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決闘
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決闘
アントン・チェーホフ
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 21

二

ラエーフスキイがナヂェージダ・フョードロヴナに嫌悪を感ずるのは、なによりもまず、彼女の言うことなすことことごとく嘘乃至は嘘らしく見えてならぬからである。また、今までに読んだ女性ならびに恋愛についての反対論のことごとくが、これ以上は望めぬほどぴったりと、彼とナヂェージダ及びその夫の場合にあてはまって見えるからである。家に帰って見ると、彼女はもう髪をととのえ身じまいを済まして窓際に坐り、むずかしい顔をしてコーヒーを飲みながら、厚い雑誌の頁をめくっていた。それを見ると、彼は心に思うのだ――コーヒーを飲むのに、なにもそんなむずかしい顔をすることはないじゃないか。誰に見せて喜んで貰おうという目的も必要もないこの土地で、なにもそんな時間を掛けて流行の髪に結うことはないじゃないか。雑誌までが、彼には嘘に見えてくる。髪を結ったり身じまいをしたりするのは、美人に見られたいからだ。雑誌を読むのは利口に見られたいからだ。

「今日海水浴に行ってもよくって」と彼女が訊いた。

「どうしてさ? お前が行こうと行くまいと、まさかそのため地震が起こりゃしまいし。……」

「だって私、先生にまた叱られるといけないと思って。」

「じゃ先生に訊いたらいいさ。僕は医者じゃない。」

今度は、彼女のあらわな白い頸筋と後頸を這う捲毛の束とが、たまらなくラエーフスキイの気にさわるのだった。夫への愛の冷めたアンナ・カレーニナにとって、なにより厭でならなかったのは夫の耳だったという話を思い出して、彼は『本当だ、あれはじつに本当だ』と思った。

気分も悪いし、頭が空っぽになったような感じなので、彼は書斎にはいって長椅子に横になり、蠅よけにハンカチを顔にかけた。一つことの周りを堂々めぐりするだらだらともの憂い想念が、雨もよいの秋の夕暮を行く荷馬車の行列のように、彼の脳裡を繋がって通る。彼は、睡いような重たい気分に落ちて行った。ナヂェージダにもその夫にも自分は悪いことをした、彼女の夫が死んだのも自分のせいだ、自分の生活を台なしにしたのも自分の罪だ、高い思想の世界、知識の世界、勤労の世界に対しても、自分はすまぬことをした、とそんな気がした。そしてそういう絶妙な世界が存在し得るのは、オペラがあり芝居があり新聞があり、ありとあらゆる智的労働があるあの北方だけで、餓えたトルコ人や怠惰なアブハジヤ土人〔(黒海東北岸およびコーカサス山中に住む一民族)〕のうろついているこの海辺には、とても存在しえぬような気がした。あそこにいてこそ、正直な人間にも、賢い人間にも、高尚な人間にも、純潔な人間にもなれるので、ここにいてはとても駄目なのだ、理想もなく確乎とした生活方針もないわれとわが身を彼は責めるのだった。もっともそれが何であるかは、今ではおぼろげながらわかっていたけれど。……二年前ナヂェージダを恋した時には、彼女と手を取りあってコーカサスへ行きさえすれば、それで俗悪空虚な生活から救われるものと考えていた。同様に今では、ナヂェージダと手を切ってペテルブルグへ行きさえすれば、それで一切が購えると確信しているのだ。

「逃げるんだ」と彼は呟いた、起き直って爪を噛みながら、「逃げるんだ。」

自分が汽船に乗り込むところ、やがて朝食の卓に向うところ、冷たいビールを飲むところ、甲板に出て婦人たちと話をはじめるところ、それからセストーポルで汽車に乗って北へ向うところ――彼の想像は次から次へと展がった。ようこそ、自由よ! 停車場が一つまた一つとひらめき過ぎ、空気は次第に冷え冷えと身にしむ。そら白樺、そら樅。そらクールスク、そらモスク。……停車場の食堂には野菜スープがある、羊肉のオートミールがある、魚料理がある、ビールがある。一と口にいえばもう野蛮なアジアじゃない、ロシヤだ、本当のロシヤだ。乗客たちの話は、商売のこと、新しい声楽家のこと、露仏協商のことだ。どこを見ても、文化的な、教養ある、溌剌颯爽とした生活が感じられる。……急げ、急げ。さあ、やっとネフスキイ広小路だ、ボリシャーヤ・モルスカーヤ通りだ、ああ、ここは学生時代の古巣コヴェンスキイ横町だ。懐しい灰色の空、そぼ降る雨、濡れている辻馬車の馭者。……

「イン・アンドレーイチ」と誰か隣室で呼ぶ、「おられますか?」

「いますよ」とラエーフスキイは答える、「何ですか。」

「書類です。」

ラエーフスキイは大儀そうに起ち上がった。少しめまいがする。あくびをしながら、スリッパをぺたつかせて隣の部屋へ行く。往来に立って、開けはなした窓ごしに覗いているのは年若な同僚の一人で、窓の張出しに役所の書類を拡げている。

「今すぐ。」優しくラエーフスキイは言って、インキ壺を取りに行く。やがて窓際に帰って来ると、眼も通さずに署名をして、「暑いねえ。」

「ええ。今日はお出になりますか。」

「さあね。……少し加減が悪いんでね。シェシコーフスキイに、食後にお寄りするって言っといてくれ給え。」

同僚が帰ると、ラエーフスキイはまた書斎の長椅子に寝ころんで、考えはじめた。――

『とにかく、あれやこれやを考えて方針を立てなきゃならん。発つ前にまず借金の片を附けることだ。借金は二千ルーブリからあるところへ持って来て、おれは一文無しだ。……勿論、これは大した問題じゃない。何とかして今一部だけ払って置けば、あとはペテルブルグからでも送れる。なんといっても問題はナヂェージダだ。……まず第一に二人の関係をはっきりさせることだ。……そう。』

やがて、サモイレンコのところへ相談に行って見たら、と考えて見る。

『行って見てもいいさ。だがおそらく何にもなるまい。またおれは、閨房論だの婦人論だの、正しいの正しくないのと、見当はずれの議論をはじめるにきまっている。一刻も早く自分の命を救わなければならないこの際、この呪われた束縛で今にも息が窒りそうで、自殺も同然のこの際、正しいも正しくないもあるものか。……もういい加減にわかってもいい頃だ、このおれのような生活をつづけて行くことが、どんなに卑劣だか、残酷だかが。それに比べれば、他のことは取るに足らぬ些事だ。逃げ出そう!』と起き直って呟いた、『逃げ出そう!』

荒れ寂びた海辺、堪えがたい炎暑、それにいつ見ても黙々と同じ姿をして永遠に孤独な、淡紫に煙りわたる山々の単調さ――こうしたすべてが彼を憂欝にするのだった。それは彼を眠り込ませて、その間に彼の大事なものを盗んだように思われた。いったい自分は、非常に聡明で有能で、とても正しい人間かもしれないのだ。この海や連山に八方から取り囲まれてさえいなければ、自分は地方自治体の錚々の士に、政治家に、雄弁家に、政論家に、功績者になれたかもしれぬのだ。誰がそれを否定できよう。そうだとすれば、例えば音楽家とか画家とかいう天分の豊かな有為の人物が、囚われの境涯を脱れたいばかりに牢を破ったり、看守を瞞したりしたとて、正しい正しくないの問題じゃあるまい。こうした人物の立場から見れば、すべてが正しいのだ。

二時になるとラエーフスキイはナヂェージダと昼食の卓に向い合った。料理女がトマトのはいった米のスープを出したとき、ラエーフスキイが言った。

「毎にち毎にち同じだね。なぜ野菜スープをしないの。」

「キャベツがないんですもの。」

「ふむ、妙だね。サモイレンコのところでもキャベツ・スープをしている。マリヤ・コンスタンチーノヴナのところでも野菜スープが出る。この甘ったるいどろどろした奴を食わされるのは、なぜか知らんがこの僕一人だ、こんなこっちゃ駄目だね、奥さん。」

どこの夫婦もたいていはそうであるが、以前はこの二人も、食事のとき気紛れな口喧嘩をせずにすんだことは一度もなかった。しかし彼女に厭気がさしてからというもの、ラエーフスキイは努めてナヂェージダに逆らわぬようにして、口の利きようももの柔らかに丁寧になった。いつもにこにこして、『奥さん』と呼ぶのだった。

「このスープは甘草汁みたいだね」と彼はにこにこしながら言った。愛想よく見えるようにと努力していたのだが、やはり我慢しきれなくなって、「一体この家には、家のことを見る人間がいないんだ。……君が病気か、それとも読書で忙しいんなら、僕が台所をやろうじゃないか。」

これが以前なら、彼女は「ええ、やって頂戴」とか又は、「じゃ私に料理女になれとおっしゃるのね」とか言い返したにちがいない。だが今では、おずおずと男の方を見て、顔を赤らめるだけだった。

「で、今日は気分はどうだい」と彼は優しくたずねた。

「今日はいい方ですの。ただちょっと元気がないだけ。」

「大事にするんだね、奥さん。僕は心配でならないんだ。」

ナヂェージダはどこか悪いのだった。サモイレンコは間歇熱だと言ってキニーネをくれた。ウスチーモヴィチというもう一人の医者は、昼間は家にいて夜になると両手を後ろに組んで、蘆のステッキをぴんと背中に突立てて静かに海辺を歩き廻わっては咳をするという、人嫌いの背の高い痩せた男だったが、これは婦人病だと言って温湿布をすすめた。以前まだ愛のあった頃は、彼女が病気だと聞くと可哀そうにもなり心配にもなったが、今では病気までが嘘のように思われた。熱発作の終った後のナヂェージダの睡たげな黄色い顔、ものうげな眸とあくび、それから発作の最中に格子縞の毛布をかけて、女というよりは男の子に似ている容子、むんむんと厭な臭いのする女の部屋――すべてこうしたことが、彼に言わせると幻滅の因であり、愛や結婚を否定する素因なのであった。

二皿目には菠薐草と固く茹でた玉子が出た。ナヂェージダは病人だから、牛乳をかけたジェリーだった。彼女が心配そうな顔をしてまず匙で触って見てから、やがて牛乳を啜りながらものうげに食べはじめたとき、こくんと喉の鳴る音がするたびに、彼は嫌悪のあまり髪の根が痒くなるほどだった。こんな感情は、相手が犬の場合でも失礼きわまるものだとは知っていたが、彼は自分を咎める気はせず、かえってこうした感情を起こさせるナヂェージダが無性に腹立たしかった。世の中の男が情婦殺しをする気持がわかるような気がした。勿論自分はそんなことはしまい。しかし、もし自分がいま陪審官になったら、情婦殺しを無罪にするに違いない。

「有難うよ、奥さん。」食事が終ると彼はこう言って、ナヂェージダの額に接吻した。

それから書斎にはいって、ものの五分ほど、横目で長靴を睨みながら隅から隅へ往ったり来たりしていたが、やがて長椅子に腰を下ろして呟いた。

「逃げるんだ、逃げるんだ。きっぱり片をつけて逃げるんだ。」

彼は長椅子に横になった。ふたたび、ナヂェージダの夫の死は自分の罪かもしれぬと思った。

「惚れた、厭気がさした、それだけのことで人間を責めるのは愚だ。」寝ころんだままで長靴を穿こうと両足を持ち上げながら、彼は自分に言い聴かせた、「愛憎は人のよく制するところに非らずさ。あれの亭主が死んだについては、おれも間接の原因の一つなのかもしれんが、おれが彼奴の女房に惚れ、彼奴の女房がおれに惚れたといって、いったいそれがこのおれの罪か。」

彼は起き上ると制帽を探し出して、同僚のシェシコーフスキイのところへ出掛けた。この家には毎日のように役人連が集まって、ヴィント〔(四人でするカルタ遊びの一種)〕をしたり冷やし麦酒を飲んだりするのである。

「おれの優柔不断なところはハムレットそっくりだ」と途々ラエーフスキイは考えた、「シェークスピヤの観察はじつに正しい。ああ、じつに正しい!」

Chapter 2 of 21
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