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三月の創作
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三月の創作
田山花袋
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 4

2

同じ雑誌に出てゐる永見徳太郎の『和寇』といふ戯曲も甚だつまらないものなので失望した。私はその中から何物をも見出すことが出来なかつた。心理的にも、印象的にも、また表現的にも……。いかに題材が小めづらしいからといつて、それだけではどうにもならないものであるといふことを私はこの作で見た。この作者はもう少し台詞といふものについて考へて見なければならなかつた。また人物を描き出すといふことについてもう少し腕をみがかなければならなかつた。それに全体が低級で、まづい活動写真でも見るやうな気がした。

「女性改造」に出てゐる木村毅の『心』は矢張、甘いものだが――その筆致からいつても、観察からいつても、平凡で、光つたところがなく、時にはどうしてかう叙述的な書き方ばかりしてゐるのかと思はれたが、主人公が女と宿屋に泊るところに行つて、一種真面目な不思議な印象を受けた。『これほどしつかりと身体をかためてゐるように見える大きな帯が、帯揚を取ると、輪を解いた桶のやうにたわいもなく崩れて』といふあたりの描写はすばらしくよかつた。それに、女と床を並べて寝て、しかもどうにもしなかつたといふことが、却つてこの作の後半にツルゲネフ式のペソスを誘つた。

「女性」に出てゐる懸賞小説『巡査と二匹のすて猫』では、全く思ひも設けない拾ひ物でもしたやうな心持がした。高梨専之介といふのはどういふ人だらうか。今まで文壇に何も発表したことのない人だらうか。全くのしろうとだらうか。たれかの変名ではないだらうか。私の考へでは「文章クラブ」の三新進作家などはとても足元にもよりつかないばかりではなく、昨日あたり読んだ作家の二三の作品に比べても、この方がぐつとすぐれてゐると思はれるくらゐであつた。それはあるひは文壇の中心思想に接触してゐないとか、書いてあることが零細で内容らしい内容を持つてゐないとか、さういふ非難はあるかも知れないけれども、その物を見る眼の精確さは? 細かさは? またその見た物を表現する頭と手との聡明さは? また毛ぼりのやうに細かに心と物とをくつつけて行くその手腕は?

『これは矢張、感激と燃焼との度が強かつたから出来たのだ。観察だけでかういふものを書かうと思つたつて、とても出来ることではない。深い感激とさえた頭!』かう私は自分で自分にいつた。

これから比べたら、文壇の諸君の作には、どんなにその新鮮さが失はれてゐるだらう? またどんなにその書かうとする感興が衰退し去つてゐるだらう? 否、文壇的虚栄のために、または物質的惑溺のために、どんなにその本当の芸術的良心がなくなつてしまつてゐるだらう? それはこの作はあるひは大したものではないかも知れない。かうした零細な作品を以て堂々とした文壇の諸君の大きな作に比べるのは間違つたことであるかも知れない。しかもこの作の純な表現と真面目な感激と細かな努力とは、衰へた、うんだ、労れた諸君の清凉剤となることを私は信じて疑はないもののひとりである。現に、さういふこの身も、かうしたユニイクな筆致をうらやみかつねたまずにはゐられなかつた。懸賞小説といふことも、まんざらすてたものではないといふ気がした。

佐藤春夫のものは、私は以前から好きだつたが、今月は大したものは出ていないやうだつた。この作者のものとしては、「婦人公論」に出てゐる『囚人』は、決してすぐれたものとはいへなかつた。女の雑誌だからといつて下げてはゐないけれども、どうもあのモクセイがぴたりとはまつて来なかつた。ねらひどころもわかつてゐるし、場合によつては、これでもぴたりと来ないことはあるまいと思はれたが、感興が伴はなかつたのか、それともまたその想像が十分にピントに合つてゐなかつたのか、読んでしまつてからも、別にこれといふすぐれた感じも受けずに終つた。

「女性改造」に出てゐる柳原白蓮の『鳳凰天に撲つ』は未完だから、本当のことは言へまいけれども、どういふ作柄かと思つて読んで見た。いつてゐることなどにはちよつと面白いところがあり、京都の尼寺の中での生活を思はせるやうなシインもないではなかつたけれども、小説としてはちよつと困ると私は思つた。かういふ風に書かずに、もつと本当に書いて見たらどうだらうか。何も世の中のことなどを念頭におく必要はない。また世間のうわさなどを気にしてゐる必要もない。虚栄とか罪とかいふ風に考へずに、またそれと反対に反抗的な心持を持たずに真面目に本当に書いて見ることは必要ではないか。自己のためばかりではなく世間のためにも必要ではないか。

鈴木善太郎の『娘の家』は「婦人公論」に出てゐる一幕物だが、これも女の雑誌の読み物としてより以上に一歩も出てゐるとは思へない作だつた。作者のねらひどころもいやに際立つて透いて見えてゐた。通俗でもあつた。

「我観」では、一番先きに正宗白鳥の『金』を読んだ。私は随分長くこの作者のものに親しんで来た。この作者の書いたものは、殆ど大抵読んでゐるといつて好かつた。小ぢんまりした構図。いやにヂロヂロと物を見るやうな観察。何物にも興味をひかないやうでそれでゐて実は種々なことが気にかかるといふやうな気質。余りに早く物わかりがして深く打込んで入つて行くことの出来ないところからひとり手に起つて来る傍観的気分。それに付随して起つて来る皮肉。その癖、決して内部が燃えてゐないのではなく、消極的に絶えず煙をはいてゐるやうな心持。さういふ印象を私は随分長く受けて来たのであつた。それに、いつまでたつても同じ調子で、わるくいへば型が出来たともいへるし、またその反対に、しつかりと握つたものを離さないだけの手堅さを持つてゐるともいへた。それに、この作者の作品には、本当のものと本当らしく見せ懸けたものとの二通りあつたが――始めは本当に見せかけたものの方をも本当と思つて見てゐたが、この頃では次第にその区別がわかつて来て、これは空想だな! ピントがぴたりと合つてゐないなといふことがはつきりとうなづかれるやうになつた。それに、この頃では、大分疲れてうんで来てゐるらしく私には思はれた。従つて今年の新年の諸作などにも、これはあまりに投げ出し過ぎたな! と思はれるやうなものも二三ないではなかつた。『千代松の芸術』などといふのもその一つといつてよかつた。先月出た『影法師』などでも、もう少し新意を出して欲しいと思つた。『金』は私にいはせれば、二通りある中の本当のものの方で、かなりに気持よく読み得ることが出来たものであつた。それに、書いてあることに無駄がなく、小ぢんまりとしてゐて、その中に「時」のことも、「金」のことも、「人生」のことも巧に織込まれてあるのを私は見た。さすがに老巧だと思つた。

谷崎精二の『義母』は、その筆致においても、その観察においても、またその気分においても、決して新しいとはいへなかつたけれども、後半に近くなつて行くにつれて、次第に本当らしいところが出て来た。私は私が『生』を書いた時分のことを思ひ起した。中でも、死に面してイライラしている義母を誰もそれとは同情せずに、その生みの娘さへ同情せずに、ただ、みにくい形やみにくい言葉としてのみ取扱つて持てあましてゐるさまを本当だと思つた。ただ、作者が作中の人物と共に全くその中に没頭してゐるのが惜しかつた。作者はどうしてももう一歩出なければうそだつた。その証拠には、後半はいくらかでもそこから浮び出して来てゐるために、そのために読者が心を動かされてゐるではないか。作者は考へて見なければならない。

加藤一夫の『皮肉な報酬』は一わたりはきこえてゐるが、またこの作者がかういふものを書くといふことも自然だが、しかしこれが第四階級の要求する作品だ! とするには余りに小さかつた。またあまりに平凡だつた。もつと烈しい深い熱情があつてしかるべきだと思つた。それに、表現の方法からいつても、新しいと思はれるやうなところは少しもなかつた。筆致も乾いた叙述的のところが多く、主人公の経て行つたシインも、作者の見たり聞いたりした光景をそのまま不調和にそれにくつつけたやうなところが多かつた。これを、前回にいつた『巡査と二匹の捨猫』のやうな筆致で心と境とのぴたりと有機的に融合してゐる筆致で、また深く熱情的に考へたやうな心持で、縦横にゑがいたなら、それこそ立派なプロレタリアートの小説が打ち立てられるであらうけれども――。

「新潮」に出てゐる藤森成吉の『お園の手紙』は、最後に書いてある一句で、偽善者といはれても構はない、兎に角自分は人を救つた。偽善であらうが、何であらうが、人を救つたのは、救はないのよりも好い。かういふ点に作者が視点をおいてゐるらしいのがわかつたが、さてそれはどういふものか。人を助けたのは助けないよりは好いに違ひないが、すぐそれをひつくりかへして、助けたがために助けた以上のわるい結果を来すことが往々にしてあるといふことをこの作者は考へて見なければならない。現に、私などもさういふことを度々経験した。人を救けると、恩に着せないつもりでゐても、いつか着せてゐる。つまり好い事をしたといふことが、さう思ふことが既に先方に恩に着せてゐる形になつてゐるのである。それに、だれだつて人を救つて好い事をしたと思はないものはない。既にこの作者自身もさう思つてゐる。『相変らずの偽善者より』といふ言葉の中にはつきりとそれがあらはれてゐる。つまり救けてやつた人に恩を着せてゐる。そこからいろいろなことが起つて来はしないかと案じられる。しかし私はそれがわるいといふのではない。ここではただ人を救ふといふことは、さう簡単に考へられないといふことをいひたいのである。この作者が他日さういふことを考へる時が来るであらうといふことをいひ度いのである。好いと信じてやつたことが少しも好くなかつたといふことを考へる時が来るであらうといふことをいひたいのである。作の上からいへば、ちよつと気のきいた短篇といつてよかつた。

稲垣足穂の『鼻眼鏡』は大したものとは思へなかつた。それはその作者の気質だから為方がないであらうけれども、わるく取すましたやうな、小生意気なところが私の気にかかつた。勿論、文章としては拙い方ではなく、上品なところもあれば、色彩に富んでゐるやうなところもあつて、若い人達の中ではすぐれてゐる方であつたけれども、余りに才をたのみ過ぎはしないか。物を本当に見ずに、面白くばかり見過ぎはしないか。気障になりはしないか。気取りになりはしないか。

久米正雄の『撮影』は、読んでしまつてから気がつくと、未完だつたので、折角久し振りで本当のものを読ませてもらへると思つたのがはづれてがつかりした。為方がないから新年に読んだ『黒いハヘ』でも批評して見やうと思ひ立つた。あれは大分いろいろなところでいろいろな人が批評したやうだから、今更こんなことをいふのにも及ばないかも知れないが、あのハヘがイヤだつた。あのハヘを、あの黒いハヘを出した為に作が非常に通俗になつたといふことを私はここで言つておきたいと思つた。あれはハヘは出す必要はなかつたのではないか。あれはあのハヘの出て来る前のところあたりでおしまひにした方が、かへつて好かつたのではないか。さうすればすつきりした短篇になつたのではないか。何もないのに何か意味ありげに思はせたり、また何か深い象徴でもありさうに思はせたりするといふことは、決して作の価値を高めるゆえんではないと私は思つた。しかし、真に作者がああいふ風にハヘを思つたとすれば、それは余り低級な考へ方といはなければならない。

中河与一の『木枯の日』は、前の『かつら』などと比べると、ぐつと好かつた。これなら多少なりと作者の本当のところを見せたといふことが出来た。何より先に、型にはまつて居ないのがよく、割合に鋭い自由なところがあつて、無中に有を生じて行くといつたやうなしつかりした腕をも持つてゐた。それはどうせ、『鼻眼鏡』と同じやうに、書いてあることは大したことではなかつたけれども、それでも若々しい匂ひと感じとを何処からか受とることが出来た。中年作家のつかれてぐたぐたになつた作などよりはこちらの方がどんなに好いか。

Chapter 2 of 4
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