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故にかれらは己の病いにもこれを応用し、兼ねては人にもよく頒つがため、いつもその持合なき時が多く、小使銭に至っては宵越しさせぬというだけに、いつとても懐にあった例がないのだ。
青簾
新築の二階家若葉の梢を凌いで聳え、葺きたての瓦美しと仰ぎ見る欄干のあなた、きのう今日掲げたと思わるる青簾のスラリと垂れて、その中より物の音静かに聞え初むる、なかなかに風情の深きものである。
吾れ人の家の夏は、青簾かけそめて初めて趣致を添え、涼意自ら襟懐を滌ぐばかり。然れば五月の夜々の縁日には、早くも青簾売る店の一つならず、二つ三つと一晩の中に見かくること稀らしからず。さてそれらを購い来て軒近く掲ぐるに、古くさい九尺二間の陋屋にもどこかに見らるるふしの出で来て、都の家々一ト時はいずれも新しくなるが嬉しい。
人の子の綿入を袷に脱ぎかえて、更衣の新たなるを欣ぶこころは、家に青簾掲げて棲心地の改まると同じく、別けても山の手は近郊に接するほど、簾かかげて時鳥待つの楽しみもあり、江戸ッ児には何ぼう嬉しいか知れぬものだ。
吾儕は爾く青簾を愛する、その初袷に赴いた心はやがて青簾にも同じ好愛を恣にするのである。
君よ、青簾の中なる美しき人の姿を見んとて朝な夕なの漫歩きに、その門をさまよいたもうな。そは君が想像の自由にまかせて、簾のこなたに見えざらんこそ却々に興は深かり……と誰やらが口調をそのまま、われらと同じ趣の人々に心づけまいらせておく。
夏祭り
江戸ッ児の気勢は祭りに於て最も遺憾なく発揮される。殊に祭りは春よりも秋よりも夏に重なるが多きぞ嬉しい。
大江戸以来の三大祭礼といえば日枝神社すなわち山王様、深川八幡、神田明神の三つで、他は赤坂の氷川神社、牛込の築土八幡、四谷の須賀神社、佃島の住吉神社、芝の愛宕神社、浅草の浅草神社すなわち三社様など、数えたらまだ幾らもある。
中で山王の祭りは六月十五日、昔は神田明神と祭礼の競い合いをして、何がさて負け嫌いの江戸ッ児同士だけに、血の雨を降らしたことも幾度か数知れず、ためにその筋から双方隔年に大祭をすることに定められ、日枝神社が本祭りなら神田明神が陰祭り、神田明神が本祭りなら山王が陰祭りと、否応なしにされてしまって、大きな喧嘩だけはなくなったが、山王の本祭りに山車が幾台出て、赤坂芸者が奴姿で繰出したとあれば、神田明神の本祭りには山車の数を何台増して獅子舞を出すとか、手古舞に出るとか、こればかりは維新後の四十年来、今に江戸からの競いを捨てず、近年また電車の通る中を山車も曳き出せば、縮緬の揃い衣を奮発するなぞ、大分昔に盛りかえしてきたもおかしい。
されば祭りになけなしの身代傾けて、あすが日からは三度の食事にも差支ゆる者、今でも時々に聞くことで、深川八幡の祭礼に永代の橋が墜ちて人死にが出来たほどな、往時の賑盛はなくとも、いまだに大したもので、木場を扣えているだけにすることがまた格別だ。――但し、日枝神社の祭礼が前にいった六月十五日で、一ト月飛んだ八月十五日が深川八幡、その翌月の九月十五日が神田明神という順序で、余なるは住吉神社の祭礼に神輿の海中渡御があるのと、三社の祭りに花川戸の兄哥たちが、自慢の神輿を吉原五花街へ担ぎ込むのとが、一風変ったおかしみがある。
凡そ江戸ッ児として、大若小若の万灯、樽天王を見て気勢わぬものは一人もなく、ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ! の声を聞いては、誰しも家の内にジッとしておらるるものでない。大方は飛び出して、いつか己れもその群に立ちまじり、至極真面目な顔でいた男のワッショイ! ワッショイ! を聞くことよくあることだ。まァさ、そう馬鹿にしないで、その無邪気と赤裸々とを買ってお貰い申したいものだが……。
心太と白玉
真夏真昼の炎天を、どこやらに用達しての帰るさ、路ばたの柳蔭などに荷おろして客を待つ心太やの姿を見る時、江戸ッ児にはそを見遁がして通ること却々に困難だ。
立ちよって一ト皿を奮発すれば冷たい水の中から幾本かを取出して、小皿に白滝を突き出し、これに酢醤油かけて箸を添えて出す。啜りこむ腹に冷たきが通りゆくを覚ゆるばかり、口熱のねばりもサラリと拭い去られて、心地限りなく清々しい。
江戸ッ児はその刹那の清々しさを買うに、決して懐銭を読む悠長をもたぬのである。
かれらはまた同じ心で夕暮の散歩に、氷屋が店なる「白玉」のビラを横目に見て通りあえぬ。紅白の美しい寒晒粉を茹上げた玉幾つ、これに氷を交えて三盆白をふりかけた奴を匙で口にした気持ち、それが食道を通って胃腑におちいた時には骨の髄までも冷さが沁入るようで、夏の暑さもサラリと忘れたよう、何が旨い彼が好いと言ってからが、この味いはまた格別。それにこうして胆ッ玉まで冷やすところなざァ江戸ッ児に持ってこいの代物、これでなくちゃァすべてがお話にならねえのだと誰やらに言わしたら拳固で鼻ッ面を横撫でするところだろう。
更にまた退いて考うるに、江戸ッ児の趣味は何処までいっても俳諧の風雅に一致しておる。三昧に入らずして既に禅定の機を悟り、ザックバランでもよくその気分を貴ぶ。蓋し江戸ッ児は終始この間に生き、この間に動き、そしてこの間にかれらの存在の意義を語りつつあるのである。
川開き
両国の川開きは年々の隅田川夕涼みの魁をなし、昔は玉屋鍵屋が承って五月二十八日より上流下流に大伝馬をもやいて大花火、仕掛花火を打揚げる。江戸ッ児の魂を有頂天にして、足元の小石にも跪かしむるはこの時で、「玉屋ァい――鍵屋ァい――」と老若ともに囃し立てた暫時は、空に咲き散れる火花の響きも耳にはとどかず、都の人々大方はその心を両国の空に馳せ、人いきれと混雑とに絞るほどな汗水垢になってもお構いなし、料理屋が二階座敷から見るよりは押すな押すなの人中にあるを面白がり、知るも知らぬも、すぐに十年の知己となった如く、互いに弥次り弥次られ、その騒ぎったら一ト通りや二タ通りではない。
然るをこの花火、玉屋は火を過って遂にその株を失い、今では鍵屋が独り占めながら、揚げられた花火の賞美には相変らず「玉屋ァい」が多く、殊に口惜しきはかかる類にまで広告に利用して、仕掛花火にビールの広告があらわるるなぞ、何ぼう殺風景の限りだか知れぬ。
両国の川開きもこうなってはお仕舞いだとケチった連中もあるが、これだけは滅ぼしたくないものだ。
それからこの川開きがすむと、続いて芝浦にも花火の催しがある。これはまださのみは古いことでなく、土地の料理店などが、家の寂れを苦にしての思立ちだけに、両国のほど開放的ではないが、それでも澄み切った夏の夜空に、勇ましい響きを聞く時は、何となく心も誘られて悪い気持ちはしない。旁以て鍵屋の苦心も、始終に算盤との談合は第二として、いずれとも江戸ッ児の嫌がるような広告花火はまァよしにして貰いてえものだ。
草市と盂蘭盆
魂まつりということ、釈迦の教えに基づいて年々の盂蘭盆に、精霊壇へ百味五果を供え、以て祖先の霊を招くは江戸ッ児のザックバランにも合する振舞いで、その魂まつる日の数々の供物など、草市の商いは陰気でどこかうら淋しい感じはするが、それでも商うどの出店は、数も歳の市に多くは譲らぬ。殊におかしきはその場所までが大方は歳の市のそれと同じで、世俗の人儀が盆暮に於けると彼此相通ぜるは、不思議なような当りまえの事実で、あたりまえのような不思議なことどもだ。
さて魂むかえの夕べは家々の門に迎火の光り淋しく、法衣着た人々の棚経に忙しきも何やらん意味ありげだ。
さて魂送りの夕べになると、大路小路に籠を提げたる貧の子幾たり、「お迎えお迎えお迎え」と精霊壇の供物などを申受け、何がしかの送り銭を得てこれを一宵の稼ぎとする。菜瓜のなお腐らぬは漬物屋に持ちゆいて数銭のお鳥目にかえ、よくよく物の用に立たぬを引汐にサラリと沖へ流して、送り火の行衛はいずこ、すべては型ばかりに流しはしたが、それで別段苦にもしなければ、真面目に厳かに御先祖のお祭りはしたつもり。さりとは気安くもまた罪のないことどもではないか。
さあれ如此にして江戸ッ児は祖先を敬し、如此にしてしかも決してその祖先を忘れぬ。振舞いの粗なるを嗤いたもうな、形式に流れたようなかかる振舞いにも、心ばかりは洵に真に祖先に対するの敬虔を有し、尻切袢纏の帯しめなおして窮屈そうに霊前にかしこまり、弥蔵を極めこむ両手を鯱張って膝の上におき、坊さんのお勤がすむまでは胡座にもならでモジモジしている殊勝さは、その心持ちだけでも買ってやっていいと思う。
灯籠流し
川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。
疇昔は簾かかげた屋形船に御守殿姿具しての夕涼み、江上の清風と身辺の美女と、飛仙を挟んで悠遊した蘇子の逸楽を、グッと砕いて世話でいったも多く、柳橋から枕橋、更には水神の杜あたりまでも流れを溯って、月に夜を更かし、帰るさは山谷堀から清元の北洲に誘られた玉菊灯籠の見物に赴くなど、それぞれの趣向に凝ったものだが、今は大川の涼みにも屋形船の影を見ること稀々で、名残は兵庫屋、河内屋などの船宿にその幾艘を有するのみ、歌麿の絵にある趣はまた見られずなったが、どうかしてこれらを再興したいものだと、一部の人々は折角そう思っておる。
それにつけてもいとど嬉しいは八百松が灯籠流しを再興したことで、この催し、いつの頃よりか廃れて誰企つる者もなかったのを、先年隅田川の寂れとてこの催しを世におこし、大川筋に名物一つ加えたは何よりのことどもである。
さてその灯籠というは、形を都鳥の水に浮寝せる姿とし、これに灯を入れて流れの上より下へ行くにまかせて放ちやるにて、岸の遠近、船よりも楼よりも眺めはいずれ趣深く、遠く遠く流れゆく灯影の小さくなるを送るほどの心、情景ともにかのうて忘機の三昧に入るを得べし。
都の夏を懼れて暑を山海の地に避くる人々の、かえって喧噪と雑沓と没趣味とに苦しめられて、しかもそれらに対して高価な支払をなしたを嘆つこと、吾儕の屡次耳にするところで、旁徒なる懼れに遠かれる都にも、夏にかかる逸楽のあるをお知らせしておきたい。
蒲焼と蜆汁
土用に入っての夏の食いものに、鰻と蜆とは江戸ッ児の真先に計えあげる一つで、つづいては泥鰌、浅蜊のたぐいである。
鰻は何よりも蒲焼を最とし、重箱、神田川、竹葉、丹波屋、大和田、伊豆屋、奴なぞ、それぞれの老舗を看板に江戸前を鼻にかけてはおるが、今でも真に旨いのを喰わせる店、山谷の重箱を第一に算うべく、火加減、蒸しのかけ具合、たれ醤油の塩梅など、ここのを口にしては他に足を向くる気にはなれない。
勿論、従来の江戸前といった鰻、今も大川尻から品川の海にかけて獲れはするが、紡績や、川蒸汽船の石炭殻を流しこむので、肉の味ゲッソリおちて、食通の口に適せず、妻沼、手賀沼あたりからのを随一とするに至っては、火加減、蒸し加減が何よりで、搗てたれ醤油の味いも元より大切だ。
彼のチリリと皮の縮れて、焼加減な大串中串を箸にした気持ち、早くも舌めが味いたがって、無遠慮に催促するもおかしい。
蜆はこれも大川のを第一とするが、これとて石炭殻に味いをそがれ、今は処を択らねば上物は得るに難い。
この貝は味噌汁の一種に限ったもので、白味噌を赤味噌に混えたを最上としてある。
ついでに泥鰌も味噌汁に限ることを言っておこう、駒形の名物泥鰌に浮れ込み、いやに江戸がって骨抜きせぬのをとりよせ、丸煮の鍋に白い腹を出してるのを見て、俄にげんなりしてしまい、嫌々むしって喰べる連中、近来は大分多くなったと、内々嗤ってる手あいがある。
浅蜊は澄まし汁最もよく、豆腐にあしらったも悪くはない。されど宵越しのを勿体ながって避病院へ送られぬが肝要。まさか江戸ッ児はそんな意地汚しもしまいとは思うが、すべてはさッぱりと……オオさッぱりといえば、これの塩むしもいいものだ。
丑べに
紅というもの、若い女の唇に少しばかりものしたが、かえって愛でたく、上瞼に薄っすら刷いたも風情のあるものだ。