Chapter 1 of 2

〔一〕

先ず範疇に就いて一般的に考えて見ることが必要であると思う。範疇は云うまでもなく哲学の根本的な問題であり又終局的な課題でもあるであろう。古典的な起源と複雑な歴史的変遷とに加えて、現在に於て又将来に於て、人々は夫々云おうとする処を云うであろう。範疇は何であり又何で無いか、何が範疇であり又何が範疇でないかを議論するであろう。私は併しながら之を議論し之を決定しようとは思わない。ただ多くの所謂範疇論がとった様々の形の基に、或る一定の「条件」があり或いは又無いということだけを取り出して見ることが出来るならば、充分である。

吾々は事実に面接して生きており、吾々は事実を見そして之を語る。茲に事実とロゴスとが対立している。ロゴスは吾々の側に於てあり、事実とは吾々の彼岸に於てあることであるから、この対立が正しく主観的と客観との対立――主観客観という概念を出来るだけ一般的にするならば――なのである。このような意味に於て、認識は主客の対立なくてはあり得ない。縦え主観が客観を構成するのであると云っても、「与えられたもの」「課せられたもの」――之が一般的な意味で客観である――なくして構成が成り立ち得ようか。主客の対立を先ず許しての上でなければ、主観が客観を構成するという転回的な言葉も実際上は虚しい合言葉に終る外はない。認識は主客の対立を予想する。故に逆に主客の対立を予想する一切の立場は、この意味に於て、「認識論的」な立場であると云うことが出来る。さて範疇は嘗てロゴスと共に始まった。アリストテレスの範疇表が文法に由来する――併し之はその偶然であることを証明するのではなく寧ろ却って今私が云うていることからその必然性が主張されることになる――と説いたトレンデレンブルクの研究がすでに之を具体的に示している(Geschichte der Kategorienlehre 参照)。併しながら注意しなければならないことは、ロゴスと共に始まったとしても範疇は、後に明らかとなる通り、必ずしもロゴスから生れたということになるのではない。それは事実から生れたかも知れないし、又事実とロゴスとの本来の同一がもし在るならば之から生れたかも知れない。処が元来、範疇は事実に就いて始めてその意味を有つことが出来るのであるから、今もし範疇がロゴスから生れたと仮定すれば、それは「認識論的」な意味を有つことになるわけであり、もしそうでない場合には他の意味を有たなければならないわけである。この後の場合、即ち認識論的ではない処の意味を有つ時、私は範疇をば「存在論的」と呼んで好いであろう。向に私が「条件」と云ったのはこの「認識論的」又は「存在論的」を指したのである*。

* 私は範疇に就いての「認識論的」と「存在論的」との対語を O. Spann の“Kategorienlehre”から借りた。無論その区別は必ずしもこの人の思想に相当しないかも知れない。 繰り返して云えば、認識論的とは主観と客観との対立を予想することそのことである。そして範疇が認識論的であるというのは従ってそれがロゴスから生れるということであった。処がその淵源(Genesis)をロゴスに有つものは「論理的」(logisch)である。かくて認識論的範疇の第一の性質は論理的であることになければならぬ。処が又一般に、論理的であるものは概念か判断か推論かの形に於てなければならぬということを何人も認めなければならない。故に範疇は第二にこの三つのものの何れかの形に於てある筈である。但しこの三つのものが本来どういう関係にあるかという――例えば概念は実は一つの判断であり之が又実は一つの推論でなければならぬというような――論理学的な議論はしばらく別として、今は仮に之を各々独立に考えて置こう。併し中にも重大なのは概念と判断である。であるからして或る範疇が概念乃至判断の形に於てあることを知ることが出来たならば、それが認識論的であることを着想するのが自然である。さてカントは感性と悟性とを、即ち直観と概念とを区別して、恰も時間と空間とが純粋直観(乃至直観形式)であるように、範疇は純粋概念、「純粋悟性概念」であるとする。それは「純粋悟性の本当の基本概念」と考えられる。かくて範疇はまず第一に概念なのである。併し乍ら何物かが概念であると云われる時、そこには区別しなければならない二つのものが意味されていることを私は注意したいと思う。同一ということは一つの概念である。併し云われる如く吾々は同一なるものを見又聴くことは出来るかも知れないが、同一そのものを見又聴くことは出来ない。というのは吾々はこの概念に当体する存在を承認することが普通の意味に於ては不可能なのである。普通の意味に於てというのは、同一とか相似とかいう関係概念が意味する関係は或る意味に於て存在するかも知れない、併し関係の項が存在すると同じ意味に於て存在するのではない、ということである。今茲に可能である二つの場合は、この関係そのものが何の特殊の存在をも有つのではなくその故にこそ夫を概念であると考えるか、或いは又そうではなくして、それが或る特殊の存在を有ち、そしてかく存在する、関係に就いて我々が関係という概念を有つか、二つである。之を一般に範疇に就いて云い改めれば、範疇が概念であると云うのは、範疇が存在ではなくして概念であると云うのか、それとも範疇は存在しているが其の上に吾々がそれに就いて範疇という概念を所有するのであると云うか、のどれかである。今もし後の場合であるならば、たとえ吾々が範疇という概念を用いて思索するにしても――何となれば概念を用いずして思索することは出来ないから――範疇そのものは概念であるのではない。主観がそれを思索すると否とに関らずそれは存在するものであろう。故に約束に従ってそれは存在論的であるのである。之に反してもし前の場合であるならば、関係の項を関係せしめることに於て関係が成り立つと同じく、範疇は範疇されるべきものを範疇する処に成り立つのであるが、範疇そのものが概念であるに反して範疇されるものは存在であることになるから、範疇と範疇されるものとの間に必ず対立がなければならないわけである。処がこれは主観と客観の対立に外ならない。故に約束に従って之は認識論的である。不用意に、範疇が概念であると云う時、それはなお存在論的とも認識論的とも考えられる余地があるわけである(この混雑は恐らく概念が一切のものを自らの内に含み得る能力、云わば平均性 Nivellierung を持っていることから起こるであろう)。さてカントの考えは何れであるのか。明らかに認識論的である。このことは第二にカントの範疇が判断の形に於てあることによって再び証明されるであろう。「範疇は、与えられた直観の多様が夫によって規定される限りに於て、正にこの判断の機能に外ならない」(K. d. r. V. B., S. 143)。処が少くとも此の場合に於ては判断は判断されるものに就いての判断である。客観に対する主観である。故に茲に於ても亦カントの範疇は認識論的でなければならない(概念ということが直ちに認識論的ではないことと同じに又それに類して、判断ということも直ちに認識論的であるのではない。「論理的」ということに就いてもかく云うことが出来る。之は後に明らかとなるであろう)。カントの範疇をかくの如き意味に於て――認識論的という意味に於てである――徹底したものはヴィンデルバントである。彼によれば範疇は、それが判断に於てあろうと概念に於てあろうと、“Formen des beziehenden Denkens”に外ならない。範疇とは「思惟の総合的形式、即ち直観的に与えられた内容が、統一する意識によって互いに結び付けられる関係」と考えられている。それは「意識に於ける多様の総合的統一」から「生れる」のである(Vom System der Kategorien 参照)。であるからそれは思惟にぞくし又意識にぞくし、又それから生れる。処が已に用いた考え方を繰り返せば、この場合では思惟は思惟されるものに就いての思惟であり、意識は意識されるものに就いての意識である外はない。茲に認識論的範疇の最も判明な典型を見逃すことは出来ないであろう。

カント従って又ヴィンデルバントの範疇が認識論的であることは判ったとして、それが更に一つの特徴を有っていることを忘れてはならない。というのは、主観と客観との対立を予想しながら夫は、なお且つ常に主観――概念、判断、思惟、意識など――に於てあるものと考えられていることである。そこで吾々は主客の対立に立ちながら今や主観には非ずして客観に於て之を求めて見る理由がありはしないか。人々は次のように云って反対するかも知れない。仮にカントの範疇論に於て、主客の対立が予想されていることを許すとしても、そのことからしてその範疇が主観にのみぞくすということは出て来ない。真理の客観性が成り立つための条件として範疇が求められているのであるから、云い換えれば範疇が真理の客観性を構成するのであるから、範疇が主観にぞくすと仮定すれば同時にそれは又客観にもぞくさなければならない。理性の普遍的必然性が同時に実在の真理内容であるということこそカントの範疇論の真髄ではないか。故に之を主観にぞくすものと決めて、之とは別に、改めて客観にぞくすものを求めようとすることは、全くその理由がない、と。併し私は第一に真理の客観性と吾々が今云うている客観とを区別しなければならないのである。数学の命題は一つの客観的真理であるであろう、併しそれであるからと云ってそれは客観であるのではない。或いは数学の命題と雖も数学の世界の一つの内容であり、一切の「世界」は客観であるから、それは又客観にぞくすと考えることが出来る、と云うかも知れない。併しそうすれば私は第二にこのような可能的な世界――永久真理の世界――と実在界――事実真理の世界――とを区別しなければならない。私が主観に対して客観と呼ぶものは後者を含むもののことである。処がまた云うであろう。その実在界と雖もカントに従えばまた主観の構成の外ではない、例えば一つの原因甲に一つの結果乙が従うという実在内容を認識するものは、即ちそれを構成するものは、主観そのものである、従って例えば因果の範疇は主観にぞくすと共に従って又客観にぞくすこととならざるを得ないではないか、と。併しそう云うならば、私は第三に実在ということと、客観ということとの区別を明らかにしなければならない。後の原因甲が結果乙を伴うということを此の一定の瞬間この一定の場処の一つの実在内容であるとする。そうすれば同じ瞬間同じ場処で原因丙が結果丁を伴うということは実在内容となることは出来ない。然るにそれにも関らずこれは向の場合と同じく客観にぞくすであろう。因果関係は主観に於て行なわれるのではない。又更に此の瞬間此の場処に於て向の二つの因果関係の何れもが又如何なる因果関係もが行なわれなかったにしても、又更に一般に如何なる範疇の働きの当体も現われる余地がなかったとしても、何ものかが(それは実在内容ではあり得ない)なお客観にぞくさねばならぬ。範疇の当体はこの客観に於て始めて現われるのである。即ち之を云い換えれば一切の実在内容を除いても、なお客観は残る筈なのである。之が両者の区別である。処がこのことは却ってカント自身が次のように云い表わしている処のものである。即ち、悟性概念たる範疇と直観形式たる時間空間は別である、と。範疇は実在内容を規定し、現象は客観を与える。かくて範疇(それは主観にぞくしている筈であった)は客観なる現象に就いて範疇はするが、併し之を構成することは出来ないであろう。併しかく云っても無論時間空間による現象界だけが客観であるという意味ではない。けれども以上のことは次のことを証明している。即ち、主観は本当の意味に於ける――所謂真理の客観的妥当性というが如きものではない――客観そのものを構成することは出来ない、ということ。実際、対象の超越性――それが客観である――は正に主観に対する超越性に外ならない。カントに於ては之は第一に範疇に対する現象の超越性となって現われる。併し現象をもなお主観的であると云うならば(併しこの主観的は範疇のそれとは異っている筈である)、第二にそれは物自体のもしくはノウメナの現象に対する超越性となって現われている。処がこのような関係にある主観と客観との対立を仮定することが認識論的であった。それ故カントの範疇は、之を仮定した上に、特に主観にぞくすものであることが明らかとなった。そこで吾々は、主客の対立を仮定しながら且つカントとは異って範疇を客観に於て求める理由がある筈ではないか。

私にとって範疇をば客観にぞくすと考えたかのように思われる処の人々の内、さし当り代表的な二つの場合、即ちハイデッガー(Heidegger, Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus)とラスク(Lask, Die Logik der Philosophie und die Kategorienlehre)とを参照して見よう。前者。ハイデッガーによれば「範疇は対象の最も一般的な規定である」(S. 232)、それは、「実在界」「対象界」にぞくす。即ちもしこの対象が吾々の求めている客観であるならば、範疇は客観に属すこととなるのである。併しながらこの対象は実は客観ではない。何となればもしこの対象が客観であるとすれば、範疇はまず何よりも思惟や判断等に、一般に主観に、属してはならなかった筈である、処がハイデッガーに従えば、それは一方に於て、「思惟の機能」、「思惟の形」であり、範疇の問題は「判断の問題」及び「主観の問題」へ関係せしめられねばその本来の面目を失うて了うからである。故に範疇は今の場合の意味での客観に属すものではない。吾々はただ彼に於て客観の方向への着眼を発見するだけであって、たとえこの着眼に於て範疇の意味が重大な変化を受けていることは明らかであるとしても、それによってはまだ吾々の探求に適わしい事例を発見することは出来ないであろう。後者。ラスクの「領域の範疇」に於ては純粋形相に属す意味の充実(Bedeutungsfulle)は必ず質料界の特殊によって決定されている。処が特殊の質料を指し示す形式が対象性(Gegenstndlichkeit)に外ならない。故に領域の範疇に於ては純粋形象――それは論理的形式一般である――は対象性一般によって決定されているわけである(2 Teil, 2 Kap.)。故にもし人々が範疇という言葉をば単に純粋形相としての論理的形式ばかりではなく、之とは異った意味にまで拡張しなければならないならば――そしてかく拡張されたものが領域の範疇である――範疇とは「対象の形式」でなければならない。かくてラスクに従えば範疇は対象にぞくすこととなる。従って吾々によればそれは又客観にぞくすこととなりそうである。併しながらラスクの対象乃至対象性とは何か。彼によれば「コペルニクス的定立」に従って、対象の領域は又真理の領域でなければならない。対象性とは、たとえそれが純粋形相にぞくすものではないにしても、なお一つの「論理的形式」「最広義に於ける論理的形式」なのである。無論この論理的形式即ち真理は命題とか判断とかに於けるように“geknstelt”な意味を有つのではなくして、正に対象を意味するのであるが、この対象というのが実はとりも直さず理論的な「意味」(theoretischer Sinn)そのものなのである。それ故に範疇は対象にぞくし、そして対象が即ち真理であるとすれば、範疇は真理そのものの内にぞくさなければならない。それは「真理の形式」である。処で今もしこの真理が認識の普遍妥当性を意味するならば――それは認識の非普遍妥当性即ち虚偽と対立している――已にカントに於て明らかにしたことによって、それは主観の構成に過ぎないから吾々の求めている客観ではない。之に反して真理をば認識の普遍妥当性以上のものとすれば、それはそれ自体に於てあり従って主観を超越し故に又吾々の意味する客観であると考える以外の可能性はない。範疇は客観に於て求め得られたこととなる。もし今この後の場合を取るならば、吾々はラスクに於て吾々の要求――客観に於て範疇を求める――を満足出来るわけである。この要求の外に併し吾々にはもう一つの要求があった。それは「主観と客観との対立を仮定しながら」という約束である。而もラスクはこの約束をも果している。何となれば「認識ある限りに於て必ず範疇あり、認識論と範疇論とがある」(Gesammelte Schriften, Bd. , S. 88)、範疇は認識ある処に於て、即ち主観と客観との対立ある処に於て、成り立つものに外ならないからである。ラスクの範疇も亦認識論的である。

私はこれまでに認識論的範疇の二つの主な場合をとり出した。即ち主観と客観との対立を仮定した上で、第一に範疇を主観に於て求めたもの――カント従ってヴィンデルバントの場合――と、第二に之を客観に於て求めたもの――ラスクの場合――と。第一の場合は何の困難を含むとも考えられないと思う。処が之に反して第二の場合には一つの困難に気付かなければならない。今或る事柄を客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものとして求めると云う場合、客観という言葉を最も純粋にする時、吾々は一体主観と客観との対立ということを仮定するのが、第一に必要であるか。第二にそれは可能であるか。無論主観に就いては之は必要であり従って、又可能である。主観とは客観との対立に於て始めて許されることである。主観という一つの概念が、概念の一切の対立がそうであるように、客観を予想しなければならないばかりではなく、この概念が表わす処の事柄そのものが(概念がではない)客観との対立に由来するのである。客観なくして主観は概念としても事柄としても許されないことである。処で客観も亦主観と異る理由はないと云うかも知れない。処が併しそれは実は当らない。客観に就いても主観の場合と同じくまず客観なる概念とこの概念が表わす事柄そのものとを峻別する必要があると思う。客観は概念として主観との対立を予想してはいるが、併し他方に於て、事柄としては主観との対立を否定しているのでなければ客観と云うこと自身が不可能である。何となれば客観は主観を超越するという意味がなくては一般に意味がないからである。超越とはそれとの対立の否定でなくして何であるか(私は已に概念ということに就いてもこの論法を用いた。カントの項を見よ)。或る意味に於て、対立ということは超越的なるものと内在的なるものとの対立の外はない。何となれば並存的なものの対立にはすでにこの対立を内に含む一般者が必要であり、かくてこの一般者――それが超越的なるものである――とそれに含まれるもの――それが内在的なるものである――との対立だけが残されるからである。併し重大なことには、この対立は内在的なものから見て始めて対立であるので、超越的なるものから見れば対立の否定そのものである。主観と客観の場合も亦之に外ならない。客観の(又は対象の)超越性を主観から見れば、主客の対立であり、之を客観から見れば、その否定でなければならない。即ち客観をば概念――それは主観の見地である――として見ればそれは主観と対立し、之を事柄――それは客観の事実である――から見れば対立の否定そのものである。云い返せば客観は主観から見れば主客の対立を予想するが、客観そのものから見れば対立を予想する理由が無くなって了う。即ち何物かを客観に於て、又は之に就いて、又は之に属すものと考える時、第一に主客の対立を仮定する必要がないのである。又第二にそれは不可能でもある。何となればもし対立を許すとすれば、それを主観から見ることとなり、従って客観そのものに就いて語ることではなくなるからである。以上のことを逆に云えば要するに主客の対立に於ては本来の客観を語ることが出来ないのである。もしラスクの場合の如きものがあるとすれば、それはこのような本来の客観をば「主観の側から」という一つの条件の下に、即ち「主客の対立」という仮定の下に、投影したものに外ならないであろう。客観という名辞そのものがかかる投影の所産である。客観というものは一つの二律背反を有っている、それは主観と対立しながら且つ之を超越する、即ち之と対立しない。恰も吾々が直観と云う時それは一応は概念でなければならないのにも関らず、本来はこの概念を超越することでなければならないと同じである。ラッセルが提出したかの二律背反――「百字以下の文字によっては定義し得ない処の最小の数」は明らかに存在する。併し又存在しない、何となれば百字以上を以てでなければ定義されないその数が今や二十四字を以て定義されているから、かかる数は矛盾している故であると。恰もこの二律背反が茲にも現われるのである。而もそれは主客の対立に投影しようとするロゴスの業による。所謂「コペルニクス的定立」も超越的なものに対するかくの如き内在的な解釈でなければならない。無論之を虚偽であるというのではない。併しまた直接の真でもない。それは一つの条件一つの仮定の下に立っているからである。そして今やこの条件この仮定が問題にとって不充分なのである。そして更にその不充分な理由は、この条件この仮定が問題に対して見当違いであるためである。同じくこの理由からして、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『範疇論』に対しても、私は今の問題の発展解決を要求することは出来ないであろう。少くとも“subjektiv ideale Sphre”と“objektiv reale Sphre”との対立を除き去らない限りはそうである。さて以上のことから結果するのは次の事柄である。もしも吾々が客観そのものに範疇を求めることを要求するならば、吾々は主観と客観との対立という伝統を除き去らねばならぬということ。私はこの要求を歴史的に必然なものであると主張しているのではない。寧ろそれは非歴史的なまでに根本的な転倒を伴うかも知れない。併しこの種類のことは今の問題とあまり関係のあることではない。さてこの要求は、主観と客観との対立を除き去ることを要求する。処が最初に決めた通り、この対立を予想する場合が認識論的であり、そうでない場合が存在論的である筈であった。であるから範疇を客観に於て求めるという着眼は、吾々をして認識論的範疇を去って、存在論的範疇へと推し進ませずには置かないわけである。

存在論的範疇は始めから主客の対立を認めない立場に立つ。それ故に厳密に云うならば、客観にぞくすと云う言葉すら意味がない。今この種類にぞくす重な範疇論を挙げるならばその数は非常に多いであろう*。私は今その一例を掲げ之を指摘するだけに止めなければならない。ヘーゲルがそれである。

* この立場に於て直ちに思い至るのはアリストテレスの範疇であるであろう。所謂十個の範疇の内最も重大なのは云うまでもなく実体のそれである。処が実体は独り「範疇」の中心であるばかりではなく、同時に又「形而上学」の中心ででもある。然るにアリストテレスに於てその論理学と形而上学との結び付きは、人も云うように、薄弱であることを免れない。この結び付きに重大な興味を持つべき今の問題にとっては、それ故、アリストテレスの範疇の理解は非常に困難である。 已に最初に明らかにしたように、認識論的な範疇は論理的でなければならない。併しながら逆に論理的なものが凡て認識論的であるのではない。それは存在論的でもあり得る筈である。そして恰もヘーゲルがその一例である。理性的なものは事実的であり又、事実的なものは理性的である、と云うているように、ヘーゲルの範疇はロゴスと事実との同一――始めを見よ――から生れる。それ故これは最初の約束に従えば存在論的範疇の一つの場合である筈であった。さて併しながら存在論的範疇の他の一つの場合もあるのを忘れてはならない。即ちそれが事実から生れる――始めを見よ――という場合である。そしてこの場合には、それはその Genesis に関しては、ロゴスとは全く関係がないからして、論理的であり得ることは出来ない。即ち一般的に云うならば、存在論的範疇は必ずしも論理的ではないのである。処が多くの人々は範疇を一般に論理的、或いは理知的(例えば、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの“Intellektualfunktion”)と考えている。この矛盾はどう解かれるべきであるのか。範疇が論理的であると云う場合には二つの異った理由があると思う。第一は範疇がその Genesis をばロゴスに有つと考えるからである。処が私はそうでない場合にまで範疇を拡張した。であるから茲にあるものは矛盾ではなくして区別であるにすぎない。第二に範疇がロゴスと共に始まると考えるからである。そうすれば無論吾々は之を承認しなければならないであろう。併しながら最初に触れたように、ロゴスと共に始まることとそれから生れることとは全く別である。前者は、あるロゴス以外のものから産れながら而もその産れる場合にロゴスを縁としなければならないということにすぎない。今仮に範疇が事実から生れるとする、即ち範疇とは事実の或る根本的な規定であると仮定する(之は後に明らかとなる)、更に正しく云うならば範疇そのもの――範疇という概念名又は言葉ではない――は事実にぞくすものとする、その時でも吾々はこの範疇をロゴスとして口にすることが出来るのは明らかである。例えば此処に在る物に就いて「此処」として語ることが出来る。そしてかく、範疇そのものを言葉として口にする時、それ以前にではなく、始めて、この範疇そのものに範疇という名が付くのである。けれども範疇と名づけられるべきものがまず在ったのでなければならぬ。であるからして範疇そのものはロゴスにぞくすのではなくして、ただその概念、名、言葉のみがロゴスにぞくす。それは事実にぞくすのであって、ロゴスはただ之に範疇という名を与え得るだけである。範疇がロゴスと共に始まるというのはこのことを指している。その時それは事実にぞくすから、即ちロゴスに生れるのではないから、私の定義した意味で論理的ではない。併しながら無論之を他の意味に於て、即ちロゴスと共に始まるという意味に於て、論理的と呼ぶことは自由である。この後の意味で論理的であることは一切の範疇に就いて始めから承認されていたことである。故に論理的でない処の範疇が示された処で、それは何の矛盾を含むものでもない。一般に云えば存在論的範疇は非論理的である。

以上のことは存在論的範疇の意義を明らかにした。云い換えれば、一般に範疇をば、主客の対立を用いずに、客観対象乃至事実の内に求める理由が提供されたのである。併しながら同時に以上のことはただ、範疇が何に於てあり若しくは何の形に於てあるかを告げただけである。範疇とは一般に何か、或いは存在論的範疇は一般に何であるか、はまだ少しも決まってはいない。私は、最初に述べたように、之を決定しようとするのではない。ただ私が範疇という概念を用いることによって、寧ろ範疇そのものの問題ではなくして或る他の一つの問題を解き得るためには、即ちかかる条件の下に於ては、範疇が何でなければならないか、を次に明らかにする必要がある。というのは、元来範疇が何であるかに就いては、厳密に云うならば、一致した意見を見出すことが出来ない、であるから或る与えられた問題の解決にこの概念を用いて寄与し得るように吾々は範疇をば適当に解釈し得る筈なのである。又そうでなければ、吾々は範疇を云々する理由を失うて了うわけである。そこで私は範疇をば種々な歴史的制約からは独立に、私自身の問題が要求するのに応じて決めて行こう。併し第一にそれが特に存在論的範疇に就いてでなければならない理由がある。私はこのために此まで存在論的範疇をば求めて来たのである。但し予め断わっておかねばならぬことは、私が範疇は何々であると規定する時、もしも人々がそれは範疇ではない、というならば、私はそれに反対することは出来ない。併し同時に私は人々がそれを範疇以外の既知の何かとして指定することをも許さない。

かく断わった上で存在論的範疇は何と考えられなければならないか。第一にそれは事実――事実とはロゴスとの対蹠というだけの意味である――の有つ偶然性ではなくして必然性であらねばならぬ。非本質的なものではなくして「本質的」なものであらねばならない。併し具体的なものの所謂本質は決して一義的ではない。卓上の一枚の紙の本質は繊維素とも考えられるし新聞紙とも考えられる。そこで第二にそれを本質的なものの内の「形式的」なものであるとしなければならぬ。そうすれば恐らく繊維素が択ばれるであろう。処が又部分的なものも全体的なものも内容に対して形式を持っている。そして部分的なるものの形式が凡て同一であり従って直ちに全体の形式であることは保証出来ない。もしそうであるとすれば部分の形式はなお全体の形式に対して内容となる。真に形式的なものはそれ故第三に「全体」の形式でなければならない。処が又真に全体なるものは吾々が之を此として指示することは出来ない。此として指示すれば彼が残されるであろう。指示するには他との区別を必要とするからもはや全体ではない。故に指示し得るためには或る一つの特徴(Charakter)を条件としての全体である外はない。かかる全体は領域である。それ故第四に一定の特徴を有つ「領域」の形式である。併し又この形式がこの領域より広い他の領域の形式であるならば(より狭い他の領域であることはない、何となれば領域は一つの全体であったから)、それはこの領域の形式ではなくして他の領域の形式となって了う。故にこの形式はこの領域の特徴を云い表わすものでなければならないこととなる。依って第五にそれは領域の「特徴」である。処が更に又特徴とはすでに夫を有つ領域をば他の一切の領域から区別するために欠くことの出来ないものであった。そして而も領域の特色とする処はその性質上、それが他から区別されることによって始めて成立するということにある。故にこの特徴は領域の成立に必要にして且つ充分な条件となる。かくて最後に存在論的範疇は「領域」の成立に「必要にして且つ充分な制約」であることを必要とするのである。それは一つの「領域の範疇」と呼ぶことが出来る(認識論的範疇であるカントの Conditio sine qua non と之とを比較せよ)。認識論に於ては、制約と云えば直ちに所謂論理的制約が想い起こされる。併し不用意に理論的制約とは云うが、そこには知らず知らずの内に三つの別な意味が結び付いていると思う。第一にそれは心理的からの区別として、即ち心理的ではないものとして主張される。心理的とは心理に於ける或いは一般に経験に於ける、因果関係による発生に関することか、或いは心理的要素からの或いは一般に要素からの構成かであるが、之に対する反対としてそれは主張される。さて範疇、少くとも存在論的範疇は、一般に云って原因とも構成の要素とも考えられる理由がない。であるから吾々は存在論的範疇としての制約をこの意味に於て論理的と呼ぶに異議はない。併し第二にそれは論理にぞくすことであるかの如く考えられている。最初にあるものが論理であり之からの最も広い意味に於ての発展として範疇が導き出される(汎論理主義に於ての如く)か、それでなければ之を論理に還元し得る(例えばAならばBであるという場合の仮言としての条件としての如く)とするか、である。併し明らかに存在論的範疇としての制約はこの意味に於ては論理的ではない。第三に、併し非常に間接な意味に於て、それは主観にぞくすことであるかの如く考えられる。ある意味の観念性の如き之である。観念性をば実在性と区別することは無論差閊えない。けれども若し之をば主観という意味に於て観念性と呼び、客観という意味に於ての実在性と区別するのならば、明らかに存在論的範疇としての制約は観念的ではないと云わなければならない。之は約束に従って主観にはぞくさないからである。さて私が存在論的範疇をば、領域の成立に「必要にして且つ充分な制約」であるという時、この制約は、それ故、第一の意味に於ては論理的であるが――而も之を論理的と呼ばねばならぬ実際的な理由はない――他の一切の意味に於ては論理的であることは出来ない。それは論理的制約――認識論的制約と呼ぶことも出来よう――ではなくして正に「存在論的制約」と呼ばれなければならない(論理的制約であると解釈されているカントの Conditio sine qua non と之とを比較せよ)。存在論的範疇は領域の成立に必要にして充分な存在論的制約である。之までに明らかにすることの出来たのはこのことである。

この制約に就いて茲に一つ乃至二つの重大な特質を挙げて置く必要がある。向に述べた意味に於て、存在論的制約は論理的制約に較べて、一つの条件、即ち「充分である」という条件、を余分に含んでいる。処がこの充分なる条件とは、それが在れば必ず一定の領域が成立しなければならない処の条件である。即ち条件が直ちに――何となれば問題は論理的ではなくして存在論的であるから――領域そのものを成り立たせなければならない。存在論的制約とは領域の特徴であった筈である。故にこの制約そのものが、特別の言葉を借りるならば「内容」(Qualitten)を有たなければならない。茲に内容というのは、感覚内容(Sinnesqualitt)、或いは形態内容(Gestaltqualitt)、或いは総括内容(Gesamtqualitt)の「内容」を意味する。それはもはや単に形式ということは出来ない。例えば形は成程形式ではあるが、なおその形態内容を有つと考え得る場合に於てのように、それは又内容でもある。であるから吾々は、この制約を制約一般としてではなく、何物かとして――それが内容である――の制約であるとして指し示すことが出来る筈である。仮に今領域ということを問題外に置くとすれば、例えば卓は花瓶の土台としての制約であると云うように、或いは又光が色の透明としての制約であると云うように、何物かとして指示することが出来るであろう。次に之から帰結するのは、この制約が内容であるから、その内部に於て種々なる「規定」を含むことが出来るということである。今の例で云えば土台即ち卓が固いとか軟いとか或いは又透明即ち光が強いとか弱いとかを規定し得るであろう。領域の存在論的制約である存在論的範疇は「内容」を有ち又その「内容規定」を有つことを忘れてはならない。

以上二つの断章の結果は、唯だ次の二つである。第一に存在論的範疇は領域の存在論的制約――即ち必要にして充分なる――であり、第二にそれは「内容」とその「内容規定」とを有つ、ということ。私はこれだけの結果を用いて次に空間に就いての一つの問題を解こうと思う。それは以上の出発と結果とを客観的な存在へ応用することに外ならない。但し茲に客観的な存在と呼ぶのは最も常識的な意味に於てである――私は之を問題に対して最も忠実な出発点と信じる。それは内界に対して外界と呼ばれるもの、精神乃至意識に対して自然乃至存在と呼ばれるものをいう。私は仮に之を「存在」と名づけてよいであろう。但しそれは存在論的なるものと外延の上で一致を示すのではない。そこで私はこれから「存在」に於て何が存在論的範疇であり、又その存在論的範疇は何かを見出そうとする(以上特に断わらない限り範疇とは存在論的範疇のことである。制約も之に準じる)。

存在の範疇は何であるか。即ち存在の制約とは何か。それは存在そのものでなければならない。「存在であるということ」自身が夫である。併し存在であるの「ある」は繋辞の is ではない。凡そ繋辞の is は人も云うように、“The truth is that”ということである。然るにこの、という「こと」は、存在論的ではない。何となれば、例えばソクラテスの髪は白かったとすれば、白かったという「こと」は之を或る書籍の内に発見することが出来る、併しソクラテスの髪はその書物のどの頁に於ても白くはない。というのは白かったという「こと」、この dass は、吾々が之を語り考え推測することは出来るが、この語り考え推測するのは、髪が白いのではない。dass はロゴスにぞくしそれと異るものは異るものに属さなければならぬ。故に「こと」は存在論的ではない。故に又「ある」は繋辞ではない。それ故に「存在であるということ」は「存在するということ」なのである。併し存在することの「こと」は今云ったことによって已に存在論的ではない。故に単に「存在する」と云わなければならなくなって来る。私は之を云い表わすのに人々の用いる「存在の仕方」(Seinsweise)という言葉を以てしよう。但しこの場合の「存在」は私が向に約束した処の狭い意味にのみ解釈した上でのことである。さてアリストテレスに従えば存在――それは一般に広い意味に於てであるが――という意味を二つに分けることが出来る。第一は如何なるかの性質の又は何れ程かの量の或いは其の他の述語の「或る物である」ということであり、第二に「何であるか」ということである。処でこの何であるかにも亦色々の意味があるであろうが、第一義に於けるひたすらなる存在そのものは、正にそれに依って以て或るものが存在し得る処のものでなければならない。それは「或るもの」ではなくして「在る」でなければならぬ。之が「実体」である(Metaphysica, Z 1)。処で今吾々が「存在の仕方」を求めるならば、そして仮に存在という言葉の意味を一般に広く解釈すれば、それは「実体」に外ならないこととなるであろう。何となれば前に結果したことによって、吾々の求めているものは「存在する」であったが、この存在を広く解釈すればそれは正にそのままこの「実体」に当て嵌まるからである。実体とは存在の仕方であると云うことが出来る。それでは実体とは、も一歩立入って見ればどんなものであるか。アリストテレスはその解釈の種類に四つの場合を挙げてその尤なるものとして substratum を指定している。それによれば実体とは、他のものがその述語となりそれ自らは他のものの述語となり得ないものを云う(Z. 3)。実体とは論理学的に云うならば常に主語となる処のものに外ならない。実体は一つの併し根本的な――何となれば他のものは之の述語であるから――範疇なのである。併し私はこの実体という範疇――なる程それが存在の仕方を云い表わすことは已に明らかになっているが――それが存在論的範疇であるか或いは又認識論的範疇であるかということを正確に決定しようとは思わない。唯だ併しこの一般的な意味に於ける「存在」の「存在の仕方」としての実体をば、特殊の意味に於ける、即ち私の意味での「存在」へまで限定して見るのが吾々の問題にとって適当であるであろう。無論一般的なものを特殊なものに限定する場合、後者は前者に含まれなかったものを含んで来るから、後者の結果を以て前者の性質を決めることは出来ない。であるからこの限定によって生じた結果をアリストテレスの実体に当て嵌めることは出来ない筈である。念のためこのことを断わっておかなければならない。さて、「存在」に於て「実体」と考えられるものは何か。というのは他のものがその述語となり自らは述語とならないものは「存在」に於て何であるか。「物」がそれである。併し物という言葉も多義であるのであろう。処が吾々は常に「制約」を求めているのである。であるから例えば山であるか樹であるかは物の区別とはならない、それは凡て一種類の物である。故にそれを「物質」(Materie)としての物と云えば一層明らかとなるであろう(カントは Metaphysische Anfangsgrnde der Naturwissenschaft に於て、物質=物=実体と考えている)。かくて物は吾々の求めている「存在の仕方」であるかの如く思われなくてはならない。何となれば「存在の仕方」と思われる物とは、物としてある、物がある、であって、前に繰り返したことによって無論、物としてある「こと」物がある「こと」ではない。物は存在の制約としての存在の仕方であるかの如く見える。併しながらかく云うことは必ずしも当らないことを注意する必要がある。元来物とは一つの特殊を意味する――恰もアリストテレスの実体がそうであるように。而も明らかにそれは存在に於ける一つの特殊である。即ち領域に於ける――何となれば存在をば存在として他と区別するものが領域である筈であったから――一つの特殊である。故にそれは全体に対する部分でなければならない。処が前に述べたことによって範疇は即ち制約は即ち又存在の仕方は、領域の即ち全体の夫でなければならなかった。それ故物は吾々の求めている処の存在の仕方ではない。吾々は全体に就いて之を探ねなくてはならなかったのである。この特殊に対する一般は何か。まず仮に物を何かの意味で存在の仕方であるとしよう。少くとも存在は物としてあるのであるからこの仮定は許される。併しそうしても物は更に「何処」かになければならぬ。何処かにあるということも明らかに一つの存在の仕方でなくてはならない。今此処にあった物が無くなったとする、そうしても物は無くなったとは限らない、存在しなくなったとは限らない。物は今や彼処にあるかも知れない。所謂「場所による変化」――運動が之である。かくて存在は物としてあるばかりではなく、更に場所を占めてあらねばならぬ。場所に於てなければならぬ。物としてある――それは「こと」ではない――というのは場所に於てあること以外の何ものでもないのである。処が場所とは何か。アリストテレスの「何処」という範疇は他のもの即ち「此処」「彼処」等への関係によるのでなければならない。それは一定の位置――位置(Lage)という範疇を云うのではない――である。場処は関係を含まざるを得ない。場処とは、場処に於てある、という関係である。それは空間関係である。処で何人も物が特殊の空間関係であるということを認めなければならない。それ故空間関係一般が特殊――それが物であった――に対する一般であるということに来なければならぬ。今や物と空間関係とが並べられたであろう。物は特殊である故に「存在の仕方」であることが出来なかった、そして正に此の点で空間関係が「存在の仕方」と想像される優先権を有つわけである。さて今や私は空間関係が実際吾々の求めている「存在の仕方」、即ち存在の領域の必要にして充分な制約、であることをば証明しよう。但しその半ばの事柄、「領域の」ということは、それが一般であり全体であるということから、已に証明されているので、残された証明は「必要にして充分な制約」という事柄だけなのである。而も之は直接に証明出来るであろう。存在するというのはまず第一に物として存在するのである。この意味に於て物が存在するのであって物以外のものが存在するのではない。併し物として存在するためには、即ち物が存在するためには、場処に於て存在しなければならぬ、即ち物が場処に存在しなければならない。場処に於てなければ物としてはあり能わぬ。場処に於て無いものは例えば観念として存在するであろう。併し観念の存在は私の意味での存在ではない。故に場処に於て存在するというのは物として存在するの必要な条件である。即ち存在の必要な条件である。次に又それは充分な条件ででもある。何となれば場処に於て存在するのは物以外の何物でもない。もし物としてなければ場処に於てもない。場処に於て存在すれば、それは物として存在するのである。それは充分な条件である。故に場処に於てある――それが空間関係である――のは、存在の必要にして且つ充分な条件でなければならぬ。吾々は之に依って始めて、物が空間関係という状態――例えば隔っている、続いている、運動している、静止している等――を云々する理由を有つことが出来るのである。故に最後に吾々の求めていた存在の仕方は正に空間関係である。私は空間関係を簡単に空間と名づけよう。そうすれば空間こそ「存在の範疇」である。

普通、空間内に物が存在すると考えられる。空間と物とは異ると考えられなければなるまい。人々は云うであろう、そうすれば物なくしても空間はあり得るわけである、然るに私は空間が物の充分な条件であることを証明した、二つの事柄は矛盾するではないか、と。併し之は物に就いての考えが私のと違っていることから起こる質疑である。私の物とは飽くまで物としてあるの謂であった。空間はただこの意味に於てのみの物に必要にして且つ充分な制約であった。然るに人々の考えている物は物という存在の仕方ではなくして何かの性質の謂である。例えば太陽であるとか――それは白熱球状の天体である、又は樹木であるとか――それは幹の堅い植物である。恰もアリストテレスが「存在」と区別した処のかの「或る物」をばそれは指している(前を見よ)。処が私の物は正にアリストテレスの「存在」にぞくする。であるから空間と物とは人々の考えるような意味に於て互いに異るのではない。それは一つの状態――存在という――に対する、二つの異った見方――領域の制約として見るか否かの――を云い表わしている。然るに人々による両者の区別は、二つの異った事情の区別――「存在」か或いは又「或る物」かの――である。それは謂うならば存在と現実乃至事実との区別である。物として存在するのは存在であるが、その物が太陽であるか樹木であるかは現実乃至事実である。吾々はこの二つのもの、存在と事実とを峻別しなければならない。而も又物が後者にのみぞくすと独断することも差控えなければならないのである。一言にして云うならば私の所謂物は虚空間にぞくし、人々の云う処の物は実空間にぞくする。物は実空間に於ては性質――例えば感覚内容――となって現われるであろう。処が私の物は正しくかくの如き「性質」ではなかった筈である。

此までに明らかにすることが出来たのは次の一つの事である。即ち、特定の意味での――尤もそれは最も常識的な出発を有つ――存在に於ける、存在論的範疇は空間である。続く*。

* 存在論的範疇は内容(Qualitt)とその規定(Bestimmung)を有つのがその特色であった。故に次には空間の内容とその規定とを査べるのが順序である。(一九二六・九・一〇)

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