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今月は久し振で月評をする気になつた。成るたけ落ちついた静かな心持でやつて見たいと思ふ。
一番先きに読んだのは、「中央公論」に出てゐる藤村千代の『ある女の生活』であつた。私はこの人のものは余り沢山読んでゐなかつた。唯ひとつ淡墨色の何とかいふものを読んだだけだつた。その時も才能がある人だとも思はなかつたけれども、女としては思ひ切つたことを書く一人だと思つた。何だか腐つた溝のにほひでもかぐやうな気がした。しかしそれはわるい意味ではない。『ある女の生活』も矢張さうしたものの一つといつてよかつた。何処かあらはし方に奇抜な、表現的なところはあるが、それはよいと思ふが、余りに溝をかき廻しすぎはしないか。それもかき廻す価値があるならよいが、何もありもしない溝をかき廻してはゐないか。それに、表面は突込んであるやうに見えてゐるけれども、存外本当のことは少いやうに私には思へた。事実としても本当の事実でなくて、作者がわざとかういふ風にしたといふやうな気がした。それは何故だらう? 作者がこの惨めな事実の上に立つことが出来ないためではないか。芸術としては、無論即いてゐることは必要だが、しかもあまりに惨めさを惨めさとして見ただけで、もつと見詰たり考へたりしなければならないことを少しも見詰たり考へたりしてゐなくはないか。もう一度ひつくりかへして言つて見れば、神経的ではあるが、本質的ではないといふことになりはしないか。
但かういふ気はした。矢張女だ。男に対していつもくやし涙ばかりを流してゐて、そしていつか征服されてしまつてゐる。そこに、尖つた所があるといへば、いへるが、男の作者の書いたやうに、寛大さがない、甘さがない、大きな涙がない。従つて読んでしまつて、何処かコセコセしてゐる。虚栄に富んだ女に食ひつかれたやうな浅薄さを感じた。しかし、女として、女の作者として、正直さと大胆さとを持つてゐるものの少くない今の文壇には、この人のやうなのは特異としなければならないのは勿論である。
次に宮地嘉六の『花子のおとづれ』といふのを読んだ。『ある女の生活』に比べると、かうも違ふかと思はれるほどそれほどのんきな、寛大な、ユウモラスな感じを私はそこから受け取つた。矢張、男の女に対する眼だなと思つた。そこには甘さがあり買かぶりがあり不徹底があり鈍い観察があつた。しかもそこには虚栄とか、くやし涙とか、異性を呪ふ心とか、さういふものは遂になかつた。素直だつた。純といふほどではないが、色気がなかつた。作の出来栄えからいつたら、あるひはこの作者のものとして決してよい方であるとはいへなかつたであらうけれども、その素直さが、そののんきさが、その馬鹿々々しさが、一種低級ではあるが、ちよつと変な、サツカリンのやうな味を持たせた。
長田秀雄の『袈裟の魂』はすらすらとしてゐた。しかし昔からあつた袈裟の芝居にさう大して多くを加へてゐるとは思へなかつた。作者の考へでは、あの袈裟の魂といつたやうな台詞に新らしさを賦与したつもりでゐるのであらうが、私の読んで受けた感じは、却つてそのために芝居が小さく、理屈つぽく、第二義的になりはしなかつたかといふやうに感じられた。法然の出し方などもあまり好いとは思へず、またその性格なども余りよくは出てゐなかつた。この戯曲は概して前半の方が好かつた。あとに行けば行くほどわるくなつた。しかし、舞台に上せて見た上でなければ、本当のことはいへないかも知れなかつた。
「改造」に出てゐる倉田百三の『蕩児の落ちる地獄』といふのは大変なものだ。よくこんなものが出せたものだと私は思つた。無論、それは道徳的にさういふのではない。ひどいのはいくらひどくたつて構はない。芸術でさへあれば構はない。春画だつて芸術であれば構はない。しかし、これは芸術どころか、低級な、通俗な、拙い田舎絵師の書いた地獄極楽の絵でも見せられたやうな気がした。あさましい気がした。
私が宗教は好いが今の坊主が嫌ひだといふのは、実はかういふ感じをいふのであつて、人間を田舎者か何かのやうに見て、一段上に立つて、くだらぬことを説法してゐるから嫌ひなのである。ところが、この作にはやつぱりさういふイヤなにほひがある。無智な通俗を相手に田舎坊主が地獄極楽を説いてゐるやうな形がある。芸術といふものは、決してこんなものではないと私は思ふ。
それに、書いてあることが皆空想だ。空想の誇張だ。あさましい感じを与へるために、わざとあさましくないことをあさましくしてゐる。また平凡なことを奇怪なものにしてゐる。それも好い。背景に立派な事実を持つてゐるのなら好い。しかし私はその何処にも本当の事実といふものを見出さなかつた。何かありさうなものだと思つて、丁寧に探して見たが、そこには人から聞いた馬鹿話しか、普通に戯談にいふ笑ひ話以上に何物もない。男女のことだつて、さう大して深く知つてゐるとは思へない。普通田舎坊主の説法する程度にしか知つてゐるとは思へない。芸術といふものは、かういふものではあるまい。もつと真面目な、もつと高級な、もつと本当なものでなくてはならないと私は思つてゐる。
武者小路実篤の『ある男の話』これも変なものだ。私は一体懺悔と芸術とを一緒にしてゐないが、また少しでも自己弁解乃至自己弁護の芸術の中に雑るのを嫌つてゐるが――そのために折角な芸術が芸術として味ははれなくなるのを常に恐れてゐるものであるが、これに限らず、この作者のものは、すべてさういふ点において非常に欠点があると私は常に思つてゐる。『ある男』などといふものも、私は決して芸術とは思つてゐない。
従つてこの作者のものは、いつも材料だけしかない。歴史でいへば史料だ。だから本当のものにするのには、何うしてももう一度これをあるルツボに入れなければならない。とはいへ、これは単にその形式についていつてゐるのではない。あゝいふ形式でも、もう一度ひつくり返せば、芸術にならぬとはいはない。第一、『ある男の話』にしても、あれはもつと具象的に書くべきものではないか。あれだけでは、ほんの輪廓で、ちつともその真相が出てゐないではないか。裁判所でつくる口供ぐらゐにしか出てゐないではないか。もつと詳しく鮮かに書いてこそ、そこに芸術らしい感じが出て来るので、ああいふ風につかんで書いては、楽には楽かも知れないが、折角の事実から何処かに芸術が逃げて行つてしまひはしないか。あれを、『ある男の話』程度のものを、もう一度何うかして、渾然としたものに、またはこの宇宙の空間に単にそれだけで独立して浮んでゐるやうなものにしたいと思へばこそ、我々芸術を旨とするものは、刻苦勉励してゐるのではないか。毛彫のやうに他から見ては馬鹿々々しく思はれるやうな、こまかい骨の折れる境にも努力精進して行つてゐるのではないか。しかし、俺はさうでないといふのなら、これは何うも致し方はないが――。
谷崎潤一郎の『無明と愛染』といふ戯曲は、その布置といひ、背景といひ、またその心理的考察といひ、すべてよく纏つてゐて、すぐれた作だといふことをあぶなつけなしにいふことが出来た。それにその作者の持味である悪魔主義的の感じも非常によく滲み出してゐるし、最後まで女を、愛染を残した形も、自然に近い女性といふものについての作者の深い体験を語つてゐるといつてよかつた。またあの上人が死んで行くあたりから無明太郎の動かされ行く形も自然でよかつた。難をいへば、初めに作者に思想があつて、それを人物にあてはめたところに、いくらか見透かされるやうなところがありはしないか。そのため、人物から来る自然な感じの代りに思想から来る悪るくきまりきつた感じを受取りはしないか。つまり、無明と愛染と上人とがあまりはつきりときめられてあらはされて居はしまいか。また、楓といふ女に普通の女を代表させてゐるのはいいとしても、あまりにその作者の意図がくつきりとわかりすぎはしないか。思想の方からでなしに、人物の方から入つて来たとすれば、さうした欠点もなくなつて、もつとぼんやりしてゐてそれで活躍し、またもつと複雑してゐてそれで単純な見透かされない深い味を持つて来はしないか。しかし、さうしたことはおくとして兎に角面白い好い作であると私は思つた。
小川未明の『雪解けの流れ』は、この作者のものとしても、余り好い方とは思へなかつた。以前の空想的なところが今の新しいといはれるところに不調和に雑り合つてゐるのも、さびしいやうな感じを私に誘つた。
「女性」に出てゐる豊島与志雄の『リンゴ』といふものをその次ぎに読んだ。この作者は昔からいいところがあつたが、この作なども決してつまらないものではなかつた。初めの中は、何だか、日本にはないやうな、否、日本人にはかういふことはないやうな気がして、この作者の特色といへば特色の、わるく顔の表情などを気にしてゐるやうな描き方と共に、外国の模倣に過ぎるやうな不満な心持がしたが、読んでゐる中に、段々さういふものもなくなつて、素直に最後までその不思議な主人公について行くことが出来た。そして読んで了つてから、狂人を書いても、かう描けばわるく興ざめ気味にならなくつてよいなと思つた。リンゴを出して食ふあたりなども、普通なら、わざとらしくて読めなくなるところだが、この作では、それがいかにも自然に行つてゐた。描きかたなどの上からいつても、何処かに新しいところがあると思つた。
その同じ雑誌に出てゐる『呑気な親子』といふ対話も読んで見た。矢張、武者小路実篤の作である。私はこれを読んで、この新年の「中央公論」で読んだ『だるま』といふ作を思ひ出した。矢張同じだな! と思つた。通俗すぎるな! と思つた。成ほどかういふものは受けるだらう。面白半分に書いてるやうなものだから……。大きな声でも立てて笑ひでもしなければならないやうなものだから……。深く自己に悩んだり秘密に悩んだり懐疑思想に悩まされたり生に退屈したりする方の作者ではないから……。有島武郎の死に対しても俺なら死なない! と簡単に極めて簡単にいひきつてしまふことの出来る作者だから……。こんな風に私は思つた。つまりこの作者の持つた軽さは、(浅薄とか軽薄とかいふ軽さではない)さういふところから来てゐることを私たちは考へて見なければならない。
「文章クラブ」に出てゐる三つの小説を読んだ。どれも感心しなかつた。中では横光利一の『穴』が単に筆致からいへば達者なのかも知れないが、若いのにこんなものを書いてゐるのはいいこととは思へなかつた。それに新年の「新潮」に出た矢張この作者の『芋とゆびわ』といふ作がうまいといふので、私も読んで見たが、それとて大したものではなかつた。第一、作の基礎になつてゐる芋とゆびわとの対照――細君にゆびわを買つてやつたために、高が土方の労働にやる賃金がやれないで留守居を使ふといふことが馬鹿々々しかつた。そんなことがこの今の世の中にあるはずがなかつた。あるひは資本と労働とを対照させるために、わざとああしたのかも知れぬが、さうならそれでもつと適切な事実がありさうなものである。それに、細君にしても、主人公にしても、土方の男にしても、皆型にはまつてゐる。まだ作者が本当にさうした人達を知つてゐないといふことを表白してゐる。中河与一の『かつら』はきいたお話しを書いただけで少しも描写されてゐない、しかしいくらか才気があるにはある。吉田金重の『再度の上京』と投書家らしい若さを取れば取るのだが――。
次に加能作次郎の『窮鳥』を読んだ。また早稲田文学に出てゐる同じ作者の『弟の家出後』を読んだ。この作者には、他にはいい作もあらうが、この二篇だけについていへばいやに緩んだ、だらけたところがあつて、これを書いた時の作者の芸術的感興が決して振張されてゐなかつたといふことを証することが出来た。それに早稲田に属する作者の欠点――平凡な自己描写と零細な感傷状態とから未だに脱却することが出来ないのはどうしたものか。この作者はかういふ作からとうの昔に脱却したはずではなかつたか。もつと変つた、新意を出したものに向つて進んで行つてゐたはずではなかつたか。これでは『世の中へ』あたりから更にぐつと逆転したといふ形になつて来てはいないか。それに、全体からいつても、すつきりしたところがなくなつて、いやに低級な、感傷的な分子が多くなりはしないか。しかしこの二つの作の中では『窮鳥』より『弟の家出後』の方がまだよかつた。いくらか心理的の細かいところがあつた。父親の心持なども少しは書けてゐた。新年の雑誌に出た『水彩画家』などは決していい作ではなかつた。