Chapter 1 of 9

慈善デー

下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。

彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんなものは生きるためには何の必要もない。欲しいものは空気だ。それから日光だ。それにくらべると食用瓦斯などはずつと後でもいい。(約十世紀ほど以前に、その内容はわかつてゐないが、「早過ぎた埋葬」といふ題で、これらの人間生活の悲惨を予言した文学者があつた。又同じ頃に「もつと光を!」と言ひながら死んだ詩人があつたと伝はつてゐる。多分彼等は賤民文学者の先駆者であつたに違ひない)日光はここでは到底その見込みはなかつたけれども、空気と食用瓦斯とは、最も小さい銀貨が一つづつありさへしたならば、それを自動メーターのなかへ投げ込んで買ふことも出来た。しかし彼は銀貨どころではない銅貨一つ無かつた。どうしたらそれが果して得られるものかさへも知らなかつた。彼はこの社会の生活の様式に就ては少しものみ込んでゐなかつた。ここへ投げ込まれてからそれほどまだ日が浅かつた。それに彼がどんなに声を出して見ても、彼の声は決して少しも響を立てなかつた。(ラヂオがこんなによく響いてゐるにもかかはらずこれは又、何と不思議な事である)さうして彼は何事をも人に質問する方法がなかつた。文字はここでは多分通用しないであらう。何人も知らないに決つてゐた。たとひ皆が知つてゐるにしたところが、何よりも第一にそれを書く可き、又読むべき光線がなかつた。

欲しいのは空気と光とだ。もし彼が今までここで育つてゐたのだとすれば、彼は自づとここに慣れてゐたかも知れなかつたが、彼にとつては急激な変化であつた。かういふ生活をこれ以上にもう三十時間もつづけてゐたならば、きつと自然に死ぬだらうと彼は自覚した。彼は今更のやうに彼が生きてゐたあの秘密の世界がこのやうな社会生活にくらべると如何に幸福であつたかを痛感せずにはゐられないにつけても、その幸福な秘密の世界の創造者であつた人、さうして彼一箇にとつては恐らく彼が生涯の唯一の知人であるだらうところのあの老人は、その後どうなつただらうか。彼にはこれが心がかりであつた。彼がラヂオに耳を傾けてゐるのは、外にする事もなかつたからではあるが、一つにはもしやその老人のその後の消息が、そこから聞かれはしないかと思はれたからでもある。

彼自身の声音が響を失つてゐるだけに、この空間に鳴り渡る声が彼には腹立しかつたが、ラヂオは引きりなしに鳴りひびいてゐた。昨日一日人間の世の中であつた事を残らず喋りつづけるつもりらしい。別に誰もそれを聞かうと企ててその仕掛けをしたのではなかつたけれども、この音は闇と同じやうにこの階級にまで這入り込んで来るのであつた。尤もそれは社会教育に必要と認められるところの日々のニユースのたぐひであつて、娯楽に関する一切の放送は地下十階以下から、徐々にかき消されてゐて、これらの最下層の住宅には、全く何ものも洩れては来なかつた。何故かといふのに、社会道徳は何人も心得て置かなければならない必須事項であつたが、娯楽は決してその必要のないものであり、いや反つてあらゆる人間が同時に平等にそれを味つてゐるといふ事実は娯楽の魅力の質と量とを稀薄にしてしまふといふ理由で、娯楽に関する放送が下層社会へ伝はることには、特別に異状な苦心を払つて完全にこれを防止してあつたのだ。かういふわけで彼が聞いてゐるラヂオは何の面白い事とてもなかつた。たとへば市会議員の何の某が贈賄を拒否したがために告発された――この男の言ひ分は、一般市民に不利益と思へる議決に賛成してそれによつて自己の利益を受けることは心苦しいから拒否したといふのであるが、これは社会の風習に反し市会議員の特権を侮蔑するものであるといふのが告発者の意見であるが、被告に同情する人々は、一応被告の精神状態を鑑定することが必要であると力説してゐる云々、といふやうな報道は彼にとつては少しも興味のない問題であつた。かういふ報道でラヂオは終りになつて、もしやと思つてゐた彼の知人の処罰に就ては何事も聞かれなかつた。

然し、ラヂオの最後に、彼は自分の耳を疑ひ度いやうな言葉に接した。ラヂオは響く――

「本日は××××の祝賀一週年紀念として(彼にはこの意味がよくわからなかつた)慈善デーを催します。上流社会の人々は特に半日の散歩を割愛して、平常空気と日光とに欠之を感じてゐる下層社会の人々のために、自動車遊歩円形広場を提供します。一切の陸上交通機関は本日の午後停止しますから、乗物を持たない階級の人々も少しも危険を感ぜずに、街を通行することが出来ます……」

彼はここに到つて始めて思はず呻き声を発した。いや、彼ばかりではなかつた。あまりの嬉しさに我を忘れて発した叫び声は彼の身辺の四辺から起つた。隣の枡(家でも部屋でもなかつたから)のなかに住んでゐる男たちの声なのである。さうしてその叫びに消されて、肝腎のラヂオはそれからあと、よく聞えなくなつて了つた。

彼はすぐに決心して這ひ上つた(立ち上がる事は出来なかつたのだ。ここの住宅区ではそれ以上の高さは贅沢だといふので、天井まで一メートルしか無かつた)。あちらでもこちらでも起き直つて這上るけはひが盛んに感ぜられたが、彼は間もなくいつの間にか這ひながら犇いてゐる一部の人間の流れのなかに押し込まれてゐた。

Chapter 1 of 9