その四 コップの液体
スリコ(売薬)でごまかそうと思ったのだが、丸万が言うには、そんな姑息なことをしてて、コーガン炎にでもなってみろ(と彼は目をむいて)おめえのいるあのシタドヤ(安下宿)の部屋じゃ、外のオツボネ(廊下)を誰かが通れば、寝てるおめえの枕もとを通るようなもんだから、その足音がたちまちキンタマにびんびんひびいて、あっ痛え(と彼は顔を思いきりしかめて見せて)、廊下どころか、オカルバ(二階)の物音だって、おめえ――おめえの部屋はそう言えば、一日、陽の当らねえ北側の隅っこだったな、二階の物音が天井から筒抜けみてえにひびいてくる部屋だったな、あすこじゃ、おめえ、二階のオオマナビ(大学生)にドタバタやられてみろ、いやただ歩くだけのミシミシでも、すぐピーンとキンタマにひびいてきやがって、痛え、痛えと男泣きに泣かなくちゃならねえ、コーガン炎たあ、そういうもんだとおどかして、丸万はもと、旋盤工だった時分に世話になった本所の「セツル」を俺に紹介すると言う。町医者はぼられるから、もちろん駄目だが、安い病院だって、リン病は時日がかかって金を食うから、いいとこを自分が教えてやると言う。
「セツル」たあ、なんだと俺は聞いた。セツルメントの略だとはのちに俺も知ったが、そのときの丸万の説明は、帝大のえらい先生方が学生を連れてきて、ヨジシ(貧民窟)のなかで、リツ(弁護士)やシャジ(医者)のところへ行けないヒカワ(貧乏人)相手に、法律の相談や病気の診断をしてくれてるところだという。
それはセツルメント運動のひとつなのだが、そのとき俺は、インテリ嫌いの丸万に似つかわしくないことを言やあがると思って、慈善事業かとせせら笑った。偽善事業の世話になんかなりたかねえと俺はことわった。それには、ほかにも原因があったのだ。
実はこの丸万には、自分の恥をさらすようだから、まだ言ってなかったが、アナ系の組合に属していた工場の連中を、ごっそり引き抜かれた俺は、くやしくてくやしくて、ボル派の組合の江東支部へ、殴り込みをかけてやろうと思ったものだ。だが、俺ひとりでは、淫売窟で袋叩きに会ったあの二の舞いをやらかしそうで、そうなると、俺がひとりで袋叩きになるのはいいが、それではこの場合、アナーキスト全体の面汚しになる。だから、こっちが負けないように、「現実派」のアナーキストの同志の応援をもとめたいところだが、へたに言うと、これはみんな、ヤチモロの四郎さんよ、お前さんが、ガセビリにうつつを抜かしていたからだと、逆にやられかねない。そこで俺は――今度のことに直接、関係していると思われるボル派の組合のオルグを、道に待ち伏せしてデッチル(殴る)ことにしたのだ。俺はここで、はっきり言っておくけど、俺を実際に裏切ったのは、工場の連中なのだが、工場の労働者にだけは俺は手を出さなかった。俺に対する裏切りを彼らにさせた組合のオルグを俺は殴ったのである。
そいつのなかに若い大学生崩れがいた。そいつの大学は帝大だった。俺はそうした帝大にゆかりのある「セツル」なんかの世話になりたくなかったのである。
それを俺は丸万には言えなかった。間もなく、俺が組合を失ったことは丸万にもばれたのだが、丸万の耳に自分から入れたくないと思った俺は、「セツル」へ行きたくない理由も黙っていたのだ。
だから丸万は、しゃにむに、俺を連れて行った。通称「セツル」は精工舎の裏手のきたない家だった。セツルメント運動と言って、細民街に身をおいて労働者の向上を計る社会運動があって、その機関が「セツル」で、そこで法律相談や託児所や診療所をやっていたのだ。
その診療所へ行くと、皮膚科はやってないと言う。それ見ろと、俺は丸万に嘲りの笑いを投げたが、俺はこのとき初めて、町のオンボー(性病の医者)の看板に出ている花柳病科というのは素人向けの言葉で、学問的には皮膚科というのだと知らされた。リン病は皮膚の病気なのか、へーそうですかと俺は感心(?)したもんだ。
子供のシラクモとかタイワン坊主(ハゲ)とか、そういう皮膚の病気は扱っているが、リン病、バイ毒の治療はこの診療所ではやってないと言う。そういう不道徳な病気の面倒は見てやらないといったふうだ。
なんとか先生はいないんですかと、面目丸潰れの丸万は食いさがっていた。トラホームの子供や肺病やみみたいなおかみさんや蒼んぶくれのじいさんなどが、狭い診療室から廊下にまで溢れている。
丸万がもと世話になったらしいそのなんとか先生は、地方の病院に赴任したと、白い上っぱりをつけた若い医者――学生にしてはちょっと年の行った所員が言った(これは学生でなく、大学を出て付属病院の医局にいる医学士だとのちに知った)。
そのなんとか先生に、コーガン炎をなおして貰ったのかと俺が丸万に聞くと、いや、そうじゃないんだがと、にがり切った顔だった。俺は丸万が、俺に向って大いに自慢していたコーガン炎を、てっきりここでなおして貰ったのだとばかり思っていた。
冗談じゃねえやと俺が帰りかかったとき、見るからに大学の先生らしい紳士が、廊下を通りかかって、おや? といった眼を丸万にそそいだと思うと、
「技工組合の丸万君じゃないか」
「帆住先生……」
と丸万は最敬礼をして、しばらくでしたと懐しそうに言って、
「先生はまだ、こちらの面倒を見てらっしゃるんですか」
まだ? と相手は温顔に苦笑を浮べて、
「君もまだ、アナーキズムを信奉してるのかい」
「もちろんです」
「アナーキズムはさっぱり振わんな」
そんなことはないと丸万は肩を怒らせて、
「この青年は、あたしの同志です」
と俺を紹介した。この紳士は帝大法学部教授の有名な帆住博士だった。
向うの託児所から、青っぱなをたらしたガリッポシ(子供)の騒いでいる声が聞えてきた。帆住博士はセツルメントの運動の真摯な信奉者として、忙しい時間をさいてはこのスラム街に来ていたのである。
俺は特別にここで治療をして貰えることになった。なったのはいいが――あのころの治療は全くもって、原始的と言うかなんと言うか、ここだけが特別に原始的だったと言うんじゃなくて、どこだってそうだったのだが……。
馬の注射器みたいな太い管に、紫色の液体をたっぷり入れて、それを俺のヨシコのさきから注入するのである。人の眼にさらすのは、いくら男だって恥しい、相手が医者でもやはり恥しい、そのヨシコの、コスイ(小便)を出す穴から逆に、液体を逆流的につぎこまれるのは、心理的だけでなく、生理的にもいやな感じだった。おまけにその液体は、俺がクララに初めて会ったとき、便所でお目にかかったあの洗滌液とそっくり同じなのも、いやはや、いまいましい限りだった。そいつを、しこたま――ほんとは、静脈注射のザルソブロカノン(なんてむずかしい薬名を知っているのは、俺が肺をやられたとき、それの世話になったからだが、これは後日の話――)ぐらいの量だったけど、実感としては、しこたま、俺のヨシコにつぎこむと、医者が、
「はい、おさえて」
と俺に言う。
そこで俺は、てめえのヨシコのさきを、てめえの指でおさえるのである。ヨシコのなかにつぎこまれた液体が、そのままでは当然すぐ出てしまう、というより液体自身がいわば居づらくて、飛び出したがるみたいなのを防ぐために、自分の指でおさえるのである。ヒリヒリするのを我慢して、若い医者から、はい、もうよろしいと言われるまで、一定の時間おさえているのである。
金をぼる代りに、お客さまへのサービスも大事にしている花柳病専門の医院だったら、人の眼から隔離した小部屋が用意されているだろうが、ここはそうはいかない。ヨシコのさきをおさえる道具も、そうした医院なら、ちゃんとあるだろうが、ここにはない。人には背を向けているとはいえ、その背が丸見えの診療室の隅で、妙なところを自分の手でつまんで、壁を睨んでいるその恰好は、全く見られたざまじゃない。恥知らずになるために、みずからをそうして鍛錬しているかのようだった。破廉恥をみずからのうちに養成するために、そうして醜態をさらけ出しているかのようだった。
今は注射や呑み薬でたちまち、けろりとなおってしまうのだろうが、昔はこういう醜態をさらしに、まるでそのためのように、毎日通いつづけねばならなかった。
ウミは間もなくとまって、ウミの出ている間は濁っていた小便も、だんだん澄んでくるようになったが、どのくらい澄んだかを毎日しらべられる。これもまた、工合の悪いものだった。殺菌液の注入の前に、コップに小便を取るのだが、これもその場で、部屋の隅でやるのである。
立小便ふうにやるのだが、立小便には立小便の場所がおのずとあるものだ。感覚的にそういう場所を自分で選ぶのであって、衆人環視の部屋のなかで強制的にやらされるんでは、どうも――たとえヨシコは人の眼から隠していても、そのヨシコのさきにコップを当てがって、小便をするんでは、フンづまりじゃないが小便づまりみたいになって、出るものも出ない。
乱暴なことは随分思い切ってしてきた俺でも、乱暴をするという意識でなく、おとなしくコップに小便をする、この工合の悪さは格別だった。緊張して、なかなか出てこない小便も、やがてなれれば、しゃあしゃあと、音までしゃあしゃあと出せるようになったが、ビールのコップにそっくりのコップに、ビール色をした小便をたたえて、その自分の小便を、はいと差し出して、人さまのお眼にかけるというのも、工合の悪いものだった。
それにもなれたころ、俺はここへ来るため、カタマチ(電車)に乗ろうと道を歩いていて、小便がしたいなと思ったときがあった。だが、ここでしてしまうと、診療所へ行ったときに、小便がたまってないと困る。そう考えてそのまま市電に乗った。その市電のなかで、俺はずっと、小便がしたいな、ああ、コズメを刈りたいとつぶやきつづけていた。それにこだわると、よけいいけない。だから、ほかのことに心を散らそうと思うのだが、そう思うとかえって、こだわってくる。
乗換えのときに、しよう。そうきめたが、その乗換えのときになると、まだ当分は我慢できる気がしてくるのだから不思議である。我慢してまた電車に乗った。そしていよいよ終点で降りたときは、もう我慢ができないくらい猛烈に小便がしたかった。だが、ここでするくらいなら、電車に乗る前にしておいたほうがよかったので、ここまでこらえておいて、そんな手はないと俺は診療所へ急いだ。
下らないバカな話をするようだが、俺のバカさ加減がこんなところに案外一番出ているようだ。
診療所へ行くと、俺はすぐコップを借りた。たまりにたまった小便は、見るみるうちにコップをみたして行って、こいつは弱ったぞ、溢れるんじゃないか。案外すれすれのところでおしまいということになりそうな気もした。それをひそかに望んでいたのだが、コップいっぱいになっても、まだとまらない。
「コップ、コップ。追加のコップ」
と俺は叫んで、小便を無理にとめようとしたが、時すでに遅く、きたないその液体はコップから溢れて床に流れた。
そうしたある日、俺がヨシコのさきを指でつまんで、壁と睨めっこをしていると、ふとこんなことが心に来た。俺にこのリン病をうつしたクララは、ひょっとすると、自分ではそのことを知らなかったのではないか。そうだ、クララは自分がリン病だということを、自分ではきっと知らなかったのだ。そうにちがいないと思った。
クララをひたすら憎んでいた俺は、そうと思いつくと、ごめんよ、照ちゃん――口で言うかわりに、指に言わせるみたいにきゅっと、ヨシコをつまんだ指に力を入れて、
(いけねえ)
このとき、
「はい、もう、いいですよ」
背後から、あいにくとこの日は看護婦が言って、真鍮ののう盆を出した。固くなった俺のヨシコを見て、看護婦は顔をそむけた。
外は暗くたそがれていた。俺はクララのことを思いつづけた。
なぜ今まで気づかなかったのだろう。あのクララは、自分で知らないで、俺にリン病をうつしたのだ。つまり自分で知らないで、誰かからリン病をうつされていたのだ。
だが、そうなるとまた、それは、俺と寝る前に、俺に許したと同じような許し方で自分を抱かせた男がクララにはいたのだということになる。俺は嫉妬で胸が熱くなった。自分の推察の招いた嫉妬が自分を苦しめた。
その男というのは、富江の言っていた「悪い男」か。クララをどこかへクラ替えさせた男……。
そいつが病気持ちだったのだろう。病気持ちと男は自分で知っていて、クララを抱いたのだ。俺は急にまたクララが可哀そうになった。クララは男が病気持ちとは知らなかったのだろう。だから俺に病気をうつそうとは夢にも思わなかったにちがいない。
男にクラ替えさせられるクララは、俺とこれで別れねばならぬとあって、俺にああした最後の抱擁を許したのだろう。クララは俺を愛していたのかもしれぬ。
それにしても、俺のヨシコにとっついたリン菌は、クララの男のヨシコに巣食っていたリン菌なのだと思うと、俺はやり切れない。俺は無性に酒が飲みたくなった。
飲んじゃいけないとなると、よけい、飲みたい。飲むと、せっかくの治療がふいになるからと厳禁されていたが、俺は酒が飲みたくて飲みたくて困った。俺はそれを我慢した。小便を我慢したように、我慢した。我慢力を試そうと我慢した。
俺は上野に出て、不忍池のまわりをほっつき歩いた。上野の森に、満月がぽっかりと浮いていた。
出た出た月が――俺はそんな童謡を口ずさんだ。まーるい、まーるい、まんまるい、盆のような月が……。
俺はクララが恋しいのだ。クララというより、照子が――瀬良照子が。これがクララの本名である。
俺は同じ歌を、幾度かくりかえしたが、そのうち、
デタ デタ
ウミガ
間違えた。俺はデタ、デタ、ツキガと言い直したが、えい、くそと舌打ちをして、
キイロイ
キイロイ
マッキロイ
ウミノヨウナ
ツキガ
クララこと瀬良照子に俺はどうしてももう一度会いたいと思った。そのおもいに駈られて、俺は砂馬に会った。
砂馬には身うけの金のことで、前に俺は相談に行っていて、
「よし、考えてやろう」
と砂馬から、侠気に富んだ返事を貰ったが、すぐ二日ほどして、俺は、
「あれは、もうやめた」
と、みっともないことを言わねばならなかった。その俺は袋叩きにされたための赤あざだらけの、顔までみっともない俺だった。
「そのツラはなんだ」
「ヒモがついてやがった」
口をきくと、顔の筋肉が痛かった。
ヒモに殴られたのかと砂馬は言った。いや、そうじゃないんだ、ヤグラをあげた(怒ってあばれた)はいいが、多勢に無勢でやられちゃったと、俺は繃帯をした手を隠すようにした。
「馬鹿だな、加柴も」
砂馬は笑った、嘲笑ではなかった。
――その砂馬に俺は言った。
「砂馬さん、慷堂先生に会ったかい?」
まるで少年に戻ったかのような俺の声だった。砂馬は黙っていた。
否定しない砂馬に俺は言った。
「砂馬さん。慷堂先生に聞いてくんないか」
瀬良という支那浪人がいるかどうか。いるとしたら、その瀬良という人はどこに住んでいるか。
「砂馬さん。聞いてくれよ」
甘ったれた声だなと俺は思った。あぐらの左足を膝の上に乗せた砂馬は、左手の親指で足の裏をこすりながら、俺を睨みつけていた。
「俺の惚れた女は、その瀬良という支那浪人の娘なんだ」
クララこと照子からその姓をそうと聞いた。
「女がそう言うのか」
砂馬は足の垢をよって、黒い玉にすると、そいつをつまんで、爪のさきでぽんと庭に弾いた。空いた右手では「朝日」をすいながら、
「支那浪人の娘が、銘酒屋奉公をしているのか」
「自分のお父つぁんは支那浪人だと言ってたんだ」
「銘酒屋の女の言うことを、加柴は真に受けてるのか」
「聞いてくれるくらいは――聞いてくれたっていいだろう」
「支那浪人の斎田慷堂に、同じ仲間の娘が淫売をやってるかと聞くわけか」
俺は初めこれを丸万に頼んでみようかと思ったのだが、丸万から俺は、彼が砂馬を慷堂にひきあわせたという話を聞いて、砂馬のほうにしようと思い直した。慷堂の名を俺が口に出したとき、砂馬はどういう反応を示すか、それを知りたい興味もあって、ここへ来たのだ。
その砂馬は、慷堂に対してそんな失礼な質問ができるかと言わんばかりだったが、すぐつづけて、
「そいつは面白い。聞いてみよう」
と俺に言った。
このとき、黒い背広の男が、いけ垣の向うからひょっと座敷をのぞいた。刑事だと俺は直感して、
「イヌがのぞきやがった」
砂馬は聞き流して、
「これから一緒に、聞きに行こう」
そう言うと、
「デカも一緒についてくるといいんだ」
そして、デカの刑事に聞かそうとするような大声で、おーいと子分を呼んで、斎田慷堂の家へ電話をかけて、これから伺うが都合はどうか聞いてみろと言った。
子分は酒屋へ電話を借りに出て行った。女房のいない砂馬の家には、子分とも同志ともつかぬ若い男が、いつもごろごろしていた。
「変なじじいさ」
砂馬は慷堂のことをそう言って、
「もとから、名だけは聞いていたが、会ったことはなかった。大杉先生とは、昔、つきあいがあったらしい」
大杉栄の名が出たので俺が、?と眉をあげると、幸徳秋水とも一時は親交があったのだと砂馬は言って、
「だから、大逆事件のときは、斎田慷堂もつかまってる」
ふーんと俺は唸って、
「つかまって、よく無事に出られたものだ」
と俺は言った。大杉栄の場合は、「赤旗事件」で千葉監獄にはいっていて、大逆事件のときはシャバを留守にしていたのだ。
「日本の革命より支那の革命のほうで奔走していたせいだろう」
と砂馬は言って、
「右翼とのつながりもあって、それで助かったのだろう」
「そのじいさんは、両方に顔なのか」
「顔というよか、じいさんの思想が土台、ふたつの面を持っている。一筋縄ではいかないじいさんだ」
侮りとも敬服ともつかぬ語調で砂馬は言って、
「悲堂、歌堂、慷堂、慨堂という支那浪人の四人組のひとりだ」
「悲歌慷慨か」
「四人とも自由民権論者だったらしい。自由民権運動の挫折から、大陸へ志をのばそうとしたのだと、それは自分で言ってたが」
電話をかけに行った子分が、慷堂の在宅を知らせた。
俺は砂馬に連れられて、初めて斎田慷堂に会った。
初めて訪ねたときの慷堂の家は、砂馬の家とそんなにちがわない粗末さだった。ちがうのは、門構えだけがヤケに立派なことだった。
俺たちは二階へ通された。漢籍を積んだ床の間を背にした慷堂は、砂馬が「じじい」とか「じいさん」とか言っていたのから想像したほどの老人でもなかったが、小柄な痩身はいかにもじじい臭く、見るからにひと癖ありげな風貌である。
「君は張継君に似とるな」
と慷堂は俺の顔をじろじろ見て、ひとりごとのように言った。眼光烱々と言うと、いかにも古風な形容だが、それがまたぴたりと当てはまる、古武士のような慷堂である。
俺は牛鍋屋で丸万から、張継の名をすでに聞いていたから、
「アナーキストですね」
と言って、この慷堂は、そう言っちゃ失礼だが、乾しのよくきいた、照りのいいくさやの干物を連想させると見た。
「さよう、アナーキストだけど――いや、アナーキストだからと言わんことには君たちに怒られるかもしれんが、張継君は、黄興、宋教仁らと並んでの支那革命の原動力であり指導者だ。そしてこの革命家たちを陰に陽に援助したのが、日本のわしらだ」
張継は日本大学の出身だと慷堂は言って、
「日本にいたときは、章太炎とともにクロポトキンに傾倒しとった。『パンの略取』をわしにも読めと、しきりに言っとった」
クロポトキンの名を口にするとは、この「じいさん」も古武士的な風貌に似合わずハイカラだなと俺は思った。
「日本を追われて張継君はフランスに行ったのだが、日本を去るときに、わしらに日本のラファエットたらんことを望みますと言いよった。大杉栄君もたしか聞いたはずだ。明治のあれは、屋上演説事件のときだから、四十一年のことだ。張継君が日本を追放されたのは、あの事件のためだが、大杉君もあれでつかまって起訴された。あのころの大杉君は、ちょうど君ぐらいの年だった」
と慷堂は私に言った。
「赤旗事件の前ですね」
と砂馬は言った。
明治四十一年六月、神田錦輝館で同志の出獄歓迎会を開こうとして、それが解散命令を食ったため、赤旗を街頭にひるがえしてデモをした。これが「赤旗事件」で、その前に、同じ年の一月に「屋上演説事件」というのがあった。幸徳秋水派の金曜会講演会が官憲のため、中止解散を命じられたとき、会場から追い出された人々が革命歌を合唱しつつ、街頭に集合した。その屋外の群集に対して、堺枯川や大杉栄たちが二階から演説したため、これが「屋上演説事件」として起訴された。
「張継君もその屋上演説事件の現場で、いったん、つかまったが、仲間の支那人が奪い返してくれた。それで京都へ逃げたのだが、そこでつかまって、日本を追われることになったのだ。京都へ逃げるときにすでに国外追放を覚悟していたのだろう、わしたちにラファエットたれと言った」
「ラファエット?」
「フランスの将軍で革命家さ。フランスからアメリカに渡って、アメリカの独立革命に大いに尽力した人物だ。本国へ帰ると、ラファエットはアメリカですでに試験ずみの方法でフランスの革命を指導した。張君がそのラファエットを云々したのは、支那革命を援助して、日本の革命の参考にせいということだな」
「支那革命は成就しましたが……」
かげでは「じじい」と言っていた砂馬が、慷堂の前では鄭重な口をきいて、
「日本の革命は……」
「未だ成就せずか」
慷堂はふくみ笑いをして、
「支那革命には軍隊が参加しとった。それで革命が成就したのだ」
ここが重大な点だと、砂馬を見すえるようにして、
「革命家には、二つの型がある。大杉君も『新兵諸君に与う』のあの檄文を放っていたときと、晩年とはすこしちがってきたようだな」
その檄文とは非軍備論の翻訳で、大杉栄はそのため朝憲紊乱の罪に問われて、巣鴨監獄にぶちこまれた。二十三歳のときである。
「国家の強い権力に立ち向って戦うには、革命軍にもそれだけの実力がなくては戦えない。力と戦うには力をもってせねばならない」
と慷堂は言ったが、俺はバクーニンが共産主義に反対して、それは権力主義であると断じたのを思い出した。「国家主義的」共産主義ともバクーニンは言った。「権力の手段に訴えて、上から下へでなく。自由連合によって、下から上へ」とバクーニンは強調した。俺は慷堂の言葉に、権力主義のにおいをかいで、
「先生は共産主義に賛成なんですか」
と言った。砂馬が横から、無茶を言うなと眼で言わせた。
「共産主義は、わしの敵だよ。君らの敵でもあろうが……」
その慷堂が「わしら」と言わないで「わし」と言ったことに、俺はある感じを受けた。
「失礼しました」
理論闘争はやめようと俺は詫びて、瀬良という支那浪人をご存知ではないかと尋ねた。これがこの来訪の目的である。俺はただそれだけ聞いて、その娘が銘酒屋に出ていたなどと言いはしなかったのだが、
「瀬良? 知らんな」
と慷堂は不機嫌そうに言って、
「この青年は、なかなか元気がいい。わしの若いときに、そっくりだ。酒をご馳走しよう」
――俺はそれまであんなに我慢していたキス(酒)を、その日、ガブ飲みしたのである。それは、お銚子を下から運んできた中年の女中が、顔かたちだけでなく、おどおどしたような挙措振舞も、俺の死んだおふくろをまざまざと思い出させたせいもあろうか。