四
二日たった。パーヴェル・イヴァーヌィチはもう坐っていない。横になっている。眼は閉じて鼻は前よりも尖って来たようだ。
「パーヴェル・イヴァーヌィチ」とグーセフが呼び掛ける。「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
パーヴェル・イヴァーヌィチは眼をあけて、脣を動かす。
「加減が悪いんですかね。」
「いいや、なんでもない……」と、パーヴェル・イヴァーヌィチは喘ぎながら答える。「なんでもない――どころか――良いくらいだ。……なあ、こうして横にもなれるだろう。……少し楽になったよ……。」
「そりゃ好かった。パーヴェル・イヴァーヌィチ。」
「自分のことに引き較べて、つくづく君らが可哀そうになるよ。……なあ、可哀そうに。おれの肺はしっかりしてるんだ。この咳は胃から来るんでね。……おれは地獄だって堪え通せる。まして紅海なんかなんでもない。そのうえおれは、自分の病気にも奴らのくれる薬にも、批判的な態度を取ってるんだ。だが君らは……君ら暗愚な人間は……。辛いだろうよ。さぞ、辛いことだろうよ。」
船は揺れない。穏かだ。がその代り蒸風呂にはいったように熱くて息苦しい。話しをするのはおろか、人の話しを聴くのさえ辛い。グーセフは両膝を抱えて、その上に頭をのせながら故郷のことを考える。ああ、こんな蒸暑い中で雪や寒さを思うのは、なんという慰めだろう。橇に乗って行く。遽かに馬が物に驚いて、一散に駈け出す。……道も溝も谷も見境なしに、まるで狂ったように村を駈け抜け、池を越え、工場を過ぎ、野原へ出る。……「抑えろ!」工場の人や通行人が声をかぎりに叫ぶ、「抑えろよう!」だがなんで抑えることが要るものか。身を切るような寒風に、顔を打たせ手を咬ませろ。蹄が蹴上げる雪の塊りを、胸といわず帽子といわず、襟から頸の根っこまで浴びるがいい。橇の滑り木がぎいぎい鳴って挽革や心棒がちぎれて飛ぼうと構うものか。橇が引繰り返って投げ出された機みに、雪堆の中へ真逆様に顔を突込むときは、また一段と壮快だ。それから起き上ると身体じゅう真白で髭には氷柱が下っている。帽子もなく、手袋もなく、帯もほどけてしまった。……人が見て笑う。犬が吠える……。
パーヴェル・イヴァーヌィチは片眼を薄く開けて、グーセフを見る。そしてそっと訊く。
「グーセフ、お前の司令官は泥棒をしたかね。」
「そんなこと誰が知るもんですか、パーヴェル・イヴァーヌィチ。知りませんよ。あっしらの耳にゃとどかねえもの。」
それから長い時が沈黙のうちに過ぎる。グーセフは夢を見、譫言をいい、絶え間なしに水を飲む。口を利くのも厭だ。人の話しを聴くのも厭だ。誰か話しかけはしまいかとびくびくしている。一時間過ぎる、二時間過ぎる。そして三時間。日が暮れる。やがて夜が更ける。が彼はそれも知らずに、相変らず坐ったなりで寒いことを思いつづける。
誰か病室にはいって来た気配がする。人声がする。が五分もすると、また寂とする。
「天国へ往かしめ給え。永遠に安らわんことを」と吊繃帯の兵士がいう。「やれやれ騒々しい男だった。」
「どうしたんだ?」とグーセフが訊く。「誰のことだ?」
「死んじまった。いま上へ担いで行ったよ。」
「仕方がねえ」欠伸をしながらグーセフが呟く。「天国へ往かしめ給え。」
「なあグーセフ、お前どう思う」暫くすると吊繃帯がきく。「彼奴、天国へ往けるかなあ。」
「誰のことだね?」
「パーヴェル・イヴァーヌィチよ。」
「往けるだろうさ。……長い苦しみだったからな。それに何しろ坊主だからな。坊さんというものは身内が多い。それがみんなで祈ってくれる。」
吊繃帯の兵士は隣の釣床に坐り込んで、小声でグーセフに言う。――
「グーセフ、お前も長いことはねえぜ。とてもロシヤまでは持つまいぜ。」
「医者か助手でもそう言ったかね?」とグーセフがきく。
「うんにゃ、誰も言ったんじゃねえ。だがわかるんだ。……間もなく死ぬ人間は、すぐとわかるものさ。お前は飲みも食いもしねえ。痩せちまって、見るも怖ろしいくらいだ。つまり肺病だあね。何もお前の気を落させようと、こんなことを言うんじゃねえよ。聖餐礼や塗油式がして貰いたかろうと思ってよ、金を持ってるんなら、高級船員へでも渡しておいたほうがいいぜ。」
「郷里へ手紙が出してねえ……」グーセフは、溜息をつく、「死んでもわかるまい。」
「そりゃわかるとも」と、病気の水兵が低音を出す、「死ねば当直日誌へ書き込むんだ。オデッサへ着くと司令官に報告を出す。そこから郷かどこかへ報らせが廻る……。」
そんな話からグーセフは、気持がそわそわして来る。何か漠然とした願望に苛まれだす。水を飲んでみる――これでもない。……円窓へいざり寄って、もやもやした熱い空気を吸い込む――これでもない。故郷や寒さのことを考えてみる――これでもない。……しまいには、もう一分もこの病室にいたらきっと息が詰まる、とそんな気がする。
「息苦しいんだ、兄弟……」と彼は言う。「上へ出て見たい。お願いだ、連れてってくれ。」
「よし来た」と吊繃帯の兵士が応じる。「とてもお前にゃ行けねえ。担いでってやるから、おれの頸っ玉につかまりな。」
グーセフは兵士の頸につかまる。兵士は丈夫なほうの腕で彼を抱えて、上へ連れてゆく。甲板には無期帰休の兵士や水兵が、ごろごろ寝ている。とても沢山いるので、なかなか通れない。
「立ってみな」と吊繃帯の兵士が小声で言う。
「そろそろとおれの後からついといで、シャツに掴まってな。」
暗い。甲板にも檣の上にも海上にも、燈火一つない。舳の突端に当直番が、石像のようにじっと立っている。その姿はやはり眠っているようだ。船が自由意志に任されて、勝手に進むのかと思われる。
「パーヴェル・イヴァーヌィチは海へ抛り込まれるんだ……」と吊繃帯の兵士がいう。「袋へ入れてどぶんとな。」
「うん、そういう規則だ。」
「だが郷里の土の中のほうがいいなあ。とにかくお袋がお詣りに来て、泣いてくれる。」
「知れたことよ。」
家畜の糞と乾草の匂いがする。舷側には、牛が首を垂れて立っている。一つ、二つ、三つ……八頭いる。小馬も一匹いる。グーセフは撫でてやろうと手を伸ばす。だが小馬は首を振り、歯を剥いて袖に噛みつこうとする。
「こん畜生……」グーセフは怒る。
二人は静かに舳の方へ歩いてゆく。やがて舷に佇んで、黙って上を見、下を見る、上には深い夜空がある。きらめく星と安らぎと静寂がある。それは故郷の村とすっかり同じだ。下には闇と混乱がある。高い波がなぜこう騒ぐのだかわからない。どの波を見ても、われがちに一番高くなろうとする。前に行く波に追いかぶさろうとする。また第三の波がやはり同じ兇猛な醜い姿をして、白い鬣を光らせてざわめき寄せる。
海には情けも分別もない。もしこの船がもっと小さく鉄板も薄かったら、波は情け容赦もなく船を叩き潰して、乗っている人間は聖者でも罪人でも残らず一呑みにするだろう。船だってやはり、無分別な残忍な顔つきをしている。この嘴の巨きな怪物は、行手に立つ数知れぬ波を切り裂いて、まっしぐらに突き進む。闇も風も無限の空間も孤独も、船は何にも怖がらない、一切を物の数ともしない。もし大洋にもその住民がいるとしたら、この怪物もやはり、聖者罪人の見境なしに彼らを圧し潰してしまうだろう。
「ここはどの辺かね?」とグーセフがきく。
「知らねえ。きっと大洋だろうよ。」
「陸地が見えない……」
「そりゃそうよ。何しろ七日しなきゃ見えないって話だ。」
二人の兵士は燐光を発する白い泡を見つめて、黙って考え込む。最初にグーセフの方が沈黙を破る。
「だが何にも怖しいことはないんだ」と彼は言う。「暗い森のなかに坐っているような、不安な気持がするだけよ。もし仮に今すぐボートを海へ卸して、百露里先へ行って魚を捕って来いと上官が命令すりゃ、俺はやっぱり行くね。それとも今、正教徒が水に落ちたら、すぐその後から飛び込むね。ドイツ人やシナ人なら助けてやらねえ。だが正教徒なら飛び込むね。」
「死ぬのが厭かい?」
「厭だとも。家の奴らが可哀そうなんだ。なあ、家の兄貴はやくざ者だ。大酒は喰うし、女房はやたらに叩くし、親を敬わねえ。俺がいなけりゃ何もかもわやだ。きっと親父やお袋が乞食をするようにならあ。だが兄弟、俺の脚はもう立っちゃいられねえ。それに、ここだって蒸暑いや。……降りて寝よう。」