Chapter 1 of 17

書簡

聖なるパリ神學部の

いとも明識にしていとも高名なる

學部長並びに博士諸賢に

レナトゥス デス カルテス

私をしてこの書物を諸賢に呈するに至らしめました理由は極めて正當なものでありますし、諸賢もまた、私の企ての動機を理解せられました場合、この書物を諸賢の保護のもとにおかれまするに極めて正當な理由を有せられるであらうと確信いたしますので、茲にこの書物を諸賢にいはば推薦いたしまするには、私がそのなかで追求しましたことを簡單に申し述べるにしくはないと考へる次第であります。

私はつねに、神についてと靈魂についてと、この二つの問題は、神學によつてよりもむしろ哲學によつて論證せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ信ある者には、人間の靈魂の肉體と共に滅びざること、また神の存在し給ふことは、信仰によつて信ずることで十分でありますとはいへ、たしかに、信なき者には、先づ彼等にこの二つのことが自然的理性によつて證明せられるのでなければ、いかなる宗教も、また殆どいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思はれないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳に一層大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また來世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少數であるでありませう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教へられてゐるところでありますから、まつたく眞でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まつたく眞であります。まことに信仰は神の賜物でありまする故に、餘のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れ給ふその神はまた、神の存在し給ふことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得給ふからであります。とはいへ、これはしかし、信仰なき人々に對しましては、彼等はこれを循環論であると判斷いたすでありませうから、持ち出すことができませぬ。そして實に私は、單に諸賢一同並びに他の神學者たちが神の存在は自然的理性によつて證明せられ得ると確信いたされるといふことのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりも更に容易であり、まつたくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるといふことに、氣づきました。これはすなはちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またその故をもつて彼等は宥すべからざるなり、蓋し彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神を更に容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、辯解する事を得ず、と言はれてをります。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顯はなり、といふ言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の處においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根據によつて、明白にし得るといふことが告げられてゐると思はれるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によつて神はこの世のものよりも更に容易に更に確實に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無關係なことではないと考へた次第であります。

また靈魂に關しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判斷いたしてをり、そして或る者は人間的な根據からは靈魂が肉體と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によつてのみその反對が理解せられるとすら敢へて申してをりますとはいへ、しかしレオ十世の下に開かれましたラテラン公會議は、第八會同におきまして、彼等を非とし、そしてキリスト教哲學者たちにかの人々の論據を破り、全力を擧げて眞理を證明するやうに命ずるのでありますから、私もまたこれを企てることを恐れなかつた次第であります。

更に私は、多數の不信者が神の存し給ふこと、人間の精神が身體から區別せられることを信じようと欲しない原因はまさに、この二つのことがらは從來何人によつても論證せられ得なかつたと彼等が申しますところに存することを知つてをります故に、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反對にこれらの問題に對して偉大なる人々によつて持ち出されました殆どすべての根據は、十分に理解せられます場合には、論證の力を有すると考へてをりますし、從つて私は前に他の何人かによつて發見せられなかつたやうな根據は殆ど何も與へ得ないと信じてをりますとはいへ、しかもひとたびそれらすべての根據のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして嚴密に明瞭に解明し、かくてすべての人々の前に今後これが論證であることを確かにいたしますならば、哲學においてこれにまさる有益なことは爲し得ないと思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの學問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成いたしましたことを知つてをります或る者は――もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、眞理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して實のり多かつたことを見てゐるのであります。――この仕事が私によつて爲されることを切に請ひ求めました故にかやうにして私はこれについて若干試みることが私の義務であると考へた次第であります。

さて私が爲し遂げ得ましたほどのことは悉くこの論文の中に含まれてをります。尤も、かのことがらを證明すべきものとして持ち出され得るであらう種々の根據のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何等十分に確實な根據を有しない場合にしか、勞力に値しないと思はれるからであります。却つて私はただ第一の、何よりも重要な諸根據をば、今これらを極めて確實な、極めて明證的な諸論證として提出することを敢へて致し得るやうな仕方で、追求したのであります。なほまた私は、これらは、惟ふに、人間の智能にとりましては更にすぐれた根據を發見し得るいかなる道も開かれてゐないやうな性質のものであるといふことを、附け加へるでありませう。すなはち、ことがらの緊要性と、これが悉く關係するところの神の榮光とは、この場合私の習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るやうに私を強要する次第であります。尤も私は、私の根據を確實で明證的なものと考へますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合してゐるものとは信じませぬ。まことに幾何學におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるひは他の人々によつて多くのことが書かれてをりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないやうな何物も、またそれにおいて後續するものが先行するものと嚴密に關聯しないやうな何物もまつたく含まない故に、すべての人によつて極めて明證的でまた確實なものとも看做されてをりますとはいふものの、しかしそれはどちらかといへば長く、そして非常に注意深い讀者を要求いたしますから、まつたく少數の者によつてのほか理解せられないのであります。恰もそのやうに、私がここに使用いたしますものは、確實性と明證性とにおきまして幾何學に關することがらと同等あるひはこれを凌駕しさへすると私は認めてをりますとはいへ、しかし多くの人々によつて十分に洞見せられ得ないであらうと恐れる次第であります。すなはち、一つにはこれもどちらかといへば長く、そして一は他に依繋いたしてゐるからであり、また一つには主として、先入觀からまつたく解放せられた、自己自身を感覺の連累から容易に引き離すところの精神を要求するからであります。そして確かに世の中には形而上學の研究に適する者は幾何學の研究に適する者よりも多く見出されないのであります。更にまた次の點に差異が存してをります。すなはち、幾何學におきましては、すべての人が、確實な論證を有しない如何なることがらも書かれない慣はしであると信じてをります故に、精通しない者は、眞なる事柄を反駁することにおいてよりも、僞なることがらを、これを理解すると見せ掛けようと欲しまして、是認することにおいて一層しばしば過ちを犯すのでありますが、これに反して哲學におきましては、雙方の側において論爭せられ得ない如何なることがらもないと信じられてをります故に、少數の者のみが眞理を探索し、そして大多數の者は敢へて最もすぐれた説を攻撃することによつて、智能ある者との名聲を得ようと努めるのであります。

かるが故に、私の根據がいかなる性質のものでありませうとも、ともかく哲學に屬してゐるのでありますから、諸賢の庇護によつて助けられるのでなければ、それらの根據をもつて勞力に値する大きな效果を擧げ得ようとは、私は期待いたしませぬ。しかるに諸賢の學部につきましてはすべての人が深く尊敬の念を抱いてをり、またソルボ※ヌの名は甚だ權威を有してをり、かくて單に信仰に關することがらにおいて聖なる公會議に亞いで諸賢の團體ほど信頼せられてゐるおよそいかなる團體も存しないのみでなく、また人文的な哲學におきましても、他のいづこにも更に大きな明察と堅實性とが、また判斷を下すにあたつて更に大きな健全性と叡智とが存しないと看做されてゐるのであります。かるが故に、もし諸賢においてこの書物に對しまして、まづ第一に、それが諸賢によつて訂正せられますやうに、――すなはち、單に私の人間的な弱さのみでなく、何よりもまた私の無知を想起いたしまして、この書物の中に何等の誤謬も存しないと私は確信いたしませぬ。――次に、缺けてゐることがら、あるひは十分に完全でないことがら、あるひは更に詳細な説明を要求することがらが、諸賢みづからによりまして、それとも、諸賢から告げられました後に、少くとも私によりまして、附け加へられ、完全にせられ、闡明せられますやうに、そして最後に、神の存し給ふこと、また精神の身體とは別のものであることを證明するこの書物の中に含まれる根據が、實にこれを極めて嚴密な論證と看做さねばならぬほどまで、明瞭性に達せしめられました後に、――私はそれがかかる明瞭性に達せしめられ得ると確信いたしてをります、――諸賢がまさにこのことを言明し、公に證言して下さいますやうに、かやうに高配を賜りますならば、その場合には、これらの問題についておよそ存しましたすべての誤謬は間もなくもろもろの人間の精神から拭ひ去られますことを、私は疑はないのであります。すなはち、眞理そのものは容易に餘の智能の士並びに博學の士が諸賢の判斷に同意いたすやうにするでありませう。また權威は、智能の士とか博學の士とかであるよりもむしろ多くは一知半解の徒であるのを慣はしといたします無神論者が、反對する心を棄てるやうに、それのみかは、恐らくすべての學識ある人々によつてそれが論證と看做されてゐることを彼等が知つてゐるところの根據を、理解せぬと思はれたくないために、彼等みづから辯護するやうにさへ、するでありませう。そして最後に、その餘のすべての者はかくも多くの證據に容易に信をおくでありませう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の靈魂と肉體との實在的な區別とかを敢へて疑ふ者は誰もないでありませう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みづから、諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評價せられることができる次第であります。つねにカトリック教會の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに關することがらをこれ以上の言葉を費してここに推薦いたしますことは、私にふさはしくないでありませう。

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