返回
本の未来
Table of Contents
本の未来
富田倫生
Reading Settings
字体大小
18px
主题
浅色
深色
棕褐色
护眼模式
行距
阅读模式
译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 9 of 80

草の根のメディアとしての謄写版

あなたは、謄写版を体験した世代でしょうか?

「謄写」とは、写し取るという意味。謄写版は、明治から、大正、昭和にかけて日本で広く使われた、手軽な印刷機です。

印刷の手順は、先ず版を作るところから始まります。

版の元となるのは、蝋を和紙の両面に塗った原紙です。

やすりの下敷きの上に原紙を置き、軸の先にとがった針の付いた鉄筆で、文字や絵を削るように書いていきます。力を入れてやすりの目に引っかけながら書くと、原紙の両面の蝋が文字の形に合わせて削り取られます。鉄筆には、先が丸くなったものやヘラ状のものなど、太文字や絵を描くのに工夫されたものもありました。原紙には縦横の罫が刷り込んであり、これに合わせて書けば文字の大きさがそろいます。

鉄筆で原紙に字を書いていくと、やすりに針が引っかかってカッカッ、カッカッと乾いた音を立てます。ガリ版という俗称は、この音から生まれたのでしょう。原紙を手書きで製版していくことを、「ガリを切る」と呼んでいました。

誤字の訂正には、樹脂をアルコールに溶かした修正液を使います。誤字の上に液を塗って乾かせば、上からもう一度書き直すことができました。

ガリ切りと文字の確認、修正が終わると、いよいよ印刷です。原紙を据え付ける謄写版の枠には、保護のために絹のスクリーンがはってありました。この枠を引き下ろしてセットしておいた紙にあて、インクを付けたローラを上から押しつけます。すると鉄筆で蝋がはがされたところからインクが染みだして、紙に文字や絵がうつりました。

一般的には、文字を中心に、せいぜいちょっとしたイラストを入れて一色で刷るのが普通でした。ただし本格的なカラー印刷が普及する前の、大正末期から昭和の初めにかけた一時期には、多色刷りのいわゆる美術謄写がさかんに試みられています。

後には、ボールペンで少し強めに書いていくだけで版の作れる、特殊な原紙も開発されました。このボールペン原紙を使うと文字の切れは鈍りましたが、経験のない人でも気軽にとりかかれることから、広く使われるようになります。

こうして、日本で広く普及した謄写版を発明したのは、堀井新治郎、耕造の父子でした。

一八八三(明治十六)年に堀井家に養子に入った父、新治郎は、内務省の役人として、輸出向けの緑茶の改良など、農産技術の向上に携わっていたと言います。一方幼くして実父を亡くしていた耕造は、長じて三井物産に勤めました。堀井家では代々、家長が新治郎を名乗っており、耕造も後にこの名を継ぐことになります。

謄写版の歴史をたどった『ガリ版文化史』の共著者、志村章子は、堀井親子が生きた「明治期のオフィス革命は、今日よりも激烈」だったと書いています。

事務処理の手順が一新され、江戸以来使われてきた大福帳に代わって、洋式の帳簿にペンで書き込むスタイルが普及しはじめました。複写の必要性が意識されるようになり、特に外国との商取り引きを行うところでは、コピーをとって記録を残すことが強く求められます。

複写への要求は、ヨーロッパやアメリカでは以前から高まっており、これに応えようとさまざまな努力が続けられていました。紙にはさんで筆圧で複写をとるカーボン紙の特許は、すでにイギリスで一八〇六年に成立しています。蝋を塗った原紙をやすりの下敷きの上でこすって製版し、ローラーで刷るという謄写版の柱となる技術も、一八七〇年代からいろいろと工夫が始まっていました。

コピーイング・プレスと名付けられた圧力式の複写道具は、この時期にはすでに日本にも輸入され、官庁や貿易に携わっている会社で使われていました。原理は、実に単純です。まず専用のインクでしたためた文書に、刷毛で水をつけたコピー用紙を重ねます。これをブドウ絞り機に似たプレスにはさみ、ねじを絞って押しつけます。するとおよそ二時間後、インクが染みてコピーがとれるという寸法。なんとも悠長で、おまけに一部しか複写できませんでしたが、広く世界中で使われていたそうです。

欧米の国々がいち早く工業化に乗りだし、植民地を拠点に経済圏を大きく拡大していく中で、文書を効率よく処理する要求はますます強まっていきます。コピーイング・プレスのような頼りがいのないシステムが、とりあえずは需要を満たしていた複写の分野でも、新しい技術の開発が活発に進められました。

文書処理の効率化が求められるこうした流れを、役所や商社で働く中でつかみ取っていたのでしょう。堀井新治郎は一八九三(明治二十六)年一月、職を辞して手軽に使える印刷機の開発に専念し始めました。

『ガリ版文化史』のもう一人の著者、田村紀雄によれば、「堀井父子は、伝統的な染物法の一つ捺染法と型紙にヒントを得て、雁皮紙に蝋を塗布し、台板(ヤスリの原型)に鉄棒で孔をあけるという方法を考案した」と言います。

ただ同書自体が明らかにしている、同じ技術が欧米で先に開発されていた経緯や、〈考案〉に至るまでの堀井の振る舞いからも、彼らは謄写版の基本構想を外国の先人から借りたと思われます。

同年の三月、堀井新治郎は印刷機事情を学ぶためにアメリカに旅立ちました。五月一日からシカゴで開かれる万国博覧会を目指しての旅程でしたが、新治郎は彼の地で、簡易印刷機を巡る事情をつぶさに調べて回ります。ミメオグラフとして販売されていた印刷機を開発したトーマス・エジソンに会えたことは、新治郎にとって生涯、忘れがたい思い出となりました。

Chapter 9 of 80
|