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俳諧の歴史というものは厳密にいえば殆んどまだ調べがついていないというてよい。芭蕉とか蕪村とかいう重な二、三の俳人については相当の研究をした人もあるけれども、俳句全体の歴史を文学史的に研究した人はまだ一人もないといって差支ないのである。しかして世間で普通に説いている俳諧史は極めて簡略な極まりきった説話に過ぎん。今一層大胆に引っくるめて言えば、徳川初期から明治大正の今日に至るまで、多少の盛衰もあり多少の変化もあるにしたところで、要するに俳句は即ち芭蕉の文学であるといって差支ない事と考える。即ち松尾芭蕉なる者が出て、従来の俳句に一革命を企てた以来二百余年に渉る今日まで、数限りなく輩出するところの多くの俳人は、大概芭蕉のやった仕事を祖述しているに過ぎん。そこで今俳句を解釈するに当っても、元禄の俳句はこういう風に解釈せねばならぬが、天明の俳句はそれと全く違うてこういう風に解釈しなければならぬとか、明治大正の俳句はこういう風に解釈しなければならぬというような、そんな複雑した変化のあるものではなくって、或る俳句を抜き出して来て、一応それを解釈する事が出来るようになった以上は、大概の俳句はそれに準じてさほど困難を感ぜずに解釈の出来るものである。唯その中に読み込まれている材料の解釈がむつかしいがために、解釈が出来ぬというような場合は論外であるが、俳句なる或る特別の一つの詩形を解釈するだけの事は、若干句の解釈によって容易く領得せらるる事と考える。そこで私は殆んど時代なんかに頓著なしに数十句の解釈を試みて、諸君の俳句に対する解釈力というようなものを養うという事にしようと思う。
な折りそと折りてくれけり園の梅 太祇
春先きになって、或る人の庭に梅の花の咲いているのを見て、彼処にいい梅の花が咲いている、あの枝が一本欲しいものだと思うて、それをその家の人に断りもしないで折ろうとしていると、意外にもそこにその家の主人がいて、その梅を折ってはいけない、と叱りながらも、そんなに欲しいのならば上げようといって、かえってその主人が手ずから梅の枝を折ってその人に呉れたというのである。同じ物を盗むのでありながらも、いわゆる風流泥坊で、その盗む者が花卉の中でも殊に清高な姿をして芳香を持った梅の花である事が、一種の面白味を持っている。またその梅を折る人も物を盗むは悪い事と知りながらそれを金に代えようというわけでもなく、多寡が梅の花の一枝位だから折ってやれと、窃かに折り取ろうとしていると、思い懸けなくも其処に主人の声がして梅の花を折ってはいかんと尤められたので、吃驚して手を止めたのであるが、其処の主人もまた、それを尤めたばかりで無下に追い払うのも、それを折る人の心持を十分に解釈することの出来ぬものとして、何処かに自分自身不満足を感ずるので、そんなに黙って折るのはいけないが、欲しいのなら上げようといって、かえって手ずからその枝を無造作に折ってその男にやったのである。かくしてその盗もうとした人も、それを尤めた人も、梅花そのものを通じて互にその心持を領解し合うところに、この小葛藤の大団円はあるのである。
親鶏のひよこ遊ばす葵かな 成美
庭先きに葵がついついと立っていて、その青い葉の頂きの方に赤い花が咲いている。夏といってもまだそうむやみに暑くならない頃で、むしろすがすがしい心よさを感ずる位の時候であって、その葵の近所には赤い鶏冠を持っている親鶏が、黄を帯びた小さなひよこを連れて餌を探しながら歩いている。葵の幹の曲りくねったところもなしについつい立っている形や、強味のある葉や、堅いような花やが初夏の心持にふさわしいと同じように、雛を孵して間もない親鶏が満足気にその雛を引き連れて歩いている様子からその親鶏の大きく丸い形や雛どもの小さく丸い形やまでが、やはり初夏らしい心持を持っている。その上色の配合の点からも葵の葉の青いのに、花は赤く、親鶏の鶏冠は一層赤く、雛は黄いというところに余り色の混雑がなくなってしかも色彩の配合の面白味がある。それがまた初夏の心持を十分に好く現わしている。今一層はっきりした印象を描き出して見るならば、その葵も親鶏も雛もそれぞれくっきりとした影を地上に落しているような心持もする。この種類の句は絵画と同じような力をもって人に迫るのである。
新蕎麦や長田が宵の馳走ぶり 合瓜
この長田は長田の荘司の事で、例の源の義朝を泊めて置きながらこれを暗殺して平家の方に党した等の事蹟に基いて作ったもので、長田が義朝を家に泊めて置いたのは節季から正月にかけての事であったのだから、それにすると新蕎麦というのは事実に合わぬけれども、俳句には往々にして事実には頓着なしに趣きの方から趣向を立てる事が多いからこの句もやはりその一例と見るべきものである。いよいよ今夜か明日は義朝をたばかって弑してやろうという前の晩に、折節出来た新しい蕎麦粉を打って、新蕎麦が出来たから一つ召上らぬかと他意もなげにそれを勧めて、心から義朝を款待するように見せかけたというのである。なまじい際立った御馳走などをしては、どうもいつもと違うた御馳走を今夜に限ってするのは、少し変だなと万事に警戒している落武者の事であるから、忽ち気取られることもないとはいえんのであるが、同じ馳走をするのにも、新蕎麦を打ったからというて蕎麦を勧めるという事は無造作であって、しかも親しみのある馳走ぶりであって、それで酒でも勧めて義朝に油断をさすとしては、いかにも事実ありそうに思われる事柄である。季節に頓着なしに感じの上から、新蕎麦を持って来たところが詠史の句としては取柄である。俳句の詠史は漢詩や和歌などと違うてその事柄を優美にしたり、荘重にしたりすることはしないで、むしろその事柄と反対に卑近な物を持って来たり、滑稽な物を持って来たりして頓挫を与えるものが多い。この句などもその一例で、長田忠致が源の義朝を弑したというような事柄は歴史の中でも悲壮な事柄であって、もしこれを漢詩にでもすれば堂々たる文字で、英雄の末路を弔するのであるが、それが俳句になると極めて卑近な新蕎麦というようなものを持って来て、長田が義朝を弑す前の晩には新蕎麦を御馳走して一杯飲ましたのだそうだ、はあはあ、なるほど新蕎麦で一杯やったのか、などと話すとすると、その悲壮な事実に頓挫を与えて其処に一種の軽味が生ずるようになって来る。これが即ち俳諧趣味ともいうべきものであって、俳句の詠史は多くそういう風になるのである。
易水にねぶか流るゝ寒さかな 蕪村
詠史の句の話をしたついでに、今一句この句の解釈を試みて見よう。『唐詩選』五言絶句の第三句目に「易水送別」という題で、駱賓王の、「此ノ地別レシトキ二燕丹ニ一。壮士髪衝ケリレ冠ヲ。昔時人已ニ没シ。今日水猶ホ寒シ。」とあるのは人口に膾炙した詩句で、秦始皇を弑そうとして壮士荊軻が燕の太子の燕丹に易水のほとりで分れた事蹟を咏じたのである。この事蹟を簡単に説明すると、戦国時代に燕の太子の燕丹というのが、秦の国に人質として行っていたのを始皇帝が虐待した、それを憤って燕丹は燕の国へ逃げ帰り、何とかしてその恨を報じようと思っていた矢先、秦の将軍の樊於期というのが罪があったのを逃れて燕の国へ来た。そこでその樊於期の首を討って、その首と燕の国の地図とを持って、それを始皇帝に献上すると見せかけて、暗殺しようとしたのが燕の国の壮士の荊軻であった。これは燕丹の依嘱を重しとして荊軻はもとより一命を棄てるつもりで出掛けたのであったが、不幸にして見現わされて殺されてしまった。そのいよいよ秦の国へ入り込もうとする時易水という川で燕丹と別れた。その遺跡として易水を唐の駱賓王が弔うた時に、この詩は出来たのである。蕪村はよく唐詩を換骨奪胎して句を作っておる。この句も恐らくこの詩から思いついたものであろう。蕪村は実際支那へ旅行したことはないので、易水の景色を知っておるわけはないが、日本内地などで見る景色から想像すると、恐らくその易水という川もただの川で根深などが流れているであろう。「風蕭々トシテ兮易水寒シ」とか、「今日水尚寒」とかいうと格別な景色かとも思われるが、恐らくそうではなかろう。川上には根深を洗う百姓などが沢山いて、その洗った根深の葉片が薄濁りのした水の中に青い色を見せて流れているのであろうというのである。蕪村の想像からいえば「あろう」であるのだが、それを実際その景色を見たように「ある」としておるところがこの句に力を与えておるのである。想像も断定もその人の心の内の現象として見れば畢竟同じ事である。蕪村などは好んでこの断定の形式を取っておる。即ちこの句の如きも前の長田の新蕎麦と同じ事で、漢詩などでは「風蕭々兮」と言ったり、「壮士髪衝冠」とか言ったりして、ものを仰山に言って易水の寒さを咏じておるところを、俳句であっては極めて卑近に「根深の流れる」という事を以て軽くそれを叙しておる。前に漢詩を控えた上でこれを見るとやはり一種の頓挫があって、軽い滑稽味を覚える。そこが即ち俳諧趣味である。
同じく滑稽味と言ったところで、これらはげたげた笑うような滑稽ではなくて底には淋し味も含んだ品のいい滑稽である。ユーモアというような部類に属するものである。ところが俳句の滑稽もずっと以前になると、大分趣を異にした駄洒落に類するものがある。ついでにその一句を挙げて見ようならば、
かぜ寒し破れ障子の神無月 宗鑑
この頃は大分風が寒くなって来た。その寒い風が吹くにつけ自分の住居の破れ障子が今更のように目について佗びしく、それから吹込む風も寒い、のみならず世上は八百万の神々が出雲の大社へ旅立をせられて、いずれの社もその御留守の即ち神無月であると思うと一層の寂しさを覚える、というこれだけのものとすれば、「神無月の破れ障子に風が寒い」という普通の叙事に過ぎないのであるが、この句で注意すべきことは「障子の神無月」と連ねられた文字の使い具合でこれは「障子の紙」という掛言葉になっているのである。この作者宗鑑という人は今から凡そ三百年ばかりも前の時代の人で、その時代はこの掛言葉が流行して、その掛言葉の上手下手がやがて俳句の上手下手と見做されたのであって、自然その掛言葉から来る滑稽趣味、地口ともいうべき一種の駄洒落が句の生命を為していたのであった。それを改革して文学的生命あるものとしたのが前言った松尾芭蕉で、それ以来かかる流行は廃れたが、なお時にその種の句も存在しないではなかった。その一例を言えば、
愚痴無智の甘酒作る松ヶ岡 蕪村
この句は鎌倉の松ヶ岡即ち今は宗演老師のいる東慶寺のことを言うたのであるが、この松ヶ岡(地名)の東慶寺という寺は北条時宗の細君が開山の尼寺で、今でいう女権保護のために建てた寺で、この寺に一歩でも足を踏み込んだ女にはもう法律の権威が及ばない、尼の許しを得なければ将軍であろうが大名であろうが、その女をどうすることも出来ないのであった。それは北条時代からこの御維新前まで続いて来たのであって、自然この寺には沢山の女が庇護されてもいたし、またその女の望みによっては末寺の坊に落飾して住まっていた女も沢山あった。そういうところから女は元来愚痴でかためた無智なものであるが、その愚痴無智の尼が退屈の余りに甘酒を作るというのである。普通の家庭でも女等が集まると、お鮓をつけるとか牡丹餅をつくるとかする、それと同じような訳で、尼どもが集まって甘酒をつくるというのである。この句の「尼」と甘酒の「甘」とが掛言葉になって、それがこの句の主な趣向になっておる。易水の句などに比べると同じ蕪村の句でも下等な句である。
郭公大竹原を漏る月夜 芭蕉
この句を見るとすぐ京都の嵯峨の修竹林などを思い出す。大竹原というのは大竹藪というのも同じ事であろう。広々とした藪であって、しかもその竹も小さい竹ではなく大きな幹をした竹でありそうに思われる。その大竹原の上には夏の月がかかっていて、その月影はその粗い大竹原の間を洩ってちらちらとその大きな竹の幹などにも落ちている、そこに郭公が一声二声鳴き過ぎた、とこういう景色である。初夏の清涼な心持が句に漲っておる。こういう句を解する時分に、時鳥の大竹原を漏る、という風に解する人があるかも知れん。それは俳句の句法に慣れないためである。郭公で一度切って、郭公(鳴くや)、大竹原を漏る月夜、という風に読めばいいのである。その「鳴くや」とか「鳴き過ぐや」とかいうような動詞の省略されるという事は俳句には普通の文法である。郭公は耳に聞いた声、大竹原を漏る月夜は眼に見た景色、両者相俟って大景を描き出しているのである。