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だがこう言いながらもモンテーニュは、自分もまたそういう生意気な人間の一人であることを決して忘れてはいない。
(c)わたしが猫と戯れているとき、猫のほうこそわたしを相手にひまつぶしをしているのではあるまいか。……
(a)動物と我々との相互の理解を妨げているあの欠点は、なぜ彼らにばかりあって我々にはないのか。お互いに全くわかり合わないのは果してどっちの罪であろうか。それはどっちとも言えない。まったく彼らが我々を理解しないばかりでなく、我々も彼らを理解しないではないか。我々が彼らを畜生と評価するのと同じ理由によって、彼らも我々を馬鹿と評価することができるわけである。我々が彼らを理解しなくても、それは大して驚くにはあたらない。我々はバスク人をもトログロディット人をも理解しないのである。……(a)我々はお互いの間にある類似の方に注意しなければならない。我々は彼らの意味のまず半分くらいを理解し、動物の方でも大体同じ程度に我々の意味を理解する。彼らは我々にへつらい、我々をおどし、我々に求める。我々もまた彼らに向って同じことをしている。
それに、彼ら同士の間にも十分完全な意思の疎通があること、ただに同種類のもの同士ばかりでなく異種類のもの同士もまた相互に理解し合っていることは、きわめて明白である。(二の十二)
ここでわれわれはやがてパスカルが取り上げる問題にぶつかる。本当に自然は、動物にはわれわれの持たない本能や性能を賦与し、われわれには彼らの持たない知性を与えたのであろうか。例えば鳥が巣を作る時の勘、クモが巣をあむ時の見とおしとか技術とかいうものを、われわれは賦与されていないので、その代りに我々の方では、我々固有の知性を働かさなければならないのだろうか。モンテーニュは、いま言ったような点では人間は到底動物にかなわないのだと完全に兜をぬいで見せながら、やっぱり知性にかけては、知的には、彼らよりすぐれているのだぞと言っているかのように見えなくもないが、むしろそれは単なる嬉しがらせではないだろうか。果せるかな彼は、その次に、動物の間にもやはり精神の働きのようなものが十分に見られること、これこそ人間特有なものだと自慢する推理の働きすら、彼等のもとにも決してなくはないのだと言うことを、実例をあげて示している。ローマの理髪師に飼われていた鵲の話はその一つである。「トラキアの住民が氷の張った河の上を渡ろうと企てるときに使用する・すなわち案内役として放してやる・あの狐」の話もそうである。はぐれた主人の跡を追っかけた犬が三叉路にさしかかってどのような行動をとったかという話。それから盲導犬の話。この種の実例は「レーモン・スボン弁護」の章の中に文字どおり充満している。
クリュシッポスは、他のあらゆる事柄においてはいかなる哲学者にもまして動物の性情を侮蔑的に判断したが、犬がそのはぐれた主人を捜しながら、あるいは逃げて行った獲物を追いかけながら、ある三叉の辻に出ると、順次に第一の路、第二の路と歩いて見て、三筋の路の二つを確かめていよいよそこに自分の求めるものがないと知ると、断然ためらうことなく第三の路に飛びこんだのを見ては、さすがにこう告白せざるを得なかった。「この犬はつぎのような推理を行ったのである。『わたしはこの三つまたの辻まで主人について来た。どうしても彼は三つの路のどれかに行ったに違いない。第一の路でも第二の路でもない。だからどうしたってこの路を通ったに違いない』と。そして、この推理結論によって確信をえたればこそ、第三の路についてはもはや嗅いでも見なければさぐっても見ず、ただ理性の力におされてそこに飛びこんでいったのである」と。(二の十二)
それどころか動物には正義の観念すら存在する。
もし受けた恩をその人に返すことが正義であるとすれば、その恩人に仕え・これを愛し・これを守って・これを脅やかす外敵を追い傷つける・動物は、ただそれらの点においてだけでなく、その子供たちに財産をわけるに当ってはなはだ公平に平等を守るという点でも、かなり我々の正義に似たところを見せている。(二の十二)
動物はおおむねこういうものだと、モンテーニュはわが『昆虫記』の著者ファーブルのように、あるいはラ・フォンテーヌやドーデーやミストラルのように、きわめてにこやかに、詩人のように、楽しげに語っているが、さてひとたび人間のこととなると、がぜんすこぶる辛辣で皮肉な批評家になる。
(a)皇帝の霊魂も靴屋の霊魂も、同じ鋳型で鋳られたものである。彼らは王侯の諸行為の重大さを見て、それらもまた何か同じように重大な原因から産み出されたかのように思いこんでいるが、とんでもないことだ。彼らもまたその運動において、まったく我々と同じばねによって押されたり引張られたりしているのである。我々が隣の人と喧嘩するのと同じ理由で、王侯は互いに戦いをかまえる。我々に下男をぶんなぐらせるのと同じ理由が、ふとある王様の心のうちにおこって、彼に全一州を攻め滅ぼさせる。(b)彼らも我々と同様に軽々しく意欲するのであるが、そのなすところはより大きい。(a)同じ欲望が、だにと象とを動かしているのだ。(二の十二)
……虱にはスラに執政の職をむなしくさせるだけの力がある。偉大な勝ちほこった将軍の勇気や生命だって、ちっぽけな虫けらの朝飯である。(二の十二)
皇帝や王侯ですらこの通りなのだ。われわれただの人間が後生大事にかかえているその個性なんか、その「我」なんか、憎たらしいどころか、空の空であり虚無なのだ。それこそ正に「風」みたいなものなのだ。
こういう一種のニヒリズム、ピュロン説、ないしは懐疑論にあっては、ふつう社会もなければ個人もなくなる。そこにはただ、人間の営みをすべて衒学にすぎないと嘲りまじめにとりあげることをしない、高慢で冷やかな、傍観的な人間が残るだけのように思われる。モンテーニュもまたそういう人間になり終ったろうか。
もしもそうだったとしたら、もしもそういう立場を長く持して放たなかったとしたら、それはやはり一種の衒学、てらいである。それはただ一種消極的なてらい(un pdantisme ngatif)であったというだけのことで、独断的狂信的な(夫子自らけなしにけなした)もう一つのてらいと変るところはない。幸いにしてモンテーニュという人は、そうなりさがるには余りにも理性主義者であり、モラリストであり、また人間であった。
われわれは、先にもふれたように、モンテーニュの著作の中に、明らかに二つの部分を識別する。例えば探求の部と勧告の部、理論の部と実際の部、弁証論の部分と実際論の部分という風に。モンテーニュみずからも、「自分の著作はディスクール(discours=raisonnement)の部とイストワール(histoire=rcit)の部から成っている」と言っているが、わたしはそれを「理論」の部と「勧告」の部といってもよいのではないかと思うのである。
伝統的にフランスの知識人は、しばしば高遠な好奇心の翼を思いのままにひろげるが、やがて行為の広場に降りたたねばならなくなると、その独自な思想を普通一般の立場から改めて批判する。モンテーニュもそうである。哲学者としての立場はあくまで大事にとっておき、そこでは随分大胆な放言もすれば逆説もならべて、大いにその精神を堪能させるが、同時にまた一市民としての立場も忘れない。そこでは彼の感情が、物事をただ理屈でばかり割り切ってしまうことをゆるさないからである。こういう流義には勿論大いに危険がある。けれどもそれは、数世紀を通じて、実際の面で精神が向う見ずなあやまちをおかすことを抑制し、大衆を危険にひきずりこむことをふせいできた。中世にもそういう例がある。『ばら物語』の著者の一人ジャン・ド・マンは「中世紀のヴォルテール」(Gaston Paris)と言われる人で、彼のもとにはわれわれが、これこそ近代人の発明だと思っているものさえ、すでに相当にそろっていた。それは、フィリップ美男王の時代で、ジャンはこの王と親交があり、その庇護をうけたのであったが、王は決してこの詩人哲学者の思想をそのまま政治の面に実現させようとはしなかった。
わがモンテーニュも一面哲学者であると共に、また為政者であった。だからその同胞同時代人が、賢明なフィリップ四世のような慎重さを持たず、理論をそのまま実行に移して、何もかもひっくりかえしてしまうことのいかに危険であるかを、知っているのである。そして夫子自らも、理論の世界ではあれほどまでにその個を大事にしたのに、ひとたび実際の世界に出ると、案外惜しげもなくその個人主義をすてるのである。それは各人のちっぽけな「我」がそれぞれ己れを主張してまげないところから、自分の眼前にどれほどの混乱と流血との地獄図がくりひろげられているかを、現に見ているからである。彼はその持って生れた涙もろさないし慈悲人情からも、またその学びえた人間尊重の主張即ちヒューマニズムからも、余りにも非人間的な眼前の惨状を見るに忍びなかった。モンテーニュのピュロン説を誤解しまたは過大視する人たちは、彼のような人間にとっては、人間同士がそれぞれの信仰を盾にとって、互いに殺し合い傷つけ合っているさまを見ることは、面白く小気味よいことであったろうなどと言いかねないが、これほど大きな間違いはない。それは『随想録』の随所に感じとられる彼の高貴な感情を無視することである。彼の懐疑論が政治上の寛容の基礎になったことは疑うべくもないが、為政者としての彼は常に必ずしも寛容(tolrant)でばかりはなかったということもまた事実である。もちろん哲学者としては絶対中立であったけれども、公民としての・あるいは政治家としての・立場からは、必ずしもそうではなかったのである。寛容が協和平和をもたらす限りにおいてはそれをよしとしたが、寛容であること・無関心であり中立であること・がかえって社会上の混乱と不秩序との原因となる場合には、断然一派に属して、力の政治に与くみすることさえ実際にはあった*。そこに彼の思想の限界があったとも言えるし、またそこに彼の知恵があるのだとも言えよう。
* 聖バルテルミ祭の殺戮に関して一言半句も述べていないこと、市長時代の実力行使の事実、軍職礼讃等々を、われわれはここに思いおこす必要があろう(巻末年表参照)。
第一巻第二十三章「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」という章の中に、彼ははっきりと言いきっている。
(b)わたしは改革が嫌いである、それがどんな顔をしていても。それは当然のことだと思う。現にわたしは、そのはなはだ有害な結果を幾つも見ているのだ。久しい前から我々に迫っているあの改革も、それは全部をなしとげたわけではないが、人はこう言っても間違いではないと思う。「それは間接にいろいろなものを産み出した。不幸や破壊をまでも産みだした。そしてそれらは、その後、改革とは別に、改革とは逆方向に、行われている。これでは、改革はまず自分自身を改革してかからなければならない」と。
ああ、わが放てる矢こそ、われを傷つけたれ。(オウィディウス)
国家に動揺を与えるものは、いつも真先にその破滅にまき込まれる。(c)攪乱の結果は、かきまわしたものの手に残らない。結局他の漁夫たちのために水を打ち波をあげただけにおわる。(一の二十三)
ここには今日現在の日本の革新政党のやり口やその思わざる結果に対する評言を読みとることすら出来よう。モンテーニュは、本当は因習打破を望んでいるのだが、いわゆる革命家の運動はかえって逆効果を生み、反動政党を益するような結果にさえなっていることをなげくのである。
第三巻第二章「後悔について」の中にはこんな意見がある。
……わたしはたんに理性と自然とが非とする不徳だけでなく、人間の意見が作りあげたそれらをも(それぞれ程度は違おうが)、すべて不徳と見なすのである。よしそれが誤った考え方にもとづく意見であっても、法規と習慣とがそれを支持しているかぎり、それが不徳とするものはやはり不徳と見なさざるを得ないのである。(三の二)