たのはうしろ姿だけだ。それにしても何というあでやかさであろう。と見ていると、突然、そのおしりのところへ紫色の夕闇のなかにフレンチバアミリオン色の?が、しかも三つ※こういう具合に並んでありありと私の目に見えて来たのである。初はうっすらとしていたが、見つめているうちに実にあざやかになって来た。私はそれを凝と見据えていた。それでもその※は消え去らなかった。

そのうちに電車が来て、その婦人は事もなげに電車へ乗ってしまった。が、私はぼんやり取り残された。私は※をあんまり注視していたものだから電車へ乗りそこねてしまっていた。というのは、その婦人がその場から動き去ってしまってからも※だけはやっぱり闇のなかでさっきからの場所で宙に浮いていたからである。

※その正体をつかまえてやろうと、私は思い切って駆け出した――と思ったら、※はスウッと消えうせてしまった。

それはもうわかっているのだ。

あれや貉なのだ。

一たいあの停留場のあるあたりは、一名むじな坂と言って昔から名うての場所なのだからね。――ただどうも私にもよくわからない事は、そもそもあの※は一疋の貉が三つに化けたものだか、それとも亦三疋が正列して一疋がそれぞれに一つの?になったものやら。僕が今考え込んでいるのは実はそのことだったのだ……

――そう言ってかの男は世にも快濶な声で笑って見せた。

●図書カード

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