Chapter 1 of 6

ふたりが世の常の男女らしく動けば、ことは平凡に運んだろうに、おたがいになにかしら少し足りないものがあって、なかなかそこまでゆかなかった。つまりふたりの間には長い年月にわたって手紙のやりとりが続きながら、若い男と女の間にあってしかるべき恋文のやりとりは一度もないという、ふしぎな間がらだったのだ。しかし、はたの者にはそう見えなかったらしい。

「修造の嫁は茂ちゃんぐらいでないと納まるまい。」

修造の兄がだれかにそんなことをもらし、それは茂緒の耳にも何度か入ってきたが、茂緒はフンという顔をしていた。修造がフンとしているのを感じていたからだ。茂緒の両親もまた修造の兄と同じ目でふたりをみているのを感じて、茂緒はさらにフンとした。そして親たちには口に出していった。

「男と女が交際しとると、だれもかれも妙な目で見るん、ほん好かん。」

自分たちはワケがちがうといいたかったのだが、しかし茂緒がなんといおうとも、男と女のつきあいは結婚が目的でなければならないと、はたのものはやきもきしているようだった。茂緒だとて、心の皮をひんむいてみれば、だれにも劣らぬ赤い血がふき出したにちがいない。だが、はたの人にやきもきされて、それで何とかなるなど、田舎娘だとはいえ、新しい時代を生きようとしている修造たちの息吹にふれてきた茂緒にとっては、阿呆らしくて問題にならなかった。何一つ新しい知識があるのでもないのに、茂緒は啖呵をきるのだ。

「自分の始末ぐらい自分でやるさかい、心配しなさんな。お母さんらと時代がちがうんじゃ。それに、嫁にいかん娘が一人ぐらいおったって、よかろがいの。」

そのくせ、修造から、東京へ遊びにこないかという手紙をもらうと、彼女はのぼせあがってしまった。

「修造さんが、来いって。うち、行こうかしらん……」

母をまともに見ることもできぬくせに、はっきりといった。母はおどろいて、

「来いって? 一しょになろうというのかい。」

茂緒はさっと水をかけられたような気がし、こんどはいつもの気さくさで、

「東京見物によ。茂、行ってこうかな。――土曜日の晩の船にのって、日曜の朝神戸から汽車にのって、そしたら夕方東京に着かあ。その晩深川の兄さん家に泊ってえ、月曜日に東京見物してえ、その晩夜行にのってえ、あくる日神戸の君代姉さん家にちょっとよってえ、その日の船で戻ったら、まる三日で戻ってこれらあ。ああうれし、行ってこう。修学旅行のかわりじゃ。」

こうなると、とめたってきく茂緒ではない。まるで磁石に吸いよせられる針のように、さっさと居場所をかえてしまったのだ。関東大震災後三年目の春だった。小さなバスケットに着がえを一組いれて、彼女は颯爽と旅立ったのである。船着場まで見おくってきた妹たちにも機嫌よく、土産を買ってくると指切りなどした。

「茂姉ちゃん、ほんな、いつ戻ってくるん?」

末の妹の小菊が別れをおしんでいうのへ、茂緒ははっきりといった。

「火曜日の晩。」

「そんなら、もう一ぺん指きりじゃ。うち、迎えに出る。」

「よし、ゆびきり。」

小菊の小さなゆびに強く小ゆびをからませて打ちふりながら、茂緒はふっと涙がつきあげてきた。このまま別れになりそうな気が、ふとしたからだった。艀にのると、春とはいえ二月はじめの夜の海風は頬をしびれさすほど冷たかった。エンジ色の毛糸のショールを頭からかぶって、茂緒は、闇の中に見えぬわが家のあたりをながめて、母との問答を思いだしていた。

――おなごの一人旅を、さす親も親じゃと笑われる……。

――勝手に飛びだしたんじゃと言やええ。

――阿呆なこと。……神戸へ遊びにいったことにしとくぞい。

――そんなおていさい。東京には房次兄さんもおるじゃないか。修造さんのとこへ、遊びにいきましたと正直にゆうたってええ。うちはそうゆうて、ふれまわってやる。

――嫁入りまえの娘がそんなおうど(大胆)なことしたら、笑われるのは茂ばっかりじゃ。

――そんならわざと笑われにいくがい。房の兄やんのとこへやこ、行かん。

この、ひとりだけ毛色のちがったような娘に、母は手を焼いていたかもしれぬ。しかし、この大胆不敵に見える娘も、東京の波風の中では小鳩のようにおとなしかった。おとなしくならずにいられなかったのだ。まず、彼女の計画は東京への第一歩からぺしゃんこになった。電報を打っておいたのに、修造は出迎えにきてくれなかったのだ。東京駅のホームで一時間も待ったあげく、彼女はしおしおと房次の家へ電車でいった。房次はいず、兄嫁の澄江が怪訝な顔でむかえた。写真でみて茂緒の方は知っていたが、初対面であった。

「茂緒です。」

と、名のると、澄江は愛想笑いをしながら、とんちんかんなことをいった。

「こんなにおそく、どちらから?」

茂緒は茂緒で、恐縮しながら、

「あのう、東京駅で友だちをまってたものですから――」

そして手土産の煮干を出すと、はじめて分かったらしく、

「あら、あんた主人の妹さん!」

「はい。」

「わたしはまた、ごめんなさい、勘ちがいして。今日たのんだ女中さんが、早や来てくれたのかしらと思ったんですよ。それにしちゃあ、表から入ってくるなんて、様子がおかしいと思ったりして。失礼しました。さあさあ、寒かったでしょう。あったかいそばでも、とりましょう。」

座敷に通されて、ひとりになると、火鉢で手をあぶりながら茂緒は、兄にむかって何というべきかを考えていた。正直に、ありのままにふるまうのだと、母にはいいながら、ここではそれが通用しそうもなかったからだ。

――東京見物にきました。友だちと一しょに見物しますから、二三日宿をお願いします。

そうだ、そういおう、それなら嘘じゃないもの……。

ほっとしながらも茂緒の気もちはまた滅入りそうだった。修造は、なぜ迎えに出てはくれなかったのか。ただそのときの気まぐれで、まさか茂緒が上京するとも思わずにさそったのであろうか。いっそのこと、このまま会わずに帰ろうかと思ったりもしたが、翌日になると、澄江の手前もあって、兄の家にくすぶってもいられなかった。彼女ははじめての東京を、深川から修造のいる本郷真砂町まで、人に聞き聞きたずねていった。せまい三畳に、彼は友だちと一しょにいた。会ってみれば何のことはない。昨日、電報は修造の出かけた留守に着いていたのだという。

「すみませんでした。だから今日は朝から待ってましたよ。」

茂緒はただにこにこしていた。にこにこしながら彼女なりの思いで、修造の生活が、今貧窮の底にあることを見てとった。彼はまた以前のような長髪になり、顔は前よりやせていた。髪が長いのは、床屋にもゆけないからだろうと思い、頬のくぼみはろくに食べていないせいだと察した。

下宿を出ると、彼は最初にいった。

「ぼくは、今、金がないんですがね。」

茂緒はその率直さに感動しながら、

「少しなら、わたし持ってますわ。」

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