WindowsはMS―DOSの暗黒に 一条の希望の光をさすか
ウイルスにやられた。
そうと気づかぬうちに潜り込んできたクソ虫が暴れだして以来の阿鼻叫喚、血と涙の今日に至る日々を振り返って、このオレがもっとも不幸だったのは「やられた」と観念した瞬間だった。
考えてみれば不幸の種なんて、栃錦のケツのバンソウコウの数くらいこの世の中にはゴロゴロ転がっている。エーテルのように常に我等を取り巻く災厄の種に、ノホホンと警戒心を欠いていたオレが悪いと言えば悪い。
例えばこのオレが本通り商店街の年末福引で『カップルで行くニューヨーク・ワシントン八日間の旅』なんてのを引き当て、取材のなんのと嘘八百並べて嫁のだまくらかしに成功し、スナック・アザミの慶子ちゃん(自称二十三歳)と全日空機上の人となったとする。日付変更線を過ぎるころにはきっとただ酒の飲み過ぎですっかり出来上がり、早くも慶子ちゃんの膝なんかなぜながら赤みがかった妄想をたくましくして、脳味噌に砂糖水でも注射されたような心持ちであろう。機は一路ワシントンへ。時差と醒めきらぬアルコールがすっかり気分をハイにしてしまい、チェック・インもそこそこにホワイトハウスあたりを見物。「ネエネエ見て、リスよ。かわいい!」てな慶子ちゃんの声に誘われてヨロヨロと腰をかかがめて手を延ばすと、うぶなアメリカのリス公が寄ってくる。
まさにここまではダイナスティの脚本家も赤面しそうな、絵に書いたようなステレオタイプの幸運である。
我が愛でんと欲するもの、皆我が胸中に飛び込んでくるではないかと鼻の下を伸ばしたところがおっとどっこい。このリスがツラレミア大原病にやられていて、三日間こいつに取り付いていたダニがひょいと腕に飛び付き、その夜ベット上で奮戦中のオレ様の脇の下に潜り込んでA型の血を腹いっぱい吸い込む。と同時にウイルスを、五臓六腑にたっぷりと送り込んでくれる。三日後、ニューヨークは五番街のティファニイで日本人ギャルの「ウッソー、ホントにー」をBGMに、慶子ちゃんの品定めに付き合っているうちに、突如体中のリンパ腺がトラフグを怒らせたように膨れ上がり、猛烈な悪寒とともに下腹が鳴り始める。便所というのは「トイレ」で通じるのかなと朦朧とし始めた頭をふりふりたずねあてて便座に腰を下ろすや、腹はナイヤガラの滝のように下るわ、イエローストーンの間欠泉のように吐瀉物は口から吹きだすわ。ズボンを膝までずり下ろしたままトイレの床に倒れ込んだその場に迷い出たのが、折り悪しくもツツガムシを寄生させたネズミだ。このネズ公がまた、鼠咬症スピロヘータを養うネコに水蒸気溢れるマンホールの隅で二十三分前に追い詰められ、窮鼠猫を噛むの教えに従って危機を脱したはいいが、しっかりスピロヘータをもらったときている。息もたえだえにまぶたを開いたところでよろめくネズ公と鼻先で目があってしまい、互いに錯乱状態で噛みつき合いとなる。オレの免疫系はツラレミア大原病ウイルスとの激闘に疲れ果てているところにツツガムシと鼠咬症スピロヘータの追い撃ちをくらって、壊滅寸前。
オレ様のあまりの惨状に目を反らせて他人顔を決め込む慶子の肩も借りられず、「病院、病院」と呻きながら転がり込んだイエロー・キャブの運ちゃんが三日前にインドネシアのハルマヘラ島からニューヨークにやってきて、昨日タクシーの免許を取ったばかりときた。互いに英語と信じる言葉とマレー語、日本語のチャンポンでわめき合ううち、病院に運んでもらうつもりが着いたのはジョン・F・ケネディ空港。そこにキューバからとんずらしてきたミグ15がガス欠でイエロー・キャブめがけて落下し、オレ様はついにインドネシアの運ちゃん、キューバの亡命パイロットと共に一命を落とすといった事態も論理的に皆無であるわけではない。
「いったい何が言いたいんだ」って。
要するに不幸が蚊柱のように徒党を組んで押し寄せてくる可能性は、確実に存在するということだ。確かにそんなことを気にし始めれば、すぐにでも自殺したいほど生きているのが怖くなる。不幸は一切我が身にだけは及ばぬこととしなければ、人間様はこの瞬間を生きていられない。けれど、来るときには連中は問答無用でノシノシと上がり込んでくる。
このオレが言うのだから、この点に間違いはない。
ああ。冒頭の二十キロバイトの書き起こしはすでに完了し、残り百二十キロバイトの連載分を手直しして遅くとも十日後には渡さなければならない書籍用の原稿は! 留守番電話に吹き込まれた二十分は続こうという陰気な催促に、ようやっと取り掛かった書きかけのコラム原稿の始末は!
と悩んでいるうちが、オレ様はもっとも不幸であった。
ウイルスに取り付かれた者としての人生を一から歩み始める腹を固めてしまえば、それはそれなりに心の平安が帰ってくる。つらいのは精神のディップ・スイッチを切り替え、幸福モードから不幸モードへと移るその瞬間だ。
とまあここまで書いてきたことには一かけらのウソも混じってはいないのだけれど、皆さんの多くは我が身を襲った不幸の真実を誤解してくれるはずだ。
実を言えば、オレの取り付かれたウイルスは0、1のコードから成り立っている代物ではない。
蛋白質製である。
にもかかわらず、こんな本にこんな話がのっていれば、誰だってことはコンピューター・ウイルス方面に流れていくと思う。つまり我々はこの場で、通常人の世界観からのデジタル寄りの偏差を共有していて、ウイルスと聞けばまず「論理爆弾」とか「トロイの木馬」だとかしか思い浮かべない。それでオレ様が「質の悪いウイルスにやられて悶絶した」と言えば、読者諸氏はこれを悪意に満ちた短いコードにハードディスクを殲滅されて、全てのファイルとプログラムをあの青空の彼方にあるというデジタルの墓場に葬ってしまったとしか受け取らない運びとなる。
ご迷惑をおかけすることになる担当編集者に電話してみても、「ウイルスにやられた」と言えば返ってくる反応はまず、「それでウチ用の文書ファイルもアウトですか」である。いかれたのはファイルではなくてオレ様の体であると言っておるのに、M島進行管理Y子など、「ついにコンピューター・ウイルスが人体に潜り込みました~。こりゃまた、『朝日新聞』に一面トップで書いてもらわなくちゃね」ときた。
余談になるが(まだ本論に入っちゃいないか)、香川の高校生が四十人がかりでX68000狙いのウイルスを作ったと報じた一件を始め、『朝日新聞』のパーソナルコンピューター関連記事は実に、祭りに出張ってくる見せ物小屋のレベルで楽しませてくれる。一九九〇年五月二日の朝刊一面トップにぶち上げられた「電算機ウイルス/高校生らが開発」との記事で四十人がかりでウイルスを共同開発したとのくだりを病床で読んだオレは、それまで悪意のプログラムは目立たぬように意地悪く、かつ小さく作るべきものだと思っていたがために十秒間息絶えた。その絶命寸前のオレの脳裏には、ミクロン・オーダーであるはずのウイルスが四十人の坊主頭の科学者による遺伝子操作で超巨大化し、東京タワーをはさんで「ウイルス退散」と大書したたすきをかけた正義のモスラと死闘を演じる様が浮かんだ。もちろんけなげなミニラも、ワクチンの薬液を巨大ウイルスめがけて吐きかけておったよ。
『朝日新聞』(を典型とするマスコミのかなりの部分)には、パーソナルコンピューターに関する世界観(がオーバーなら土地勘)を持つ記者がそれほど払底しているのだろうか。いや、いくら何だって電脳狂いがあそこにいないわけはない。わけはないのだが、コンピューターに対する過剰な期待と過剰な反発をキメラ化させたマスコミ精神のカーネル・コードを書き直すほどの勢力を、連中は大組織の中で確保しえていないということなんだろうな。
ホント、M島Y子の言い草ではないが、半年かかって書き上げる直前まできたファイル三百キロバイト分をウイルスに破壊され、オレ様が自殺に及んだとすれば、『朝日新聞』は一体どう書いてくれるだろう。「電算機ウイルスついに人体に感染/被害のライター錯乱の内に悶絶死」くらいのことは書くかも知れないぜ実際。
こうしてウイルスに冒され『朝日新聞』の記事に絶命寸前まで追い込まれたオレは、かろうじて精神のディップ・スイッチを開き直りモードに切り替え、五月晴れの空のもとで立ち直りのきっかけをつかんだ。
だが、ウイルスに大脳皮質まで冒されたオレには、もう一つ越えるべきハードルが残されていた。『パソコン・マガジン』第一回日米共同セミナーのパネル・ディスカッションの末席に加わることを、発病以前のオレは約束してしまっていたのである。
一九九〇年五月十六日に開かれたこのセミナーは、内容充実し大好評であった(らしい)。このオレもその場に顔を出していたことはいたのだけれど、何がどうしてどうなったのやらウイルス頭のオレはさっぱり覚えていないのである。
パネラーの一人一人に「九〇年代前半に隆盛を見る三つの環境を予測せよ」との課題を与えて進められたパネル・ディスカッションは、議論白熱となった(ようだ)。なにしろ米PC MAGAZINEからの強力スタッフに加えて日本からは、東芝の溝口哲也パソコン・ワークステーション事業部長、日本電気の高山由パーソナルコンピュータ販売推進本部長、古川享マイクロソフト社長、脇英世東京電機大学助教授の豪華メンバーである。
OS/2だWindowsだ、UNIXは流行る流行らん、RISCがああだ、Lan Managerがこうだ。はては任天堂がどうしたこうしたとキーワードが飛び交う中で、オレがウイルス頭を抱えてパネラー席でぼんやり考えていたのは、コンピューターの使いこなしにおける『世界観』だった。
修飾のかかった世界観を共有していると、蛋白質のウイルスの話をしているつもりがコードに化ける。世界観を自分なりに固めていない物事に対して何事か申し上げる立場に追い込まれれば、『朝日新聞』の四十人がかりの巨大ウイルスのような話になってくる。
世界観というやつは一面で考え方の筋道を規定してしまう枠ではあるが、同時に遠くを見通すための光も提供してくれる。こいつにべったりと添い切ってしまうと「何とか主義」でも唱えたくなってそれはそれでまた厄介なことにもなるが、世界観なしでは我々は脳の配線の固まりきらない赤子である。
この世界観を、パーソナルコンピューターの標準環境となったMS―DOSは与えてくれない。ウイルス頭をふりふりそう考えたオレは、本当に流行って欲しい環境としてはWindowsだけを挙げた。
何はともあれ、九〇年代に新たにパーソナルコンピューターと出合う人にとって、Windowsがユーザー・インターフェイスの最低保証となって欲しいと考えたからである。
我が家の同居人である妻アキコは、電気製品を買ってくるとダンボールごと取り扱い説明書を捨ててしまうゴリラの親戚である。ところがマニュアルを読むことに遺伝子レベルで禁則をかけられたこのスカートを履いたゴリラでも、マッキントッシュのアプリケーションは複数種類を日常的に自力でどうやら使いこなしている。
この奇跡を日々直視させられているオレは、マッキントッシュのOSに組み込まれた仕掛けが全ての類人猿の脳味噌にもコンピューターの使いこなしに関する世界観を育てるだろうことを信じて疑わない。
なにやらマークの転がっているところに矢印を持っていってポンと叩くと、なにかが起こる。画面の上に横一列になっている文字を叩くと、短冊が下りてくる。その中から、やらせたいことを見繕ってこいつも叩くとあら不思議。コンピューターがいうことを聞く。
こうしたごく基本的なルールがほんの少しだけ存在し、それがすべてのアプリケーションを支配している。闇夜の提灯にあたるこの基本ルールを学んだ段階で、日本語を喋る我が家のゴリラは、わけのわからないコンピューターをそれでも使いこなしてやろうという意欲を持った。
マッキントッシュのユーザー・インターフェイスの真髄は、アイコンの中にもウインドウの中にも存在しない。
世界観を育てる手掛かりとなる、どんな局面でも揺るがない基本ルールが少しだけ存在すること。
これこそゴリラにコンピューターを使わせる秘訣である。
MS―DOSではユーザーとのやり取りのスタイルをどう作るかは、全てアプリケーションの書き手にまかされている。ここでは使いこなしの手順を個別に覚えることはできても、世界観を育てることは不可能だ。
ウイルスが果たして蛋白質製であるか、はたまたコードであるかといった生易しいレベルではない。MS―DOSの世界ではウイルスを便所の脱臭剤の商品名にしても、フランス料理の名前にしても、源氏名にしても四股名にしてもなんだっていいのである。ここでは、『朝日新聞』のコンピューターに関する世界観がピンボケだなどといったいちゃもんも付けようがない。そもそも世界観という概念が成立しないのだ。
MS―DOSの参考書の類で連中が一儲けできるのも、このおかげである。
初めて出合ったコンピューターがマッキントッシュという幸せ者の妻アキコは、一生MS―DOSマシンに触れることはないだろう。せっかく育てたコンピューター観の全面的崩壊といったドツボにはまることは、まずあるまい。ただし電子メールを送るためにネットワークにアクセスするたびに、我が家のゴリラは軽度の錯乱をきたす。ネットワークは先ずまちがいなく暗号入力型の古くさいルールに従っており、マッキントッシュの世界観とは無縁に組み立てられている。そのためにこの見知らぬ世界に入ったとたん、闇夜を照らす提灯の明かりは消え失せる。ゲシュタルト崩壊に陥ったゴリラとしては、オレの書いてやったメモと首っぴきで、手探りで手順を追わざるを得なくなる。
ウイルス頭のオレはパネル・ディスカッションの席上では「Windowsが成功しなければきっと失敗するだろう」などと訳のわからないことを、アカンアカンと思いながらも口走るのみだった。
だが我と我が舌が暴走するに反比例して薄れ行く意識の中でウイルス男が考えていたのは、九〇年代においてパーソナルコンピューターに出会うだろう膨大な数のユーザーの運命だった。
彼らに最低限保証されるべき権利は、世界観の獲得である。
そのための最低限の仕掛けは、パーソナルコンピューターの主流であるMS―DOSの世界では、これにかさ上げしてマッキントッシュを真似るWindowsが提供する。
ゴリラを夜道に迷わせないためには、Windowsから四方を眺めさせるのが最短距離である。
*この原稿を盗み見て以来、我が家のゴリラはビデオの予約録画に関してさっぱり非協力的となった。実のところオレは、こいつの予約のやり方を知らないのだ。ここ二年間「いい加減にマニュアル読みなさいよ」とうるさがられるたびに嫁の背中に舌を出しつつ、とうとう今日に至っている次第である。もちろんやられっぱなしというわけではない。敵はFAXの使いこなしに暗いから、こっちでなんだかんだ聞かれたときにはせいいっぱい意趣返しして溜飲を下げてるんだけどね。
とまあこうした我が家の緊張関係が示すとおり、マイクロコンピューターを組み込んで賢くなった機器のお相手は、色々やれる分だけやっかいだ。そこでこいつをうまく使いこなせるようにと、各社はそれぞれ工夫を凝らす。ただその工夫というやつは機器ごと、会社ごとにばらばらだ。使いやすさが乱立して、どうぞこちらへの無秩序な客引きである。ビデオの録画もFAXの送信も、おまけに掃除も洗濯も、ソニーのエレクトリック・ライス・クッカーでみんなできるというのなら、ローカルな『使いやすい』ルールもけっこうだ。けれどそんなわけはないだろう。ワープロの使い勝手の良さというやつもまったくもってこの口で、今もタコ壺にこもり続ける人々の意思の堅固さには、ただただ頭が下がる。
おまけにこの先には、賢くなりたがりの横綱である電話の変身が待ち構えている。
じゃあいったいどうするんだ。
まあ理屈としては、真ん中に一台、人とのやりとりをこなすマシンがあって、こいつが家庭の全ての機器をコントロールするなんて話もある。けれどこれは、かなり理想主義的で実現が難しそうだ。じゃあとりあえずマッキントッシュとその真似っこであるWindowsの使いこなしの流儀をコンパクトにまとめて、電脳家電のお面に使うのが早いのではないか。アップルやマイクロソフトの家電への参入に納得するのは、オレがそう考えているからだ。
「電脳家電のインターフェイスがそろって、おまえはそんなにうれしいか」って。
別にうれしかなんかねえよ。
ただオレのストレスを募らせるローカル・ルールの乱立を蹴飛ばせば、ウイルスに首を占められたオレの寿命が半日くらいは伸びやしないかと思っているだけさ。