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死児変相
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死児変相
神西清
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 8 of 8

8

内陣があかないとなれば、そのまま引返すよりほかありません。また暗い廊下を通つて外へ出ようとした時、Hさんはまた例の小部屋のドアを開けてみました。千恵もふとした好奇心で、Hさんのあとから覗きこみました。中は相変らず空つぽでした。

「出かけたんだわ、一張羅の上衣がないもの」とHさんは呟いて、首を引つこめようとしましたが、うしろから覗きこんでゐる千恵に気がつくと、すぐまた気を変へて、

「ちよつとはいつてみる? あの人らしい絵がどつさりあるわよ。この物置、あの人のアトリエなんだもの。」

千恵はうなづきました。あの片腕のない奇妙な青年がどんな絵をかくのか、ちよつと見て置きたい気持がしたのです。

さして広くもない部屋が、半分ほどは椅子テーブルの山でした。小さな窓が一つあいてゐて、その下に白木のきたならしいデスクが押しつけてあります。その前に椅子が一つ、その背中に千恵にも見覚えのある油じみたブラウスが、だらんと投げかけてありました。床の入口に近いところに、これもやはり油じみて黒光りのしてゐる冷飯草履が丁寧に揃へてあり、身の廻りのものといつたら唯それだけ、あとは足の踏み場もないほど、ぎつしり画架やカンヴァスで埋まつてゐるのでした。

「岡田さんなんかの話だと、これでなかなか見どころがあるんださうだけど、あたしにや何のことやらさつぱり分りやしない。……」

そんなことをぶつぶつ言つてゐるHさんを差し置いて、千恵はいつの間にか部屋の中ほどに立つて、互ひにもたれ掛つたり隠しあつたりしてゐる絵の上に、あてどのない視線をさまよはせてゐました。自画像らしい描きかけの絵もありました。白鬚の老人の肖像もありました。風景画はほとんどなく、大抵は人物や街頭の光景を扱つたものでしたが、ふとその下から半分ほど覗いてゐるかなり大きな絵に目を惹かれて、それを邪魔してゐる絵をそつと片寄せたとき、千恵の注意は思はずその画面に釘づけになつてしまひました。

あれは何号といふのでせうか、四尺に三尺ほどの横長の絵でした。前景には瘠せこけて骨ばつた男の裸体が、長々と画面いつぱいに横たはつてゐます。そのすぐ後ろの中央には、黒衣の婦人が坐つて、どこか中有を見つめてゐます。そのうしろには氷河だか石の壁だか、とにかく白々とした帯が水平に流れ、背景ははるかな樅の林らしく濃い緑いろでした。千恵が注意をひきつけられたのは、なかでもその婦人の眼つきでした。はじめは中有を見つめてゐるやうに思へたその眼が、よく見ると殆どねむつてゐるのでした。その重なり合つた上下の目蓋の間からかすかに漏れてゐるらしい視線は、よく見ると、下に横たはつてゐる裸かの男の髯もじやの顔をじつと眺めてゐるやうでもありました。あごを突きだして、斜めに反らしたその白い顔には、まぎれもない深い悲哀が浮んでゐます。絵のことにはうとい千恵ですが、それが「悲しみの聖母」といふ画題をあらはした絵らしいといふことは、一目みて推量がつきました。その聖母のやつれた顔をじいつと眺めてゐるうちに、千恵にはそれがどことなく姉さまのあの時の表情に似てゐるやうな気がしだしました。この「あの時」といふのは、いつぞやの晩あの育児室の窓ごしに覗きこんでゐた時のことかも知れません。つい今しがた石段の滝のなかで擦れちがつた、その瞬間のことかも知れません。いいえひよつとすると、この聖堂の小暗い外陣の片すみで、いきなりあの古島さんといふ青年に抱きついた刹那、下から見あげた古島さんの眼にうつつた姉さまの表情だつたのかも知れません。そのどれでもあるやうでもあり、そのどれでもないやうな気もしました。

「あんまり気味のいい絵でもないわねえ。いかにもあの古島さんらしいわ……」と、いつのまにか千恵の後ろに立つてゐたHさんが、持前のがさがさした嗄れ声で言ひました。千恵は思はず夢から覚めたみたいになつて、いそいでその絵の前を離れようとしました。二三歩あるきかけて、ふとまた振返つてみました。そのとき眼にはいつたのは偶然その裸か男の髯もじやの顔でしたが、それがにたりと薄笑ひを浮べたやうな気がしました。もちろん千恵の心の迷ひだつたに違ひありません。けれどその薄笑ひをした顔つきが、ほかならぬあの古島さん自身の笑ひ顔に似てゐたことだけは、たしかに千恵の気の迷ひではありませんでした。……

Hさんは用心ぶかく、さつき千恵が片寄せた絵を元へ戻すと、千恵のあとから出てきてドアを閉めました。千恵は自分の胸が大きく波を打つてゐるやうな気がしてなりませんでしたが、Hさんは一向気づかない様子で、潜り戸の外へ出ると、

「悪かつたわね、大して面白いものも見てもらへないで……」と、千恵にあつさり別れを告げました。千恵はそのHさんから逃げだすやうな勢ひで、相変らずの吹き降りの中を、傘もささずに表門の方へ駈けだしました。本堂の正面を駈け抜けるとき、千恵の耳には、堂内がごうごうと鳴つてゐるやうな凄まじい音が、はつきり聞えました。それはまるで火焔が堂内いつぱいに渦まいてゐるやうな音でした。くやしいことですけれど、あとはもう夢中でした。いつのまにO町の外科病院へたどり着いたものやら、さつぱり覚えがありません。気がついてみると、何か吐き気のやうなものがしてゐました。たうとう我慢がならず、お手洗ひへ立ちましたが、結局なんにも吐くものはありませんでした。ただの目まひだけだつたらしいのです。……

………………………………………

母上さま、――

千恵にはもうこれ以上なんの御報告すべきこともございません。結局なんにも分らないぢやないかと、母さまはひよつとするとお咎めになるかも知れません。それも致し方のないことです。現にこの千恵自身にも、さつぱり訳が分らないのですから。

とにかくこれが、母さまのお求めになつた姉さまの消息について、千恵がさぐり出すことのできた全部です。もうこれで姉さまのことは御免をかうむりたいと存じます。姉さまが現にああして生きておいでになる以上、その消息をもとめる役目はこれで役ずみになる筈はありません。千恵もそれぐらゐのことはよく分つてゐます。けれどこの上の探索は千恵の力がゆるしません。そして恐らくこの手紙をお読みになつた母さまは、もう二度とふたたびこんな役目を千恵にお押しつけになる筈はあるまいと、千恵は固く信じてをります。あれは死んだ姉さまなのです。千恵は今こそはつきりさう申します。姉さまはあの業火のなかで亡くなつたのです。どうぞ母さまもさう信じてくださいますやうに!

こんなに度たび姉さまと顔を合せながら、つひに一度も「姉さま!」と呼びかけずにしまつた千恵の薄情さを、母さまはお咎めになるのですか? 「だから千恵さんは情が剛いといふのですよ!」と、そんな母さまのお声が耳の底できこえるやうです。そのお咎めなら千恵はいくらでも有難く頂戴するつもりです。どうせ千恵は情のこはい、現実のそろばんを弾いてばかりゐるやうな女です。そのことは幼い頃から母さまにさんざ言はれましたし、この先もきつと一生涯さうに違ひありません。さうですとも、千恵は生きなければならないのです。生きてゆく以上、死人の世界になんぞかかづらはつてはゐられないのです。千恵はそこまではつきり申しあげてもいいのです。……

でも時たまは、姉さまをほんとにお気の毒だと思ふこともないではありません。なにかしら姉さまのためにお祈りしたいやうな気持の湧くこともあります。でもその祈りの気持といふのは、煎じつめてみると結局、このうへ姉さまに俗世のきづなの苦しみを与へてはならないのだ――といふことに落ちついてしまひます。もうすこしきれいな言ひ方をすると、それは姉さまの幸福を傷つけたくないといふ気持――そんなふうにも言へるのかも知れません。

母さま、――これは偽善の言葉でせうか? でも千恵は、偽善なら偽善でいいのです。そんな偽善よりももつと怖ろしい悪に、わたしたち人間は知らず知らず落ちこみがちなことに、千恵はやうやく気づいてをります。それを母さまの前ではつきり何と名ざすのは、なんぼ千恵でも随分とつらいことです。まあそんな話はやめに致しませう。そろそろ夜明けが近いやうな空気の薄さが感じられます。今日は朝十時から子宮癌患者の手術があります。千恵はG先生のお手伝ひをすることになつてゐるので、明るくならないうちに一時間でも二時間でも眠つておかなくてはなりません。では御機嫌よう。これで千恵はおしまひに致します。

それにしても、お母さま、もしわたしたちのS家にたいする態度が、当時あれほど寛大でなかつたら、わたしたちは狂気の姉さまとふたたび仲よく暮らせたでせうに!……

Chapter 8 of 8
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