返回
南国太平記
Table of Contents
南国太平記
直木三十五
Reading Settings
字体大小
18px
主题
浅色
深色
棕褐色
护眼模式
行距
阅读模式
译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 37

手首に怨む

「噂をすれば、影とやら――」

一人が、こういって、隣りの男の耳を引っ張った。

「何をしやがる」

「通るぜ、師匠が」

お由羅の生家、江戸の三田、四国町、大工藤左衛門の家の表の仕事場であった。広い板畳の上で、五六人の若い男が、無駄話をしていた。

「師匠」

常磐津富士春は、湯道具を抱えて、通りながら、声と一緒に、笑顔を向けて

「おやっ――」

立止まって

「お帰んなさいまし」

と、小藤次に挨拶をした。小藤次とはお由羅の兄で、妹が、斉興の妾となって、久光を生んでから、さらに取立てられて、岡田小藤次利武と、名乗っているのであった。

小藤次は、袴も、脇差も、奥へ捨てたまま、昔のように、大あぐらで

「入ったら――」

「おめかしをして」

富士春は、媚をなげて、素足の匂を残して行った。

「いい女だのう。第一に、鼻筋が蛙みたいに背中から通ってらあ」

「兄貴を、じっと見た眼はどうだ、おめかしをして――」

「おうおう、誰の仮声だ」

「師匠のよう」

「笑わせやがらあ、そんなのは、糞色といってな――」

「鳴く声、鵺に似たりけりって奴だ」

「俺、あの口元が好きだ。きりりと締まってよ」

「その代り、裾の方が開けっ放しだ。しかもよ、御倹約令の出るまでは、お前、内股まで白粉を塗ってさ」

「御倹約令といやあ、今に、清元常磐津習うべからずってことになるてえぜ」

「そうなりゃ、しめたものだぜ。師匠上ったりで、いよいよ裾をひろげらあ」

と、いった時、泥溝板に音がして、一人の若い衆が、下駄を飛ばした、片足をあげて、ちんちんもがもがしながら、大きい声で

「とっ、とっと――猫、転んで、にゃんと鳴く。師匠が転べば、金になる――」

板の間で、それを見た一人が

「庄公、来やあがった」

と、呟いた。庄吉は、入ろうとして、小藤次に気がつくと

「お帰んなさいまし」

と、丁寧に、上り口へ手をついた。

「上れ」

「今、酒買うところだ」

「丁度、師匠の帰りに、酌ってことになるかの」

小藤次が

「庄、どうだ、景気は?」

「へへっ、頭は木櫛ばかり、懐中は、びた銭、御倹約令で、掏摸は、上ったりでさあ」

「押込なんぞしたら?」

「押込?――押込は、若旦那、泥棒でさあ。品の悪い。掏摸は職人だけど――」

「はははは、そうか――庄吉、いい腕だそうなが、武士のものを掏ったことがあるか」

「御武家衆にゃあ、金目のものが少くってねえ」

「何うだ、一両、はずむが、鮮やかなところを見せてくれんか?」

小藤次が、こういって、往来を見た時、一人の若侍が、本を読みながら、通りすぎようとしていた。

「あいつの印籠は?」

「朝飯前、一両ただ貰いですかな」

庄吉は、微笑して腰を上げた。

出て行こうとする庄吉へ、一人が

「へまやると、これだぞ」

と、首頸を叩いた。庄吉が、振向いて、自分の腕を叩いた。

若い侍は、仙波八郎太の倅、小太郎で、読んでいる書物は、斉彬から借りた、小関三英訳の「那波烈翁伝」であった。

父の八郎太が、裁許掛見習として、斉彬の近くへ出るのと、斉彬の若者好きとからで、小太郎は無役の、御目見得以下ではあったが、時々、斉彬に、拝謁することができた。

斉彬は、時々、そうした若者を集めては、天下の形勢、万国の事情を説いて、新知識の本を貸し与えた。「那波烈翁伝」は、こうした一冊であった。

近頃、流行りかけてきた長い目の刀を差して、木綿の紺袴に、絣を着た小太郎を見て、庄吉は

(掏り栄えのしない)

と、思った。庄吉の狙った印籠は、小太郎の腰に、軽く揺れていたが、黒塗で、蒔絵一つさえない安物であった。

(仲間の奴が見たなら、笑うだろう)

と、そうした安物を掏る自分へ、嘲ってみた。

(然し、一両になりゃあ――)

庄吉の冴えた腕は、掏ろうとする品物を生物にした。庄吉が、腕を延すと、その品物の方から、庄吉の掌の中へ、飛び込んで来るのが、常であった。そして、今の仕事は鋭利な鋏を、右手の掌の中へ隠して、紐を指先で切ると同時に、掌へ、印籠を落す、という、掏摸の第一課の仕事であった。

庄吉は、ぐんぐん近づいて行って、鋏を指の間へ入れた。三尺、二尺――近づいて、鋏を動かすと――ほんの紙一重の差であろう、鋏は、空を挟んで――庄吉は

(侮っちゃあいけねえ)

と、感じた。そして、次の瞬間、も一度、鋏を突き出して、指を動かすと、紐は、指先へ微かに感じるくらいの、もろさで、切れて、印籠は、嬉しそうに、庄吉の掌の中へ落ち込んだ。庄吉は、満足した。

だが、それは、ほんの瞬間だけのことであった。庄吉の身体が侍から、一尺と離れぬ内に、侍が振向いた、険しい眼が、庄吉の眼と正面から衝突した。侍が、立止まった。

庄吉は、それでも、腕に自信があった。掏ったとわかって、振返ったのではなく、自分が余り、近づきすぎたのを怪しんで、振返ったのだと思った。

だが、それも、ほんの瞬間だけにすぎなかった。庄吉の、引こうとした手が、侍の手で、しっかり握りしめられてしまった。

(ちえっ)

と、心の中で、舌打ちをして、生若い侍から侮辱されたように感じて、憤りが湧いてきた。

(小僧のくせに、味な真似を――)

と、思った。そして、手を握られたまま、小太郎の眼と、じっと、睨み合っていた。振切って、横っ面を、一つなぐって、逃げてやろう、と思った。だが、右手を、十分に取られていて、勝手が悪かったので

「済みません」

と、油断させておいて――とも、思ったが、こんな小僧に、詫るのも癪であった。

「何うするんでえ」

庄吉は、睨みつけた。小太郎は、微笑した。そして、左手の書物を、静かに、懐へ入れて

「さあ、何う致そうかの」

と、答えた。

庄吉も、微笑した。

「江戸は物騒だから、気をつけな」

「不埓者っ」

小太郎の顔に、さっと、血が動いた。

「何っ?」

力任せに引く手首を、ぐっと、内へ折り曲げると共に、庄吉の手首から、頭の中まで、血の管、筋骨を、一時に引きちぎるような痛みが、走った。

(手首が折れる)

と、感じ

(商売が、できなくなる)

と、頭へ閃いた刹那、庄吉は、若僧の小太郎に、恐ろしさを覚え、怯じけ心を感じたが、その瞬間――ぽんと、鈍い、低い音がして、庄吉の顔が、灰土色に変じた。眉が、脣が、歪んだ。

往来の人が、立止まって、二人を眺めていた。庄吉は、自分の住居に近いだけに、自分の仕事を人に見られたくなかったし、弱味を示したくもなかった。

しびれるように痛む手に、左手を添えて、懐へ、素早く入れた。そして、一足退って

「折ったなっ」

「江戸は物騒だ。気をつけい」

小太郎が、嘲笑して

「印籠は、くれてやる」

庄吉は、口惜しさに逆上した。左手を、小太郎の頬へ叩きつけようとした時、何かが、胸へ当ってよろめいた。踏み止まろうと、手を振って、足へ力を入れた刹那、足へ、大きい、強い力が、ぶっつかって――青空が、広々と見えると、背中を、大地へぶちつけていた。手首の痛みが、全身へ響いて、庄吉は、歯をくいしばって、暫く、動こうにも、動けなかった。

(取乱しちゃ、笑われる)

ちらちらと、富士春の顔が、閃いた。

「野郎っ――殺せっ」

そうとでも、怒鳴るより外に、仕方がなかった。足で、思いきり蹴った。起き上ろうとすると、手首が刺すように痛んだ。

「殺せっ」

庄吉は、首を振った。小太郎の後姿が、三四間先に見えた。

「待てっ」

左手をついて、起き上ろうとして、尻餅をついたが、すぐ、飛び起きて

「やいっ」

走り出した。背中も、髻も、土埃にまみれて、顔色が蒼白に変り、脣が紫色で、眼が凄く、血走っていた。小太郎が、振向いて

「用か」

庄吉は、小太郎の三四尺前で、睨みつけたまま、立止まった。

「元の通りにしろっ。手前なんぞに、なめられて、このまま引込めるけえ。元通りにするか、殺すか、このままじゃあ、動かさねえんだ――おいっ、折るなら、首根っ子の骨を折ってくれ」

庄吉は、じりじり近づいた。手首がやけつくように、痛んだ。

(早く手当すりゃ、癒らぬこともあるまい)

と、思ったりしたが、意地として、後へ引けなかった。印籠一つと、かけ代えに、商売道具を台なしにされたと思うと、怨みと、怒りとで、いっぱいになってきた。

「返事をしろ、返事をっ」

小太郎は、黙って、歩き出した。かっとなった庄吉は

「うぬっ」

小太郎の髻を、左手で、引っ掴もうと、躍りかかった刹那、小太郎の体が沈んだ。延びた左手を引かれて腰を蹴られると、たたっとのめり出ると、膝をついてしまった。

「大変だ――若旦那」

表に立って、庄吉の仕事振りを見ようとしていた若い者が、叫んだ。

「何うした?」

「やり損って――あっ、突き倒されたっ」

二三人が、跣足のまま、土間へ飛び降りて、往来へ出た。往来の人が、皆、庄吉の方を眺めていた。

「喧嘩だっ」

「やられやがった」

口々に叫ぶと、走り出した。残っていた若者と一緒に、小藤次が、往来へ出ると、庄吉が、起き上ろうとしているところであった。侍は、早足に、歩いて行っていた。

「生なっ」

小藤次が、呟いて、走りかけた。一人が後方から

「刀っ」

小藤次が、振向いて

「早く、持って来いっ」

と、手を出した。二人が、泥足のまま、奥へ走り込んだ。若い者は、鋸、鑿、棒を持って、走り出した。近所の若い者が、それについて、同じように走った。

小藤次は、受取った刀を差しながら、その後方から走り出した。

「喧嘩だ」

「喧嘩だっ」

叫び声が、往来で、軒下で、家の中でした。犬が吠えて走った。子供が走った。

庄吉は、手首の痛みに、言葉も、脚も出なかった。立上って、小太郎の後姿を、ぼんやり眺めていると

「庄吉っ」

若い者が、前後からのぞき込んで

「何うした?」

「掏った」

低い声で、答えて、懐中から、印籠を出した。小藤次らが、追いついて来て

「庄吉、何うした」

「えれえ事をやりゃあがった。痛えっ」

庄吉は、左手の印籠を、一人に渡して、左手を添えて、袖口から折れた右手を、そろそろと出した。手首の色が変って、だらりと、手が下っていた。

「折りゃあがったんだ」

「折った?」

一人が叫んで

「畜生っ」

その男は、鋸を持って走り出した。

「掏摸が、右手を折られりゃ、河童の皿を破られたんと、おんなじことさ」

小藤次は、自分の言葉から、一人の名人を台なしにしたことに、責任を感じた。

「待ってろ、庄吉」

小藤次が、行きかけると、若い者が、走り出した。

「逸まっちゃならねえ」

小藤次は、その後方へ、注意して、自分も走り出した。

小太郎は、小半町余り、行っていたが、走り寄る足音に、振向くと、一人の男が、鋸を構えて

「待てっ、おいっ」

その後方からも、得物をもった若い者が、走って来ていた。小太郎は、眼を険しくすると、一軒の家の軒下へ、たたっと、走り込んで、身構えした。

「あいつ――何んとか――」

走りながら、小藤次が呟いて

「俺んとこの、家中の奴だ。何とかいった――軽輩だ」

と、自分の横に走っている若者へいった。

「御存じの奴ですかい」

そう答えながら若い者は、小太郎の前で、走りとまった。

「小藤次氏」

岡田小藤次は、仙波小太郎の顔に見覚えのあるほか、姓も、身分も知らなかったが、小太郎は、お由羅の兄として、家中の、お笑い草として、大工上りの小藤次利武を、十分に知っていた。

小藤次は、そういって微笑している小太郎の顔を睨みつけながら、走って来た息切れと、怒りとで、言葉が出なかった。ただ、心の中では

(何を、吐かしゃあがる)

と、叫んでいた。小藤次にとって、士分になったのは、勿論、得意ではあったが、岡田利武という鹿爪らしさは、自分でも可笑しかった。そして、自分では、可笑しかったが、人から

「利武殿」

とか

「小藤次氏」

とか、呼ばれるのには、腹が立った。軽蔑され、冷笑されているように聞えて、上役の人々からそう呼ばれるのはとにかく、軽輩から

「小藤次殿」

などと、呼ばれると

「面白くねえ、岡田と呼んでくんねえ」

と、わざと、職人言葉になった。

若い者が、じりじり得物を持って、威嚇しにかかるのを、手で止めて

「手前、誰だ」

と、小藤次は、十分の落ちつきを見せていった。

「仙波小太郎」

「役は?」

「無役」

「無役?」

往来の人々が、職人の後方へ、群がってきた。小藤次は、近所の人々の手前、この小生意気な若侍を、何んとか、うまく懲さなくてはならぬように思った。

齢は、小藤次より、二つ三つ下であろうが、身の丈は、三四寸も、高かった。蒼ざめた顔に、笑を浮べて、鯉口を切ったまま、小藤次の眼を、じっと、凝視めていたが

「御用か」

「用だから、来たんだ。手前、さっきの人間の手を折ったな」

「如何にも――」

「如何にもって、一体、何うするんだ。人間にゃ、出来心って奴があるんだ。出来心って――つい、ふらふらっと、出来心だ。なあ。それに、手を折って済むけえ。納得の行くように、始末をつけてくれ、始末を――始末をつけなけりゃ、俺から、大殿様へ御願えしても、相当のことはするつもりだ。人間の出来心ってのは、こんな日和には、ふらふらと起るものだ。それに、手を折るなんて――」

「ふらふらっと、出来心じゃ」

小藤次の顔が、さっと赤くなると

「何っ」

と、叫んだ。職人が、じりっと、一足進み出た。

「出来心だ?――出来心で、人様の手を折って――じゃあ、手前、出来心で、殺されても文句は無えな。馬鹿にするねえ、この野郎、人の手を折っときゃあがって、出来心だ? 出来心が聞いて呆れらあ」

「親方、やっつけてしまいなせえ。野郎の手を折りゃ、元々だ」

職人が、喚いて、得物を動かした。

「猫、鳶に、河童の屁」

と、通りがかりの男が大きい声をして、人々の後方から覗き込んだ。

「除きな」

と、人々の肩を押分けて、前へ出て来た。人々が、振向いて、男を見て、笑った。

「よう、先生っ」

と、見物の一人が叫んだ。

「南玉、しっかり」

「頼むぜっ」

南玉は、麻の十徳を着て、扇を右手に握って

「今日は、若旦那」

と、小藤次に、挨拶をした。小藤次は、振向いて、南玉の顔を見ると、一寸うなずいただけで、すぐに、小太郎を睨みつけた。

「今日は」

小太郎は

「やあ」

と、答えた。桃牛舎南玉という講釈師で、町内の馴染男であった。小太郎の隣長屋にいる益満休之助のところへよく出入しているので、知っていた。

「喧嘩ですかい、ええ?」

南玉が、こう聞いたのに返事もしないで、小藤次が

「おいっ、何うする気だ」

群集が、どよめいて、南玉の立っている後方の人々の中から、庄吉が、土色の顔をしてのめるように出て来た。職人が、振向いて、庄吉の顔から、左手に光っている短刀へ、ちらっと、目を閃かして

「若旦那っ、庄吉が――」

庄吉は、職人の止めようと出した手を、身体で掻き分けて

「さあ、殺すか、殺されるか、小僧っ」

南玉が、両手を突き出して

「いけねえ」

と、叫んだ。

「庄っ、待てっ」

小藤次が、周章てて、庄吉の肩を押えた。

「待て、庄公」

同じように、職人が、肩をもった。

「手前なんぞの、青っ臭えのに、骨を折られて、このまま引っ込んじゃ、仲間へ面出しができねえや――若旦那、止めちゃあいけねえ。後生だから――」

庄吉は、乱れた髪、土のついた着物をもがいて、職人の押えている手の中から、小太郎へ飛びかかろうとした。

「無理もない。大工が、手を折られちゃ、俺が舌を抜かれたようなもんだからのう――小旦那、どうして又、手なんぞ、折りなすったのですい」

南玉が、聞いた。小太郎は、微笑しただけであった。

「放せったら、こいつ」

と、庄吉が叫んで、一人の職人へ、泣顔になりながら、怒鳴った。

「だって、お前、お役人でも来たら」

「来たっていいよ。放せったら――」

庄吉は、口惜しさと、小太郎の冷静さに対する怒りから、涙を滲ませるまでに、興奮して来た。二人の職人が、短刀を持っている手を、腕を、押えていた。

「放せっ――放してくれ、後生だっ」

庄吉は、泣声で叫んだ。

「話は、俺がつける。庄吉」

小藤次は、こういって、職人に、眼で、庄吉をつれて行け、と指図した。

「庄公、落ちついて――取乱しちゃ――」

「取乱す?――べらぼうめ――放せったら、こいつ、放さねえか」

庄吉は、肩を烈しく揺すって、一人を蹴った。

「とにかく、ここで、話はできねえ、俺んとこまで、一緒に来てくれ」

小藤次が、こういった時、群集の後方から、大きい声で

「仙波っ、何をしている。寛之助様、お亡くなりになったぞ」

と、口早に叫んだものがあった。

小太郎も、小藤次も、その声の方へ、眼をやった。群集の肩を、押除けているのは、益満であった。

小太郎は、益満の顔を、じっと見ながら、庄吉を無理矢理に押して行く職人の、後方を、益満へ足早に近づいて

「何時?」

と、叫んだ。それが、事実であったなら、父母は、離別しなければならないのであった。

「今し方」

「誰から聞いたか?」

二人は、群集の、二人を見る顔の真中で、じっと、お互に、胸の中の判る眼を、見合せた。

「名越殿から――すぐ戻れっ。下らぬ人足を対手にしておる時でない」

益満は、小藤次の顔を睨みつけた。小藤次は、乱暴者としての益満と、才人としての益満とを、見もしたし、聞いてもいた。それよりも、今の、寛之助が死んだ、という言葉が、小藤次の心を喜ばした。

(妹が、喜ぶだろう)

と、思うと同時に、もし、妹の子の久光が島津の当主になったなら、俺は、益満も、この小僧も、ぐうの音も出ないような身分になれるんだ、と考えた。そして、そう考えると、益満が

「下らぬ人足」

と、いったのも、小太郎の振舞も、大して腹が立たなくなってきた。だが、二人が、群集の中を分けて行こうとするのへ

「何うするんだ」

と、浴せかけた。益満が、仙波に、何か囁いた。仙波が、庄吉の方を顎で指して、何か云った。

「利武っ」

と、益満が怒鳴った。

「大工の守利武なんぞに懸け合われる筋もないことだ。申し分があれば、月番まで申して出い。掏摸の後押しをしたり、お妾の尻押しをしたり――それとも果し合うならな、束になってかかって参れ、材木を削るよりも、手答えがあるぞ」

益満の毒舌は、小藤次の啖呵よりも、上手であった。小藤次は士言葉で、巧妙な啖呵を切る益満に、驚嘆した。

(おれなんぞ、職人言葉なら、相当、べらべら喋るが、御座り奉る言葉じゃあ、用件も、満足に足せねえのに、掏摸の後押し、妾の尻押し、なんぞ――うまいことをいやあがる)

と、思った。途端に

「ようよう」

と、南玉が、叫んで、手をたたいた。

「何っ――もう一度、吠えてみろ」

小藤次が、睨んだので、南玉は

「いえ――」

周章てて、益満の方へ、走り寄った。益満は、もう群集の外へ出て、群集に、見送られながら、小太郎と、足早に歩きかけていた。

「あら、何奴で」

と、職人が、小藤次に聞いた。

「あれが――益満って野郎だ。芋侍の中でも、名代のあばれ者で、二十人力って――」

「若い方も、強そうじゃ、ござんせんか」

「あいつか」

二人が、湯屋の前を通り過ぎようとすると、暖簾の中から、鮮かな女が、出て来て

「おや、休さん」

「富士春か」

「寄らんせんか」

富士春は、鬢を上げて、襟白粉だけであった。小太郎は、ちらっと見たまま、先へ歩いて行った。益満は、小太郎を追いながら

「急用があって」

と、答えた。

「晩方に、是非――」

と、富士春が、低く叫んで、流し目に益満を見た。

小太郎は、自分の歩いていることも、益満のいることも、南玉が、ついて来ることも、忘れていた。

(父は、きっと、家中への手前として、自分の面目として、寛之助様が亡くなったとしたなら、母を離別するだろう。医者の手落であっても、御寿命であっても、又、噂の如く調伏であったにしても――そして、離別されて、母は、一体、どうするだろう?――母に何んの罪もないのに、ただ、家中へ自分の申し訳を立てるだけで、妻と別れ、子と引放し、一家中を悲嘆の中へ突き落して――それが、武士の道だろうか)

南玉は、二人の背後から、流行唄の

君は、高根の白雲か

浮気心の、ちりぢりに

流れ行く手は、北南

昨日は東、今日は西

と、唄っていた。益満が

「小太」

小太郎が、振向くと、益満は、微笑して

「又とない機が来た」

小太郎は、父母のことで、いっぱいだった。

「関ヶ原以来八十石が、未だ八十石だ。それもよい。我慢のならぬのは、家柄、門閥――薄のろであろうと、頓馬であろうと、家柄がよく、門閥でさえあれば、吾々微禄者はその前で、土下座、頓首せにゃあならぬ。郷士の、紙漉武士の、土百姓のと、卑まれておるが、器量の点でなら、家中、誰が吾々若者に歯が立つ。わしは、必ずしも、栄達を望まんが、そういう輩に十分の器量を見せてやりたい。器量を振ってみたい。それにはいい機だ。又とない機だ。この調伏――陰謀が、何の程度か判らぬが、小さければ、わしは、わしの手で大きくしてもよいと思うし、真実でなければ、わしが、真実にしてもよいとさえ思うている。小太」

益満は、小太郎の顔を見た。

「うむ」

「何を考えている」

「わしは――」

小太郎は、益満の眼を見ながら

「父は、例の気質じゃで、今度の、お守りのことで、母を離別するにきまっている」

「或いは――然らん」

益満が、うなずいた。

「大分、こみ入ってますな」

南玉が、後方から、声をかけて

「智慧がお入りなれば、上は天文二十八宿より、下は色事四十八手にいたるまで、いとも、丁寧親切に御指南を――」

「うるさいっ。貴様、先へ行って待っていろ」

益満が、振返って叱った。

「承知」

南玉が、手を上げて、小太郎へ挨拶して、足早に、行ってしまった。

「わしに、一策がある。母上が、戻られたなら、知らせてくれ」

「一策とは?」

益満は、声を低くして、小太郎に、何か囁いた。小太郎は、幾度もうなずいた。

「これが外れても、未だ他の手段がある。所詮は、八郎太が一手柄立てさえすればよいのではないか――こういう機――一手柄や、二手柄――」

益満は、怒っているような口調であった。三田屋敷の門が見えた。

八郎太は、自分の丹精した庭の牡丹を眺めながら、腕組をしていた。

「只今」

と、小太郎がいっても、振向きもしなかった。それは、もう、寛之助の死を知り、心ならずも、妻を離別しなくてはならぬ人の悲しい態度であった。

母としての七瀬は、三人の子にとって、父八郎太よりも、親しみが多かった。そして、英姫の侍女としての七瀬は、その儕輩よりも群を抜いていた。八郎太の妻としては、或いは過ぎたくらいの賢夫人であった。それだけに、今度のことの責任は重かった。それだけに、八郎太としては、容赦の無い処分を妻に加えて、自分の正しさを家中へ、示さなくてはならなかった。

「寛之助様のことは――」

「聞いた」

八郎太は、なお、牡丹を見たままであった。

「母上のことにつきまして――」

「お前は、文武にいそしんでおればよい」

父は振向いた。

「髪が乱れて――何かしたの?」

「掏摸を懲らしてやりました」

「下らぬ真似をするのでない」

八郎太は、これだけいうと、又庭の方へじっと眼をやった。小太郎には、父の苦しさ、悲しさが、十分にわかっていた。そして、母の苦しさ、悲しさもわかっていた。

(益満のいった手段を――)

と、思った時、玄関で

「お母様」

と、姉娘綱手の声――すぐ、つづいて妹深雪の、笑い声がした。八郎太は、眉一つ動かさなかった。小太郎は、すぐ起るにちがいのない、夫婦、母子の生別の場面を想像して、心臓を、しめつけられるように痛ませた。

小手を、かざして

御陣原見れば

武蔵鐙に、白手綱

鳥毛の御槍に、黒纏

指物、素槍で、春霞

益満の家から、益満の声で、益満の三味線で、朗らかな唄が聞えて来た。

お馬揃えに、花吹雪

桜にとめたか、繋ぎ馬

別れまいとの、印かや

ええ、それ

流れ螺には、押太鼓

陣鐘たたいて、鬨の声

さっても、殿御の武者振は

黄金の鍬形、白銀小実――

八郎太も、小太郎も、黙って、その唄を聞いていた。何をいっていいか、何を考えていいか、わからなかった。罪もなく、尽すべきことを尽して、そして、離別されに戻って来た妻の顔、母の顔が、今すぐに見えるのかと思うと、いらいらした怒りに似たものと、取りとめのない悲しいものとが、胸いっぱいになってきた。

つつましい足音が聞えてきた。襖が開いた。小太郎は、母だと思ったが、顔を見るのさえ辛かった。振向いて、眼を外らしながら

「お帰りなされませ」

と、いった。

「只今――」

そういった七瀬の声は、小太郎が考えていたよりも、晴々としていた。小太郎は、うれしかった。

(医者が、侍臣が十分に、手を尽しても、助からぬのだから、何も、妻の手落ちばかりというのではないが――重役の方々のお眼鏡に叶って、御乳母役に取立てられたのに、その若君がおなくなり遊ばされた以上は、のめのめ夫婦揃って、勤めに上ることもできん。妻の不行届を御重役に詫び、わしの心事を明らかにするためには、とにかく当分の離縁の外に方法がない。そのうちに、誰かが、仲へ入ってくれるであろうが――)

八郎太は、その面目上から、立場から、妻の責任を、こうして負うより外になかった。振返って七瀬を見ると、七瀬は眼を赤くして、げっそりとやつれていた。眼の色も、干いて、悪くなっていた。

八郎太は、慰めてやりたかった。可哀そうだ、とも思った。こいつの性質として、十分に努力はしただろうと思った。だが、もし、寛之助様の病がよくなったのだとしたら、自分は、どんなに肩身が広く、出世ができるか? と思うと、何んだか、七瀬の背負っている運が、曲っているようで、不快でもあった。

七瀬は、部屋の中へ入って、後ろ手に襖を閉めた。そして

「お詫びの申し上げようもござりません」

両手をついて、頭を下げた。

「仕方がない」

八郎太は、低く、短く、こういったきりであった。

「ただ一つ、不思議な事がござりまして、それを申し上げたく、取急いで、戻って参りました」

小太郎は、ほっとした。何か、母が、証拠でも握ってくれたのであろう。それならば、それを手柄にして、円満に行けば――と、母の顔を見た。

「どういう?」

「一昨日の夜のことでございます。夢でもなく、うつつでもなく、凄い幻を見ましたが、これが、若君を脅かすらしく、幻が出ますと、急に――」

八郎太の眼が、険しく、七瀬へ光った。

「たわけっ」

八郎太は、睨みつけた。

「何を申す、世迷言を――」

その声の下から

「御尤もでござります。お叱りは承知致しております。人様にも、誰にもいえぬ、奇怪な事がござりますゆえ、未だ、一言も申しませぬが、貴下へ、せめて――」

「たわけたことを申すなっ」

八郎太は、七瀬が夢のような事をいい出したので、怒りに顫えてきた。常は、こんなではないのに、余り大事の役目で、少しどうかしたのではないか、と思った。

「然し、父上――母様、もう少し詳しく、腑に落ちるようにお話しなされては」

と、小太郎が取りなした。

「黙れ、そちの知ったことではない」

「然し」

「黙らぬか」

「はい」

小太郎は立上った。益満を呼ぶより外にないと思った。そして、玄関の次の間に行って、妹の深雪に

「すぐ益満を呼んで――母が戻って来たからと」

深雪の背を突くようにして、せき立てた。

「――形を、見極めもしませずに、話のできることではござりませぬが、確かに、この眼で見たにちがいござりませぬ。急に、御部屋の中が暗くなりまして――齢の頃なら四十余り、その面影が、牧仲太郎様に、似ておりましたが――」

「牧殿は三十七八じゃ」

綱手が、小太郎の後方から入って来た。そして、いっぱいに涙をためた眼で、八郎太を見ながら、両手をついた。

「お父様」

八郎太は、綱手に、見向きもしないで

「七瀬、予て、申しつけておいた通り、勤め方の後始末を取急いで片付け、すぐ、国へ戻れ。許しのあるまで、二度と、この敷居を跨ぐな」

「はい」

「お父様」

綱手は、泣声になった

「お母様に――お母様に――」

「お前の知ったことでない、あちらへ行っておいで」

「いいえ、妾は――」

「それから、手廻りの品々は、船便で届けてやる。早々に退散して、人目にかからぬように致せ」

罪のない妻を、こうして冷酷に扱うということが、武士の意地だと、八郎太には思えた。この恩愛の別離の悲嘆を、こらえることが、武士らしい態度だと、信じていた。

又、妻をこう処分して、武士らしい節義を見せるほか、この泰平の折に、忠義らしい士の態度を示すことは、外になかった。こうすることだけが、唯一の忠義らしいことであった。

ざんば岬を

後にみて

袖をつらねて諸人の

泣いて別るる旅衣

益満が、大きい声で、唄いながら、庭の生垣のところから、覗き込んだ。

「お帰りなさい」

七瀬に、挨拶して、生垣を、押し分けて入って来た。そして、綱手の顔を見ると

「何を叱られた?」

綱手は、袖の中へ、顔を入れた。

「若君、お亡くなりになったと申しますが、小父上――前々よりの御三人の御病症と申し、ただ事ではござりますまい」

「或いは――」

「七瀬殿を幸い、そのまま、奥の機密を、探っては?」

「七瀬は――離別じゃ」

益満は、腕組をして、脣を尖らせた。

「離別」

「止むを得まい。仙波の家の面目として」

「面目が立てば?」

「立てば?」

「某に、今夜一晩、この話を、おあずけ下さらんか。小太郎と談合の上にて、聊か考えていることがござる」

「何ういう?」

「それは――のう、小太。云わぬが、花で。小父上、若い者にお任せ下されませぬか」

八郎太は、益満の才と、腕とを知っていた。

齢を超越して、尊敬している益満であった。

「益満様」

七瀬が、一膝すすんで

「只今も、叱られましたところで――怪力乱神を語らずと申しますが、不思議な事が、御病室でござりました」

小太郎も、益満も、七瀬の顔を、じっと眺めた。

「五臓の疲れじゃ。埓もない」

八郎太は呟いた。

「何うした事が?」

「幻のような人影が、和子様へ飛びかかろうとして、それが現れると、和子様はお泣き立てになりましたが、それが、どうも、牧様に――ただ齢が、五つ、六つもふけて見えましたが――」

益満は、うなずいた。小太郎は、益満の眼を凝視していた。その小太郎の眼へ、益満は

(そうだろうがな)

と、語った。

「聞き及びますと――」

益満は、膝の上に両手を張って、肩を怒らせながら、八郎太から七瀬を見廻して

「当家秘伝の調伏法にて、人命を縮める節は、その行者、修法者は一人につき、二年ずつ己の命をちぢめると、聞いております。その幻が、牧仲太郎殿に似て、四十ぐらいとあれば――牧殿は――」

益満が指を繰った。八郎太が

「牧殿は、七八であろう」

益満は、腕を組んで俯向いていたが

「牧殿は、お由羅風情の女に、動かされる仁ではござるまい――小父上」

「うむ」

「さすれば――」

そういって、益満は、黙ってしまった。一座の人も俯向いたり、膝を見たりして、黙っていた。

「斉興公が」

小太郎が、当主の名を口へ出すと共に、八郎太が

「小太っ」

と、睨みつけて、叱った。益満は、うなずいた。

「濫りに、口にすべき御名ではない。慎め」

「はい」

「次に、調所笑左衛門――これが、右の腕でござろう。そして、牧は、調笑に惚れ込んで、己の倅を大阪の邸にあずけておるが、国許は知らず、江戸の重役、その他、重な人々は、恐らく、斉彬公を喜んではおりますまい――のう、小父上」

「そう」

「悉く、斉彬公のなさる事へ反対らしい。第一に、軽輩を御引立てになるのが、気に入らぬ。この間も、御目通りをして、『三兵答古知幾』を拝借して退って来ると、御座敷番の貴島太郎兵衛が、何を持っているか――突きつけてやると、又、重豪公の二の舞を、何故、貴公達諫めんかと、こうじゃ」

「斉彬公を外国方にしようとする幕府の方針を、彼奴らは、木曾川治水で、金を費わされたのと同じに見ている、調所さえ、そうじゃものなあ」

小太郎は、顔を、心もち赤くして、静かにいった。

「とうとうとうと、御陣原へ出まして、小手をかざして眺めますと、いやあ――押しも寄せたり、寄せも、押したり、よせと云っても、押してくる武蔵鐙に、白手綱、その勢、凡そ二百万騎、百万騎なら一繰りだが、槍繰りしても、八十石、益満休之助の貧棒だ。こう太くなっては、振り廻せぬ――」

一人ぼっちになった南玉は、薄暗くなってくる部屋の中で、大声で、怒鳴り立てていた。綱手が

「南玉さん?」

と、益満を見て、微笑むと、深雪は、袖を口へ当てて、笑いこけた。

「はははは、この盆が越せるやら、越せぬやら」

益満は、笑って

「時に、七瀬殿、某と、小太との計が、うまく行く、行かぬにせよ、大阪表へ行って、調所を探る気はござりませぬか」

「さあ、話に――よっては――」

七瀬は、八郎太の顔を見た。八郎太は、黙って、庭の方を眺めていた。廊下へ、灯影がさして、女中が、燭台を持って来た。深雪が振袖を翻して、取りに立った。

「のう、綱手殿」

「ええ?」

綱手は、周章てて、少し、耳朶を赤くしながら、ちらっと、益満を見て、すぐに眼を伏せた。

「母上と同行して、大役を一つ買われぬかのう」

「大役? どういう?」

「操を捨てる――」

益満は、強い口調で云った。綱手は、真赤になった。七瀬が

「それは?」

「場合によって、調所の妾ともなる。又、時によって、牧の倅とも通じる」

「益満――」

と、八郎太が、眉を歪めた。益満は、平気であった。

「夫の為に、捨てるものなら、家の為に捨てても宜しい。操などと、たわいもない、七十になって、未通女だと申したなら、よく守って来たと称められるより、小野の小町だと、嗤われよう。棄つべき時に棄つ、操を破って、操を保つ――」

「然し、益満さま、あんまりな――」

七瀬が、やさしく云った。

「いいや、女が、男を対手に戦って勝つに、その外の何がござる。某なら、そういう女子こそ、好んで嫁に欲しい」

「はははは、益満らしいことを申す。それも一理」

八郎太が、微笑して頷いた。綱手も、深雪も、俯向いていた。

「そろそろ暗うなってきた。小太、小者にならぬと、咎められると思うが、その用意をして、例の――師匠のところへ来ぬか」

「心得た」

益満が、立上った。

「猫、鳶に、河童の屁とは行かない蚊だ――益満さん、油はござんせんか。あっしゃ、夜になると、眼が見えない病でねえ」

南玉が、廊下へ立って叫んでいるらしかった。

「今、戻る」

益満は、庭へ出た。

「闇だの、小太」

と、振向いて、すぐ、歩いて行った。

Chapter 2 of 37
|