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An Unpleasant Feeling
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 28

その五 砂むぐり

絶えて行かなかった四の橋の、俺のおやじの家へ俺が足を向けたのは、死んだ俺のおふくろの思い出が俺を招いたのか。往来に面して鋳物工場があり、その奥の川っぷちに家があって、家へ行くには工場の横の、ズク(屑鉄)やコークスの積んである路地を通るのだが、工場を抜けて、行くこともできる。その工場をのぞくと、その日はちょうどフキの日に当っていた。

なつかしい「湯」の臭いが、ツーンと鼻に来た。ズクを熔かした奴を「湯」と言うのだ。この「湯」の臭いのなかで俺は育ってきたようなものなのだから、そいつは俺に、ああこれは俺の家の臭いだ、俺は家に帰ってきたと感傷的な気持にさせる。そしてそいつは、癪なことには、おふくろよりも先に、おやじのことを俺に思わせる。

俺のおやじは俺の子供のときから、この鋳物屋をやっていて、せっせと文字通り汗みどろで働いているのだが、一向にうだつがあがらない。工場は俺の子供のときと、ちっとも変らないきたなさだ。おやじはノム、ウツ、カウの三拍子揃った道楽者だからということもあるけど、鋳物屋みたいな商売をやっていれば、それも当り前だと言えなくはない。俺としたことが、畜生、これではおふくろにすまないじゃないか。

上体は素っ裸のおやじが、ハタラキ(雑工)をどなりつけながら、仕事をしていた。俺の子供のときから見なれた姿であり、俺の子供のときとちっとも変らない姿である。機械工場やなんかとちがって、鋳物師のおやじは自分が先頭に立って働いている。自分でやらないと、気がすまないのでもある。

工場をのぞいた俺の顔に、熱風がむっと襲いかかった。息がつまりそうな暑さだ。コシキと、工場では呼んでいる熔解炉で、鋳物の地金を熔かしているからだ。コシキで熔解した地金(これが「湯」である)をユクミで運んで、鋳型にそそぐ。その熱が工場のなかにこもって、工場全体が熔解炉みたいなのだ。

俺は工場にはいらないで、外に立っていたが、おやじはその俺に気づくと、

「なんだ、この忙しいときに……」

俺をそうどなりつけた――と思ったが、なに、そのしかめ面に、そう言わせていただけだ。だが、俺はまさにどなられた感じだった。

そしてすぐ、おやじは、

「塩をくんな。塩を!」

と今度はほんとにどなった。

土俵場の柱にとりつけた塩入れ、あれとそっくりのものを、若いハタラキが、おやじへ捧げた。全くそれは、おそるおそる捧げたという恰好だった。

熱気で顔はおろか、裸の上体も真赤にした、まるで阿修羅みたいなおやじは、塩をむんずと掴むと、力士が土俵に塩を派手にまくみたいに、土がむき出しの工場の地面に、大半の塩をばらまいて、手に残ったほんの僅かの塩を口に放りこんだ。

水を浴びたみたいに裸の上体から汗をしたたらせたおやじは、塩をなめなめ、仕事をしているのだ。塩をなめたあと、瀬戸びきのヤカンの口から水をガブ飲みする。

フキの日は、こうして塩をなめなめ仕事をしないと、身体が弱ってしまうのだ。すごく汗をかくからだが、たとえば裸の皮膚に「湯」の飛沫がかかっても、汗のためにつるりと滑って、奇態に火傷をしない。それほどのすごい汗なのだ。塩をなめなかったら、参ってしまう。

ところが、この時の俺にはまるで、神聖な仕事場が俺の出現でけがされたのを、おやじは怒って、塩で浄めようとしたみたいに見えた。実際、そう言えば、俺はリン病やみのけがれた身体なのだ。

左様、あの慷堂の家で酒をガブ飲みした俺は、せっかくのそれまでの摂生を、それでいっぺんに、ふいにしてしまったわけだ。

それを俺は、特別の好意で治療してくれているセツルの若い医者に対して、相すまぬことだというふうに考えた。小便がやっと澄んできたのに、これでまた濁り出した――とあっては、セツルの医者に申しわけない。そこをひとつ、なんとかごまかさねばならぬと思った。

もう治療してやらぬと言われたら困るというより、そうなったらそれで、かまいはしないという俺の腹だったが、さきさまの好意をふみつけにしたことになるのが、いやだったのだ。弱ったなと思った俺は、そこで名案をあみ出した。

名案? いや、バカな考えだが、俺にはこんなバカなところがあるのだ。バカな俺なのである。

フキの日のおやじみたいに俺は、塩こそなめないが、水をガブ飲みした。朝から水を飲み通しで、一時間おきぐらいに小便が出るようになって、しめしめと俺はほくそ笑んだ。名案とはこれである。

ついでに書いとくが、フキの日には、塩と一緒に水をガブ飲みしていても、朝一回小便をすると、夜まで出ない。それほどすごい汗を流す、これもひとつの証拠である。

診療所へ行って、小便の濁りをしらべられるあのコップへ小便をする直前に、俺はあらかじめ小便をしておいた。そうして尿道をいわば浄めておいて、コップに小便を取ったのである。

絶え間ない小便で尿道は洗われていたが、それでもちょっと、やはり濁っていて、

「おや……」

と若い医者は言って、俺の顔を見て、にやりと笑った。

俺も黙って、にやりと笑った。医者は何も言わなかったが、俺も何も言わなかった。

俺の名前は、四郎と言うもんだから、四番目の息子みたいに思われがちだが、俺は次男なのである。母親のちがう三番目の息子は、三男らしい三郎という名だ。では、俺の兄貴の長男は、なんという名かと言うと、五郎である。

おやじは六郎という名なのである。そのおやじが長男を五郎と名づけ、次男の俺を四郎と名づけたのである。

おやじは六人目の子だったから、六郎と名づけられた。その子に、五郎、四郎、三郎という逆算的な名を与えたのは、なかなかしゃれたというか、ひねった感じながら一種の心憎さも味わえるのだが、いやなに、ほんとは名前を考えるのが面倒臭かったのだと、おやじは白状したことがある。

今でこそ俺も、心憎いなんて言うが、子供の頃は自分の名前がいやでしようがなかった。

「こら、シロ」

と、犬が叱られているのを聞くと、自分に言われたみたいに首を縮めた。

「バカだね、シロは」

なんてのも、俺のことでなく犬のことだと思っても、うんざりしたものだ。

おやじは俺の名を「シロー」でなく「シロ」と呼んでいたのだ。

シロ勝て、アカ勝て――運動会の綱曳きのあの応援、あれも、シロの勝ちならいいが、シロの負け! となると、同級生が、

「シロ負けたあ」

「シロ、シロ、弱いシロ」

と俺の顔を見て、はやし立てた。

「シロはいやだ。四郎はいやだ」

と俺は家でだだをこねた。おふくろは同情して、四郎の上に何かつけましょうかと、おやじに言ったものだが、

「シロでいい」

とおやじは一言の下にしりぞけた。

俺の下に女の子でも生れたら、おやじは三子とでも名づけるつもりだったのだろうか。女は生れなかった。

妹がもしいたら、年ごろになっても「要視察人」の俺のためにどこへもお嫁に行けないと、妹をさぞかし歎かせたことだろう。おやじの商売にも当座はひどくひびいて、あんな奴は勘当ですと、おやじは問屋や取引筋を回って、詫びて歩いたという。なかには、

「ああいうのを鬼子と言うんだろうね。加柴さんも飛んだ災難だね」

と逆におやじを慰めてくれる人もあったそうだ。それほど異常な犯罪と見られたのだ。

俺は中学へやって貰ったが、長男の五郎は小学校どまりで、おやじに手を引っ張られて、鋳物場へ立たされた。おやじの商売をつぐため、いや、つがされるために、おやじと一緒に工場で働かされた。子供のときから仕込んでおかないと、腕のいい鋳物師にはなれないというのがおやじの意見で、なまじ上の学校へやると、この商売をいやがるからという気持もあったようだ。

鋳物の本場の川口で修業してきたおやじは「砂むぐり」と一種の蔑視的な呼び名がつけられている鋳物屋という自分の商売を誇りにしているわけではなかったが、自分の腕を息子に残しておきたかったのだ。自分の腕には誇りを持っていた。

俺を中学へやってくれたのは、次男の俺は「砂むぐり」がいやなら、ほかの商売をやれというところだろうが、思えばおやじの温情をむざむざと裏切った俺なのである。

工場をのぞいた俺は、兄貴の五郎が、俺の子供のときから顔馴染のスミタキ(熔解工)のじいさんと一緒に、コシキの側でセンドメをやっているのを見た。熔解炉から流出する湯の調節をやるのがセンドメの役である。俺の顔を見た兄貴は、おやじとちがって、

(おお、来たか)

と、なつかしそうな微笑を送ってくれた。

ここらで鋳物をつくる段どりを、ちょっと説明しておこうか。今の言葉で言うと生産工程、これは四つに分れている。

砂の鋳型をつくるカタゴメ――この作業が第一工程で、鋳物の原型をカナワクのなかに入れ、そのまわりに砂を詰めて、その原型を取り去ったのが鋳型である。その鋳型へ、地金を熔かした「湯」を注入するのだが、その前に第二工程として「湯」をつくる熔解作用がある。

その熔解工は通称スミタキと言って、うちの工場には古くからそれ専門の職人がいた。鋳物師とは別にこれは熔解師と呼ばれているほど、このスミタキの仕事は専門の技術を要するのである。

鋳物師のカタゴメもむずかしい仕事で、これはおやじが自分でやっていた。ナマガタと言って、水分をふくんだ砂で鋳型をつくるのだ。砂だらけになって働くので、「砂むぐり」というのはここから来ている。

この鋳型作りは、水のふくませ方、その砂の押し工合(おやじは地下足袋をはいて、足で踏んで押していた)などに微妙なコツがあって、永年の修練が必要なのだ。鋳物のよしあしは、この鋳型の出来工合にかかっているとさえ言われる。

さて、その鋳型に「湯」をそそぐ第三工程ののちに、第四工程として仕上げ作業がある。鋳造された品物の砂落し、研磨、それの組立や塗装もこの工程にはいっているが、これはフキの日にはやらない。

カタゴメ作業、「湯」をつくる熔解作業、鋳型に「湯」をそそぐ注湯作業、これをやる日をフキの日と言う。毎日やっているわけではないから、特にフキの日と言うのだが、

「さ、明日はフキだ」

となると、家中が緊張したものだ。

原型をつくるのは鋳物工場の仕事ではなく、それ専門の木型屋に出すのだが、それができてくると、

「さ、フキだ」

となるのだ。このフキという言葉は、どこから来たのか。ふいごで風を吹く、その「吹き」だと、俺はおやじから聞いたことがある。コシキで地金を熔かすのに、俺の幼い頃は、たしか、木炭のカタズミというのを使っていたように覚えているが、やがてそれがコークスにかわった。それを燃やして、地金を熔かすほどの熱を出させるために、ふいごで風を送るのだ。コークスになっても、堅炭の時分と同じ、タタラという踏みふいごを使っていたものだ。

そう言えば、コシキというのもひどく旧式のもので、熔解炉と言えば、熔鉱炉の小型みたいなのが連想されがちだが、形はストーブを大きくしたような、見たところひどくお粗末な、あれでまあ、よく鉄が熔けるもんだと不思議に思えるくらいの代物だ。三つに分解できるようになっていて、それは、あとで手入れをするのに便利なためだと言うが、頭と胴と腰の三つの部分を積木細工みたいに積み重ねるあのコシキは、今日もなお使っているそうだけど、昔でもひどく旧式な感じだった。

このコシキに風を送る、ふいごで風を吹く、それからフキというのがはじまったと俺は聞いた。すると、熔解作業だけがフキということになるわけだが、熔解した「湯」を鋳型にそそいで鋳物をつくる、その全体の作業をフキと言っていた。今でもそう言っているようだ。

このフキには材料代、燃料代をはじめとして相当の金がかかる。俺のおやじは道楽者の上、宵越しの金は持たねえ式の職人気質だったから、はいるとパッと使っていつもピーピーしていて、フキの場合はその費用を、できた鋳物を納める問屋から前借するのが常だった。前借のまた前借といったふうで、そうなると、納入品の値段も叩かれ放題で、汗みどろの仕事も工賃稼ぎにひとしい金しか手にはいらなかった。

そのくせ、工場の者を連れて派手に飲み歩くことが好きで、朝帰りには、よくウマが家までついてきた。俺は死んだおふくろが、びんの毛を手で掻きあげながら、そっと質屋へ飛んで行く姿を、幾度見たか分らない。

世帯の苦労に女の苦労、あらゆる苦労のしずくめで、おふくろは死んで行った。しかもその死に際に、おふくろは、

「おとっつぁん、ごめんなさい」

と、自分がさもさも至らなかったみたいに、おやじに詫びた。いまいましいったら、ありやしない。

おやじは男泣きに泣いていたが、

「なんでえ」

と俺は思った。俺はおふくろが好きだった。

おふくろが死んだのは、俺が小学生の三年のときだった。それから一年もたたないうちに、三郎のおっかさんに当る後妻が、俺の家へやってきた。俺が夕暮の街で、コウモリと遊ぶような少年になったのは、それからのことである。兄貴の五郎はおやじから、鋳物のコツを習わせるんだと雑工なみに工場で働かされていた。

兄貴とちがって中学へやって貰った俺なのに、それがヘンに曲って行ったのは、おふくろと死に別れたことにも原因がある。だが、俺がテロリストになったのは、いわばそんな感傷からではない。

俺は中学四年のときに、大杉栄の本を読んだ。恐ろしい人のように言われ、恐ろしい本のように言われていた大杉栄の本を、俺は恐ろしいという噂にひかれて読んだのである。読んで、俺は恐ろしいなんて感じなかったと言い切っても、うそになるが、恐ろしい真実を知らされた感動のほうが強かったことも事実である。

中学四年生の俺には、読んでもよく呑みこめない部分が多かったが、呑みこめた部分は俺の若い血をかっと燃え立たせた。つづいて俺が、大杉栄の訳したクロポトキンの『青年に訴う』を読んだときの昂奮は、今もって鮮やかに記憶に残っている。伏せ字だらけのそれには、こんなことが書いてあった。

「嗚呼。諸君の両親と同じ悲惨な生活を、この上にも猶、三十年も四十年も続けて行かなければならぬのか。幸福や知識や芸術の有らゆる快楽を他人に得させるために生涯の間働いて、自分は一片のパンを得る事が出来るかどうかと言う永遠の心配をしていなければならぬのか。少数のなまけ者共に有らゆる贅沢をさせる為めに、自分の生活を美しくする一切のものを永久に見棄てなければならぬのか。そして労苦に使いへらされて、一旦不景気が――あの悲しい不景気――来れば、其の報いとして餓死する。これが果して諸君の一生の憧憬であろうか」

俺は俺のおやじの生活を特に悲惨だとは思わなかったし、たとえ悲惨だとしても自業自得だと思っていたが、俺の周囲は、クロポトキンの言う「悲惨な生活」にみちみちていた。それとくらべて、俺はおやじを悲惨だとは思わなかったわけだが、それだけに俺は多くの悲惨を知っていたとも言えるのだ。でも、俺がもしも、こうした本を読まなかったとしたら、俺の知っている悲惨を、この社会の不合理な仕組みの故とは知らないで、その人々が「なまけ者」だからなのだと思っていたにちがいない。思いつづけていたにちがいない。

「なまけ者」は逆に、働いても働いても食えない貧乏人を、悲惨な生活に陥れていることでヌクヌクと遊んでいられる少数の人たちなのだ。その恐ろしい真実を俺は本を読んだことで知ったのである。学校へなど行くと、ろくなことはないと、おやじが言ったのは、こうなると、いくらか当っていたようだ。

俺はそのころ、近所の貧しいが美しい少女に、淡い恋心めいたものを寄せていた。もちろんこっちだけの片想いである。

肺病やみらしい蒼い顔をした父親は、新聞紙に包んだ弁当箱をかかえて、毎朝、割引電車でどこかの工場へ通っていたが、それが少女の母親に言わせると「甲斐性なし」で、母親も赤羽橋の煙草工場に働きに行っていた。母代りに弟たちの面倒を見ていた少女も、やがて口べらしに、どこかのお屋敷へ女中奉公に出た。小間使いという言葉があって、それになったのだ。きりょう良しのせいか、台所女中でなく、お座敷女中になった少女は、藪入りに家へ帰ってきたときなど、見ちがえるような美しさになっていて、俺をどきどきさせたが、間もなく若旦那さまの手がついて、家に戻された。少女を誘惑した若旦那は咎められないで、むしろ少女のほうが非難された。貧しさのゆえである。

彼女は自分で今度は周旋屋へ行って、奉公先を探して家を出て行った。あんまりかんばしくない勤め先のようだったが、それなり彼女は俺の眼から消えたのである。

『青年に訴う』のなかの次のような部分は、そのまま、日本の現実なのだった。大杉栄の古い訳をまたぞろここへ持ち出すのはどうかと思うが、俺の思い出につながる、俺にとっては大きなショックだったそれを、ここにやはり転載したいと思うのである。

「或る日又、諸君は、諸君があれほど愛して讃めていた、あのすばしこい歩きぶり、あの淡泊な処作、あの嬉しそうな話しぶりの、あの可愛い娘の話を聞くであろう。幾年も幾年も貧窮と闘って、彼女は生れ故郷を去って都へと行った。そこでは生存競争が激しいと云う事も、彼女はよく知っていた。それでも彼女は少なくとも正直な生活を送る事は出来ようと思っていたのだ。然るに其の運命がどうであったか、諸君が今知っている通りだ。或る資本家の息子に言いよられて、彼女は其のうまい言葉にだまされて了った。彼女は其の青春の燃えるような情熱を尽して、その男に身を捧げた。そして其のただ一つの報いとして、彼女は赤ん坊を抱いたまま棄てられて了った。彼女はいつも勇敢に闘って行った。しかし彼女は寒さと饑えとに対する不平等な闘いに負けた。そして彼女は或る病院の中で其の一生を終えて了った」

訳が古いと言うよりは、内容自体が、こういう説き方自身が古いと言ったほうがよさそうだ。そしてこんなことはもう常識になっていると言うよりは、資本家を単に人間的な悪玉にする見方は間違っているとも言える。しかし当時の俺には、これで初めて、社会を見る眼を開かせられたおもいだった。

俺はどうしたらいいか。クロポトキンはその解答を俺にさし示していた。

「諸君の取るべき道は二つある。諸君は良心を曲げても自分の安居逸楽が出来る間は、そして人々がそれをさせて置く間は、人道などは俺の知った事じゃないと云って了うか、然らざれば社会主義者の中に投じて全社会の改革に従事するかの、二つのとるべき道がある。これは必ず到着すべき論理的結論である」

社会主義者の中に俺は身を投じたいと思った。それにはどうしたらいいか。このとき俺は砂馬慷一に会ったのである。――

兄貴の五郎は、おやじの眼を盗むようにして、俺のそばに来た。俺を路地へ引っ張って行って、

「何か用か」

「いいや、ちょっと遊びに来たんだ」

「奥で待ってなよ」

うーんと俺は生返事をした。おやじの後妻に会うのは、うっとうしい気持だった。

「四郎はまだカタギにならないのか」

「カタギ?」

「嫁でも貰って、早く身を固めちゃ、どうだ」

そう言う兄貴だって「部屋住み」のため女房を持ってない。だから俺は、俺も結婚したいと思った女がいたんだがと、口に出して言うのは憚られて、心のなかでそう言ったとき、

「せんだって女が四郎を訪ねてきたぜ」

モダン・ガールだったと兄貴は言って、

「お前の居所を知らせてくれって……」

照子だなと俺は思った。照子は俺に会いたくて、ここまで来たのか。千駄木の方は、ただ下宿屋だと言っただけだったから、見当がつかないので、四の橋の鋳物工場を探して、わざわざここへ来たのか。

「それで……?」

「知らせていいもんかどうか、分んないから、ごまかしといた。知らせていいんなら、今度訪ねて来たとき、教えておく」

と兄貴は親切に言ってくれたが、俺は、もう駄目だ、もう来ないだろうと思った。照子は俺に会いたがっていたのかと、その心を知った今、照子とはもう会えないだろうと、なぜかはっきりとそれを俺は感じた。――

慷堂から砂馬を通して、

「瀬良という男のことが分った」

という言葉が俺に伝えられたのは、俺のリン病も、治療作業の仕上げ工程にはいって、ブウジイによる治療をやっているときだった。仕上げと言えば、もう簡単のようだが、このブウジイ療法というのが、ほんとは治療工程のなかで、もっともいやなもので、最後にもっともいやなものが待っていたのだ。悪質の拷問みたいなものだ。

それまでの、てめえのヨシコのさきを、てめえの指でつまんで、あらぬ方を睨んでいるなんてのは、心理的にただいやなだけで、このブウジイの肉体的苦痛に比べれば、物の数ではない。その苦痛というのも、痛いんなら痛いとはっきりしてるんなら、まだしも、鈍い苦痛がなんとも言えぬいやな感じで、じわじわと迫ってきて、それを一定の時間、じっとこらえていなくてはならぬのだから、悪質と言いたいのである。

ブウジイは日本語で「消息子」と訳されている。医学用語のこの「消息子」とは何か。辞書を見ると「尿道、膀胱の拡張、探査につかう棒」とある。その棒が細いのから太いのにかけて、何種類かある。まずその細いのからはじまって、串焼き肉のあの棒みたいなブウジイが尿道に入される。尿道の拡張が目的で、拡張させた上で殺菌液を注入するのがブウジイ療法――なんとも、はや旧式な、鋳物屋を笑えぬ旧式さだが、そんな妙な棒を、ひとのヨシコのなかに串焼きみたいに突っこんでおいて、何分か放っておくのだから、放っておかれる身はたまらない。旧式の旧式たる所以である。ブウジイのさきで膀胱を刺戟されるせいか、たった今、小便をしたばかりなのに、なんだかひどく小便がしたい気持にさせられるんだが、棒を突っこまれた尿道では、小便も出せない。汚水の金魚みたいに大口をあいて、ハーハーと口で息をしていると、じりじりと脂汗が額ににじんでくる。

それが一遍や二遍ならまだいいけれど、細いのから、だんだん太い棒に移って行く。毎日、その拷問が執拗に続けられるのである。尿道の側管に忍びこんだリン菌を、そうして絶滅させるんだそうだが、まるで女遊びに対してバチが当って、いや、バチを当ててやると、俺はわざと苦しめられているみたいだった。

そのブウジイ療法の中途で、俺は慷堂からの伝言を聞いたのだが、その慷堂の家へ行ったちょうど前の日のことである。俺は前に、ボル派の組合のオルグを道に待ち伏せして、ひとりひとり殴ったと書いたが、そのひとりの大学生崩れと診療所の廊下でばったり顔をあわせたのである。

「よお」

と俺は与太者みたいに声をかけた。

「やあ」

と奴も言って、苦笑を浮べた。

(なんだ、このヒョウロクダマ! もう一度、殴ってやろうか)

と俺は奴を睨みつけてやった。

ところで俺が、ヨシコに棒を突っこまれて、ベッドにへたばっていると、なんと驚いたことに、奴がそこへはいって来て、俺の係りの若い医者に、

「よお」

と言った。

「やあ」

と医者は言った。二人は友だちだったのである。

Chapter 5 of 28
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