一
日露戦争がどんな理由、如何なる露国の、日本に対する圧迫、凌辱に依って、日本の政府が、あの如く日本国民を憤起させて敢て満洲の草原に幾万の同胞の屍を曝させたかは、当時、七歳にしかならない私に分りようがなかった。ただ、
「ロスケが悪いのだ、赤鬚が悪いのだ」
ということを、村長さんや、在郷軍人分会の会長さんたちに依って、村人を、特に若い青年を憤起させ、膾炙せしめたから、私達小児まで、
「ロスケの赤ヒゲ、クロバトキン」
と、廻らぬ舌で怒鳴り歩いたものだ。子供同士の喧嘩にも、
「ナンダ、このロスケ……」
と言えば相手を充分に侮辱しうるほどの、悪口の一つになっていたものだ。
ある日のことだった。
私の親爺は天気のいいのに、二三日あちこち浮かぬ顔して、仕事にも出ずに、近所の親類なんかを迂路ついていたが(親爺は日傭稼であった。私の親爺は、なに一つ熟練した職業を知らなかった)、叔父や、祖父などが、二三人、私の家の狭い上り框のところで、酒を呑み始めた。母が汚ないなりしたままで、鼻をグスグス音させながら、酌していた。
私にはそんな光景は、初めてであった。平素酒なんか呑んだことのない父、況して母が酒の酌する有様なんか、まったく初めて見た。
私はぼんやり、板戸の戸口の所に、腰掛けたまま、それを見ていたら、どうしたのか、祖父が皺くちゃの手で私の手を握りながら、上り框の父の居る方に引っ張って行った。それで私と一緒に遊んでいた妹もベソをかきながら、私に蹤いてきた。
すると、父は、平素の顔と変にちがった顔付をして、私の頭を撫でて何か云おうとしたが、私には聞きとれなかった。
「父さんはナァ、センソウにゆきなさるけん、温なしゅうして、遊んでいなはり――、ナァ好えかい?……」
祖父が、そばからそう云って、私を頷ずかせた。「父はロスケ征伐にゆくのだ」と私は合点した。私は父と別れるという様な悲しみは、少しも起らなかった。ただ父は剣も持っていなければ銃も持っていないので、何となしに物足りなかった。
それから二三日して、父は家に居なくなった、おおかた、私達が、寝ている間、朝早くか、夜の中にでも、戦争にいってしまったらしかった。
「母さん、戦争のあるところって、どっちの方?」
私と二つ異いの姉は、夜、母を真中にして、寝てから、こう聞くことがあった。父が居なくなってから、母はランプの石油を、余計に費いやすことを恐れて、夜なべが済むと、すぐ戸締りして、寝床を作った。一ばん下の弟が母に抱かれて、その次に妹、その隣に姉、母のすぐ背後が私であった。
「戦争はナァ、ズウッとあっち、満洲ていうところ!」
しかし満洲が、私達の家の西に当るか、東に当るか、母も知らないらしかった。姉が指して、
「あっち? こっちの方?」
と云っても、母はまちまちに答えていた。
母は気丈な女であった。四人の子供を抱えて、毎日細いながらも、煙をたてていった。
「一人一合扶持なんかで、食ってゆけるもんか」
区長さんのところから、出征軍人の遺族扶助米として、月に二三度届けてくれる僅かの米袋を見るたびに、母は何かに欺されたもののように怒って、米袋を投げつけた。母は毎日、大きな笊を、天秤棒で担って、二十三連隊の営内に、残飯を担いに行った。毎日兵士が喰いあました飯や、釜の底に焦れついた飯や、残りの汁なんかを、一荷幾らで入札して買って来た。そして近所の同じ貧乏な、お内儀さんたちを呼んで来て、それを頒けたり、売ったりした。
それで、父の出征したのちは、新しく炊いた飯は、一度も喰うことがなくなったが、とにかく、二度も三度も蒸しかえした残り飯でも、飢じい思いはせずに、私達は暮した。
私はその次の年、七歳で小学校にあがった。学校では遊戯のときでも、なんでもかでも、軍歌を教えられた。
月にわずか一銭と
……………………
一万二千八百噸
世界にならぶなしときく、
アメリカボーイと名付けらる。
ハッキリとおぼえていないが、こんな文句であった。歌の調子はいまも覚えている。私達は一年生のときから月に一銭の海軍軍艦建造費を徴収せられた。
この歌は、たしか日露戦争中に、建造された、日本で初めての大軍艦の、祝歌であった。
津田という、女の先生が、大きな産月近い腹を、グッと前に突き出して、足を高くあげ、手を振りながら、この遊戯と歌を、私達に教えた。私達は、先生の周囲を、円陣を作って、歌い踊りながら、戦争というものが、どんなに尊うといものか、人間と生れて戦争にゆかないものは、不具者に劣る者だと教え込まれた。
私は小児心に、父が戦争に行っていることが、非常に誇りであり、遊び友達の中で、肩身が広かった。
ある朝、学校の校庭で、御真影最敬礼ののち、校長先生は、出征軍人を父に持つ生徒を、講壇に上らして、その所感を述べさせた。無論小学校の生徒で、皆のまえでそんな所感など云えよう筈はなかったが、各受持の先生が、前の日に、云うべき文句を、暗誦させてあった。一年生であった私は、第二番目に、校長先生に呼ばれて講壇に上った。
私は恐々ではあったけれど、前の日、暗誦させられた通り出来るだけ声を大きくして云った。
「私の父は陸軍輜重兵第六大隊、輜重兵輜重輸卒、徳永磯吉であります、――」
こう云ったら、上級生の方の大きな子供達が、クスクス笑い出した。私は何だか分らなかったが、恥かしくて黙り込んだら、校長先生が、皆の方に、恐い目をして、
「笑ってはいけない」
と云った。
「ニチロの戦争に、ゆきました。私はよく勉強して、大きくなったら、父のように軍人になって戦争にいって、ヘイカのためコクカのためにつくそうと思います」
と云って、自分の席にかえった。
家にかえってから、私は母に得々とその話しをした。そしたら、三年生の姉が帰ってきて、口惜しがりながら云った。
「直がシチョウユーソツなんて云うから、皆から笑われた」
と云って遂々泣き出した。私は、それで気付いたが、上級生が笑ったのは、私の父の輜重輸卒は、兵隊のうちでも、一等ビリの役目だから、笑ったのだなぁと思った。
母は黙っていた。私は友達の喜ィ公の父さんは喇叭卒であることを思い出して、喜ィ公の父さんは豪イなあと思った。
戦争は、いつまでもあるらしかった。私達の村からは、次から次に、戦争に行く人があった。私が小学校にあがってから、間もなく、近所に住んでいる叔父が戦争にいった。
男のない私のうちでは、私が名代で皆と一緒に、叔父を停車場に見送りにいった。
叔父は現役で、帰ってからまだ何年も経っていなかった、そして十三連隊の上等兵で、如何にも偉そうであった。叔父の家にはまだ子供がなかった。私の母よりズッと若い叔母は、皆が、『××直彦万歳イ』を三度云って、在郷軍人の服を着た叔父を真中にして、家の露路を出ようとしたら、上り框のとこで、ワッと大声で泣き出した。
叔父はその翌る朝、沢山の同じ戦争に行く人と一緒に、私達の村端れの停車場を通った。叔母も、祖父も、私の母も一緒に、構内に入って早くから待っていた。汽車がくると、どれが叔父だか一寸見分がつかない位の人々が、汽車の窓から首を出していた。逸早く見つけた叔母は、窓にしがみついて、叔父と談していた。窓から首を出している黄色の筋の入った帽子(その頃までは帽子は赤筋でなかった)を冠った兵隊さんたちは、誰か訪ねて来ていないかと見廻していた。あんまり騒々しい光景に、私はぼんやりしていた。
そのうちに汽笛が鳴って汽車が動き出した。叔母はまだ離れなかった。「危い」と車掌が飛んできて、後から引き下した。叔母は泣いていた。母も祖父も、それとは別に遠ざかってゆく叔父の振る帽子に合図して、夢中に手拭を振っていた。
それから十日ばかりして、叔母は私の家に同居した。私の親類では外に、従弟の貞助と、三人が出征した。センチ(戦地という言葉をこの頃覚えた)から、時折グンジユウビンが来た。いつも姉が読んだ。みんな平仮名と、片仮名ばかりで書いてあった。
母は毎日、「残飯」を担いにいった。柄の小さい叔母は、家の軒下に莚を敷いて竹箸を削る内職をした。私も姉も、学校を退けると、手伝わされた。私はこの「箸削り」が一等嫌いであった。コガタナ(ナイフ)で小さく割った竹片を、丹念に削るのだから、しんきで、しんきでしようがなかった。私は懐中に始終入れている「ウチオコシ」が、したくて、隙を見てはすぐ飛び出したものであった。
私達の遊びごっこは、戦争ごっこが一番盛んで、可也にこっぴどく殴り合った。月のある夜なんか、沢山の子供が、語らいあって、村端れの鎮守を中心にして、「陣地」の奪い合いをやったものだ。
私は、力は強かったが、機敏でないため、よく頭に、瘤をつくって、家に帰ったものであった。
また、戦争の光景や、大将、中将の似顔を描いた「ウチオコシ」が非常に流行した。黒木大将や、大山、野津、乃木、瓜生海軍中将などの似顔と名を覚えたのも、その頃であった。
「号外」が時折、けたたましく鈴を鳴らして、くることがあった。鈴の音を聞くと、叔母も母も読めもしない癖に、顔色を変えて狼狽てて買いにやった。私は跣足でたびたび号外売りのあとを追駈けたことがあった。
「勝った勝った九連城」
奉天よりずっと以前だと思うが、九連城が落ちたときに、村人皆んなが狂喜した。私達は「陣地取り」で勝つと、屹度この「勝った勝った九連城」と怒鳴って、手を叩いて踊ったものであった。
村の鎮守の、大樟の頂辺に、大きな国旗が、掲げられた。村の「木昇りの甚さん」が決死の覚悟で、危ないところの頂辺まで上って、その大旗を結びつけたのであった。それは「どうぞ戦争が捷ちますよう、村の出征軍人が、無事に凱旋しますよう!」という祈りのためであったそうだ。
だが、戦死の報は、頻々として相踵いだ。
「貞は、ウチジニしたぞい!」
ある夕暮方祖父は、赤い筋の入った電報を握って、私の家の軒先から、オロオロ泣いて入って来た。
親類外の人々が、戦死した報を聞いても、そうビクビクしていなかった母たちは、貞助が、ウチジニしてからは、足許に亀裂が入ったように、何時もキョトキョトしていた。
貞助が死んでも、葬式もなにもなかった。髪の毛でも送って来なければ、葬りようがなかった。倅が夭死して、頼みの綱の孫がまた、戦死した祖父の家は、寂しそうであった。
私は無性に、ロスケが憎かった。
家主の総領息子の彌一さんも、戦死の報がきた。私の父からは、時折、軍事郵便が来たけれど叔父の方は、パッタリ来なくなった。
母も叔母も、毎晩、お題目を唱えて、叔父達の身の上を念じた。私は寝床に入ってから、母たちが狂人のように、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
と大声あげて、団扇太鼓をたたきながら、唱名しているのを、ひょいひょい寝覚のままに聞くほど、晩くまで念じていることがあった。
私は何だか、少し戦争が怖くなった。私は父が、何だか逢いたく思われ出した。
奉天が落ちた。
それは何月何日だったかは覚えぬが、私が号外売りを追駈けて行って買ったのは、暑い夏の頃で、ヂリヂリ照りつける陽で道の砂が足裏(私達小児はみな大抵跣足で過した)が焼きつくようで、日盛りの頃であった。
学校は、祝賀のために、校長先生が奉天が陥落して、日本軍が大勝利であったことを話したきりで、その日は休みであった。
村では鎮守に、お神酒があがった。叔母は、もう叔父が明日にでも、戦地からかえって来るように、喜んだ。
ロシアの捕虜が、送られてきた。十三連隊が虜にした、ロスケの赤鬚が、練兵場の仮小屋の中に入れられる、というので、私達は村の人達と一緒に見に行った。
ロスケはみんな、背が大きかった。私が想像した通り、鬚が赤くて、眼がビィドロのようで、鈍間らしい風付であった。みな黒い笊のような帽子を、冠っていた。そして捕虜はみんな私達小児の顔を見て、ベチャクチャ喋りながら、ニコニコ笑って通った。
「ロスケが笑っとる!」
私達は随分、ロスケは意久地ないなぁと思った。銃も剣もとりあげられて、それでニコニコしている。私は何だか不思議に思えた。
私達は、学校のかえりに、廻り道して毎日のように捕虜を見に行った。
「弱ゴロの赤鬚――」
「剣はどうした?」
私達は、竹柵の外から、鮨詰に押し込まれている、ロスケを罵しったり、石を抛り込んだりして、一時間ぐらい費やした。
だが、決してロスケは怒らなかった。長い赤髪を、モシャモシャさせながら、何だかペチャクチャ喋くっては、私達に笑いかけた。小屋の柵のまえに、鉄砲をかついでゆききしている日本の番兵は、彼等の胸位いしか、脊が届かなかった。
その大兵の露助は、小さい日本兵の尖った喧嘩腰の命令に、唯々諾々と、寧ろニコニコしながら、背後から追いたてられて、便所などに、悠々と大股に往ったりしていた。
私は、そのロスケの喰う残飯を喰った。それは、種子油の沢山入った粟飯であった。
「なんでも、ロスケは油っこいものを、喰うぞいナー!」
母は、笊を片付けながら、塊りの粟飯を頬張って云った。私はロスケの喰うものだと聞いて、すぐ止した。そして、ロスケの残飯まで喰わなければならないのかと思った。母には云わなかったけれど、貧乏人であることが、悲しく、恥しくなって、その日からロスケを見にゆかなくなった。