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うつり香
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うつり香
近松秋江
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 3 of 9

3

「僕は、お前とここで話しをしているねえ」柳沢はふざけたようにも一人の女の顔を窺くように見ていった。

私は、自分の慎むべき秘密を人にあけすけに見ていられるような侮辱を感じたけれどこんなところにすでに来ていてそんな外見をしなくってもいいと思ったから、遠慮をしないでお宮をつれて別の部屋に入っていった。

間もなく私たちは其待合を出て戻った。

「ふん! あんな変な女を連れて来て」

柳沢は人形町の電車通りまで出て来ると、吐き出すようにいった。

「君は、どうもしなかったかね?」

「どうもするもんか。あんな小便臭い子供を。お宮はあんな奴を、自分の妹分だといって、あれを他の客によく勧めるんだ。だれがあんな奴を買うものがあるもんか!」

中二日置いて、この間からいっていた、外套を買ってやる約束があったのでまたお宮に逢いに行った。清月にいって掛けるとお宮はすぐやって来た。

「今日外套を一緒に買いにゆこう」

「今日」と、お宮は嬉しさを包みきれぬように微笑い徴笑い「これから? 遅かなくって?」行きとうもあるし、躊躇うようにもいった。

「ゆこうよ。遅かない」

「そうねえ。何だか私、今日怠儀だ。……あなた一人行って買って来て下さい。私どこへもゆかない、ここに待っているから……その辺にいくらもある」と、無愛相にいう。

「いや、それはいけない、僕は一緒に物を買いにゆくのが楽しみなのだ」

先だってから、

「私コ―トが欲しい。あなた表だけ買って下さい。裏は自分でするから」

といっていた。私はお前と足掛け七年一緒にいたけれどコート一枚拵えてはやらなかった。それに三、四度逢ったばかりの蠣穀町の売女風情に探切立てをしていくら安物とはいいながら女の言うがままにコートを買ってやるなんて、どうしてそんな気になったろうかと、自分でも阿呆のようでもあり、またおかしくもなって考えて見た。そうすると先き立つものは涙だ。

「ああ、おすまには済まなかった。七年の間ろくろく着物を一枚着せず、いつも襷掛けの水仕業ばかりさせていた」

そう思うと、売女にたった十五円ばかりのコートの表を一反買ってやるにしても、お前に対して済まないことをするようで気が咎めたけれど、また

「俺が、蔭でこんなに独りの心で、ああ彼女には済まない。と思っているのをも知らないで、九月の末に姿を隠したきり私のところには足踏みもしないのだ。あんまりな奴だ。……あんまりひどいことをする奴だ。……ナニ構うものか、お宮にコートを買ってやる! 買ってやる! おすまが見ていなくってもいい、面当てにお宮に買ってやるんだ!」

誰れもいない喜久井町の家で、机の前に我れながら悄然と趺座をかいて、そんな独言をいっていると自分の言葉に急きあげて来て悲しいやら哀れなやら悔しいやらに洪水の湧き出るように涙が滲んで何も見えなくなってしまう。

それで当然ならば正月着の一つも拵えなければならぬ冬なかばに、またありもせぬ身の皮を剥いだり、惜しいのばかり取り残しておいた書籍を売ったりしてやっといるだけの銭を工夫してお宮の気嫌をとりにやって来たのだ。

それを、さぞ喜ぶかと思いのほか、ありがとうともいわないで、何か厭なところへでも行くように怠儀そうにいう。女というものはこんなにも我儘なものか、今に罰が当るだろう。と腹の中で思ったがこの間は柳沢と一緒に外に出て、歌舞伎座や鳥安に行ったことがあるので、私もぜひどこかへ連れていきたくて仕方がなかった。それで「この不貞腐れの売女め!」と思ったが、素直にいそいそと立とうとしないのが業腹で、どうかして気嫌よく連れてゆこうと思って

「ねえ行こうよ。そして帰途に何か食べよう」と、優しくいうと、

「そう、じゃ行こうかねえ。すぐそこらにいくらもあるよ」いけ粗雑な口でいう。

「ああ、お前はさっきからすぐそこらで買うつもりでいたの? それで私に一人で行って買って来てくれといったのか」

「そうさ! あんな物どこにだってあるよ」

「いや、そりゃいけない。どこかもっと好いところにゆこう」

「日本橋の方へ?」

「ああ」

「そう、じゃ私ちょっと自家へ帰って主婦さんにそういって来るから」

と、いってお宮は帰っていった。間もなくやって来て、今度は前と打って変って、いつか一週間も逢わないでいて久しぶりにお宮のいる家の横の露地口で出会った時のようにげらげら顔を崩しながら

「自家の主婦さん、『雪岡さん深切な人だ。ゆっくりいっておいで』と、いっていたわ!」

こんどは、そんなことを言やあがる。何というむらっ気の奴だろうと癪に障ったけれど、一緒に連れ出したいのが腹一ぱいなので気嫌を直して行くというから、こちらも嬉しくって外に出た。

「主婦さあ、『日本橋の松屋においで、松屋が安くって好いから』と、いっていたわ。うちの主婦さあも彼店で買うの」

お宮が気の浮いた時によく出す主婦さあというような調子で声を出しながらいそいそとして歩いた。

「安いといったって、何ほど違うものか」と思いながら「じゃそこへ行こう」私は、お宮の言うとおりになった。

蠣殻町から汚い水の澱んだ堀割を新材木町の方へ渡ってゆくと、短い冬の日はもう高い棟の彼方に姿を隠して、夕暮らしい寒い風が問屋物を運搬する荷馬車の軋って行く跡から涸ききった砂塵を巻き揚げていった。

柳沢の言い草じゃないが、こうして連れ出して見ると、もう暗い冬の日光の照りやんだ暮れ方だからまだしもだとはいいながら今さらにお宮の姿が見る影もなくって、例のお召の羽織はまあいいとして、その下には変な唐草模様のある友禅めりんすの袷衣か綿入れを着ているじゃないか。それが忙がしそうに多勢の往来している問屋町の前を通って行くのがひどく目に立って、私はせっかくの思いに連れ出していながら、独り足早にさっさっと先きに立って歩いた。

そんな風をした女をつれて松屋へ入って行くのが冷汗をかくようであったが誰れも知った人間に遭いはしないだろうかと恐る恐る二階に上ってゆくと、よくしたもので二階のすぐ上り口の鼻先に知った人間が夫婦で買い物をしている。私はちょいとお宮の袖を引っ張ってすうと物蔭に隠れてしまった。間もなくそれらが降りていったので私は恥かしそうに売場の番頭の前に安物の下着のようなめりんす友禅を着たお宮をつれて行った。

すると、お宮がちょうどお前と同じことだ。どうして女というものはああなんだろう。お前にいつか袷衣にするからといって紡績物の絣を買った時にどうだったろう、私が見立てて買って来てやったのを、柄が気に入らぬからといって、何といった?

「あなた、そんな押し付けるようなことをいうもんじゃないわ、何か買って来た時は――『お前にこんな物を買って来てやったが、どうだい、気に入るか』って、まず訊くものよ」

そんなことをいった。あの時お前は、先の亭主は、それは深切であった、深切であったと、よく口癖のようにいっていたから、

「それはお前の先の亭主はそんなことをいってお前を可愛がったか知れないが、俺はそんなことをいうのは厭だ」

と、いって笑ってやったら、その時お前は気嫌悪そうな顔をしながら笑った。でも、やっぱりその柄が気に入らないからといって、せっかく私とその呉服屋の息子とで見立ててこれが好いときめた物を、また他なのを子僧に持って来さして比べて見た。そしてやっぱり先のがお前にも気に入った。それから早速仕立てて着て見たら、「あなた、これはなかなか好い柄ですよ。姉のところに着て行ったら、『好いのが出来たねえ』って、引っ張って見ていました」

そういったじゃないか。

お宮がそのとおりだ。

たかがセルのコートを一枚買うのに、いろいろ番頭の出して見せる品物を、

「ああこれが好い!」と、手に取り上げているかと思うと、後から変った柄のが出ると、

「ああこの方がいいわ!」そしてまたそっちに手を出す。

「じゃ、その方に定めたらいいだろう」と急くと、

「やっぱりこっちの方が好いわ」と、指を一本口の中に入れて考えたようにしている。私は番頭の手前つくづく穴にもはいりたくなって、

「じゃ、そっちのにするさ」

「…………」

「これも、なかなかおよろしい柄でございます」

番頭がそういって、お宮が手放した方を取り上げて斜めに眺めていると、

「じゃあ、あっちにしようか?」こうだ。

「さあさあ もういい加減にしてどれかに早くきめたらいいじゃないか」私は焦れったくなって、せき立てた。

「いえ、どうぞ御ゆっくりと御覧なすって下さいまし」番頭はお世辞をいった。

「これがおよろしいじゃございませんか」こんどは先のと違ったのを取って見た。

「じゃ、あれにするわ!」お宮は口から指を出していった。そしてついに番頭が二度めに取り上げたのにきめた。

きめたのはいいが、後で聞くと、家へ持って帰ってから多勢にいろいろにいわれて、翌日自分でまたわざわざ松屋まで取り換えにいって、他なのを取って来ると、また主婦や他の売女どもに何とかかとかいわれて、こんどは電話をかけて持って来てもらって、多勢で見比べたが、やっぱり元のにきめたのだそうな。

私はそんなことを聞いてから、お宮という奴はよっぽど浮気な、しょっちゅう心の動揺いている売女だと、ちょっと厭あになったが、それでもやっぱり止められなかった。

松屋から帰途に食傷横丁に入って、あすこの鳥料理に上った。私は海鼠の肴で飲けぬ口ながら、ゆっくりした気持ちになって一ぱい飲みながら、お宮のために鳥を焼いてやって

「どうだ? うまいか」と訊くと

「あんまりうまくないわねえ。……私今日昼から歯が痛いの」

そういって渋面をして、口を歪めてすすり込むような音を立てていた。

その夜遅くなってから

「俺はもう帰ろう!」

考えていると、だんだんつまあらなくなったので、私はむくりと起き上ってこっちもあんまり口を利かないで戻って来た。自家に戻るといえばいいが、ようよう電車に間に合って寒い深更けに喜久井町に帰って来ると婆さんは、今晩もまた戻って来ないと思ってか、とっくに戸締りをして寝ていた。どんどん叩いて起すと、

「あなたですか、また遅くかえって!」

と、ぶつぶつ口の中でいいながら戸を明けてくれた。

私は押入れを明けて氷のような蒲団の中へ自棄糞にもぐりこんで軒下の野良犬のように丸く曲ってそのまま困睡した。

老婆さんは、前にもいったようにきっとお前や柳町の入れ知恵もあったのだろうが、私にここのうちを出ていってくれといって、後には毒づくように言って追い立てようとした。

私も、お前がどこにどうしているか、それを知りたいばかりに喜久井町の家で欝ぎこんで湿っぽい日を暮しているものの、そこにいたって所詮分るあてのないものとなればどこか他の、もっと日当りの好い清洒とした間借りでもしようかと思っていたが、それにしても六年も七年も永い間不如意ながら自分で所帯をもって食べたい物を食べて来たのに、これから他人の家の一間を借りて、恋でも情けでもない見知らぬ人間に気兼ねをするのが私には億劫であった。それでずるずるにやっぱり居馴れた喜久井町の家に腐れ着いていたのだ。

すると弟の柳沢のいた、あの関口の加藤の二階が先だってから明いていて、柳沢のところの老婢に

「雪岡さん、本当においでになるんでしょうか、おいでになるんなら、なるんでそのつもりで明けておくから」

といって、加藤の家の主婦さんが伝言をしていたというから、それで喜久井町の家の未練を思いきって其家へ移ることに決心した。

それは確か十二月の十七日であった。宵から矢来の婆さんのところの小倉の隠居に頼んでおいて荷物を運んでもらった。

萎えたような心を我れから引き立てて行李をしばったり書籍をかたづけたりしながらそこらを見まわすと、何かにつけて先立つものは無念の涙だ。

「何で自分はこんなに意気地がないのだろう。男がこんなことでは仕方がない」

と、自身で自身を叱って見たが、私にはただたわいもなく哀れっぽく悲しくって何か深い淵の底にでも滅入りこんでゆくようで耐え性も何もなかった。

Chapter 3 of 9
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