返回
南国太平記
Table of Contents
南国太平記
直木三十五
Reading Settings
字体大小
18px
主题
浅色
深色
棕褐色
护眼模式
行距
阅读模式
译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 9 of 37

刺客行

大井川の川会所の軒下には、薄汚れのした木の札がかかっていて

帯上通水、九十五文 と、書いてあった。今日の川水は、渡し人足の帯まで浸すからであった。汚い畳敷の上へ台を置いて、三人の会所役人が、横柄に、旅人の出す金と、川札とを引換にした。その横、暗い奥の方、会所前の茶店の辺には、川人足が群れていて、旅人の川札を眺めては

「荷物は、何れでえ」

とか

「甲州。われの番だに、何を、ぞめぞめこいてやがる」

とか、怒鳴っていた。

大井川を渡る賃金は、水嵩によってちがっていて、乳下水、帯上通水、帯通水、帯下水、股通水、股下通水、膝上通水、膝通水と分れていた。そして、一番水の無い、膝通水の時の賃金は、人足一人が四十文で、乳下水に少し水嵩が増すと、川止めになるのであった。

水嵩が増しそうな気配だと云うので、旅人達は急いでいた。川会所の前には、そういう人々でいっぱいだった。役人が

「輦台二梃」

と、叫んで、木札で、台を叩いた。五六人の人足が

「おーい」

と、元気よく答えて、だらだらの砂道、草叢の中に置いてある平輦台の方へ走って行った。一人の人足が、群集の前に、編笠を冠って立っている二人の侍に

「あちらへ」

と、御辞儀した。

「急ぐぞ、人足」

そういって、侍は、すぐ、その人足の後につづいて、河原の方へ降りて行った。その会所の前の茶店から、一人の若侍が立上って、二人の侍の後姿を見ながら

「父上、あれは、池上氏と、兵頭氏では」

と、振向いた。

「似ている、そうらしい」

「見届けましょうか。何んなら、同行しても――」

「さ――」

小太郎が、一足出ようとした時、勢いのいい五梃の駕が、川会所前の群集の中へ、割込んで来て、駕の中から

「輦台、五梃、急ぐぞっ」

と、怒鳴る声がした。そして、垂れが上ると、一人の侍が、素早く、駕の外へ出た。八郎太は、歩きかけた小太郎に

「待て」

と、声をかけた時、小太郎は、その侍の顔を見、次々の駕から出て来る侍を見て、急いで茶店の中へ入って、腰かけた。そして、二人は、街道を背にして、低い声で

「四ツ本の下の奴でないか」

「はい」

二人は、五人の侍に見つからぬように、顔を隠して

「急ぐ模様だが――」

と、云った時、一人の侍が、川の方を見て

「居る、あの二人が――相違ない」

と、四人の者に、川を指さして振向いた。

「人足、急ぐぞっ」

一人は、刀を押えて、磧の方へ小走りに歩み出した。

「今渉るところだ」

「川の中で追っつけよう」

人々は、群集の中で、声高に、こう叫んだ。旅人達は、五人が、前の二人の連衆だと思っていたが、仙波父子は

「討手だ」

と、信じた。

「小太、油断がならぬ」

八郎太は、手早く編笠をきた。

池上と、兵頭との輦台は、川の中央まで出ていた。二人とも、刀を輦台へ凭せかけて、腕組をしていた。

川人足は、行きちがう朋輩に声をかけながら、臍の辺に、冷たい秋の川水の小波を、白く立てつつ、静かに、平に、歩いていた。

人足の肩に跨がり、頭に縋りついている旅人達は、着物の水へ届きそうになるのを気づかいつつ、子供の時、父の肩車に乗って以来、何十年目かの肩車に、不安を感じていた。

その穏かな川を渉る人々の中を、五台の輦台が、声をかけつつ、川水を乱し立てて、突進した。

「ほいっ、ほいっ」

と、いう懸声の間々に

「頼むっ、頼むっ」

と、肩車で渉って行く、渉って来る人足に、注意しながら、輦台は突進して行った。その上に乗っている人々は、刀を押えて、誰も皆、前方を睨みつけるように見て

「急げっ、急げっ」

と――中の一人は、刀の鐺で、そういいつつ、こつこつ、川人足の肩をたたいていた。

仙波父子は、茶屋の横へ廻って、松の影の下の小高い草叢の中から、この七台の輦台を眺めている。

「五人では討てまい」

八郎太が、呟いた。

「助けに参りましょうか」

「求めて対手にすべきではない。よし、二人が殺られようと、大事の前の小事じゃ。わしが指図するまで、手出しはならぬ」

「益満は、何うしておりましょう」

「あれも、一代の才物じゃが、世上の物事は、そうそうあれの考え通りに行くものでもない。日取りからいえば、もう、追っつく時分じゃが、お上からも、こうして討手の出ている以上、妻も子も、助かるとは思えぬ。恩愛、人情、義理をすてて、ここは、京まで、万難を忍んで、牧を討つべき時じゃ」

「はい」

「それに討手は、主持ち、わしらは浪人者じゃ。一人殺しても、身の破滅になる」

「心得ました」

と、いった時

「あれっ、あれっ」

「喧嘩だ」

と、いう声と同時に、人々の走り降りて行く姿と、鬨の声に近い、どよめきとが起った。

「やるっ」

八郎太が、低く叫んだ。向う河岸へもう四分というところへまで近づいた二人の輦台は、五人の輦台に追いつかれたらしく、きらきらと光る刀が、五人の手に、躍っていた。

「斬合だっ、斬合だっ」

河岸の人々も、川中の人々も、一斉に、どよめいた。二組の輦台の四辺に、川を渉ろうとしていた人々は、周章てて、川水を乱して逃げ出しかけた。少し離れて、危くない人々は、誰も、彼も、川を渉るのを忘れて、眺めていた。

「斬った、斬った」

「未だだっ、未だだっ」

「あっ、やった、やった、やった」

群集は、興奮して、怒鳴った。五台の輦台の上では、刀を振りあげていた。池上と兵頭とは、後向きになって、輦台の上で、居合腰であった。川人足は、輦台の上で、足を踏み轟かされるので、川水の中に、よろめきながら、岸へ、早く近づこうとあせっているらしかった。

「父上」

小太郎は、声をかけたが、八郎太は、無言であった。

「もっと踊れ、御神楽武士め」

池上は、片膝を立てて、微笑しながら、自分の前へ迫って来る追手へ、独り言のように呟いた。兵頭との間は、三間余りも離れていたから、五人の輦台は、二人を、左右へ放して、別々に討取るように、楔形になって、追って来た。その、真先にいる武士は、輦台の上へ立上って、刀を振りながら

「早く、早く」

と、叫んで、手を、脚を動かしていた。そのたびに、人足は、顔を歪めて、舌打をしながら

「危い」

とか

「畜生っ」

とか、怒鳴った。それにつづく四人は、輦台の手すりにつかまったり、立ったりして、刀が届く距離になったら、一討ちにしてくれようと、身構えていた。

兵頭は、手すりへ、片脚をかけて、鞘ぐるみ刀を抜き取って、左手に提げながら、少しずつ近づいて来る討手へ

「周章てるな。周章てるな。日は長いし、川原は広い。輦台の上で、余り四股を踏むと、人足が迷惑するぞ」

「黙れっ」

二つの距離は、三間近くまで縮まって来た。討手の人々は、襷へ一寸手をかけてみたり、目釘へしめりを、もう一度くれたりして、両手で、刀を構えかけた。

「池上っ」

「おい」

「やるか」

池上が頷いた。そして、袴の股立をとり、襷をかけて、刀へ手をかけて、立上った。

荒い事を自慢にし、喧嘩好きの人足達であったが、頭の上で、刀を振り廻されて、もしもの事があったら、大変だと思った。前の人足は

「おーい」

と、叫んで、後方の人足へ、余り早く近づくなと、合図した。後方の人足達は、いよいよ始まったなら、輦台を、川の中へ投げ出して、逃げようかと、眼で合図した。だが、二三人の人足は、眼でそれをとめて

「大井川の人足の面にかかわらあ」

と、元気よく叫んだ。それに、故意に、輦台を顛覆させては、二度と、川筋では、働くことができない掟であった。

追手の人足は、額の汗を拭いながら、時々、声をかけたり、後方を振向いたりして、なかなか近寄らなくなった。

「うぬらっ、早くやらぬと、これだぞ」

最先の一人が、一人の人足の肩へ白刃を当てた。

「無、無理だよ、旦那」

一人が、振向いて

「今日は、帯上だから、そう早く、歩けるもんじゃあねえでがすよ」

池上と、兵頭との輦台が、急に深処へ入ったらしく、人足達は乳の下まで水に浸して、速度がぐっと落ちた。その時に最先の侍の輦台が、池上の輦台の間近まで勢いよく突進して来た。

「止めろ、止めろ」

池上は、足で輦台の板を踏み鳴らした。人足が、その力によろめいて、歩みをゆるめた時、最先の追手は一間余りのところまで迫って

「上意」

と、叫んだ。

その瞬間だった、池上の脚が、手摺にかかり、左手で刀を押え、右手を引く、と――見る刹那

「ええいっ」

追手は、斬るよりも、突くよりも、周章てて、身体を避けた。それは、余りに思いがけない池上の奇襲だったからだ。池上は、猛犬の飛びかかるように、自分の輦台を蹴って、追手の輦台へ、飛び込んだ。

人足が、顔を歪めた瞬間、輦台が、傾いた。と、同時に、池上の体当りを食った追手の一人は、脚を天へ上げて、白い飛沫を、つづく味方へ浴びせかけて、川の中に陥った。

「たたっ」

人足は、顔を歪めて、肩へ手を当てた。そして、輦台を持ち直した。池上は、輦台が傾いたので、倒れかかったが、手摺へつかまって、立上りかけると

「うぬっ」

白く閃くものが、顔から、二三尺のところにあった。池上は立上った。

「弱ったな、土州」

「やっつけるか」

と、人足が、叫んでいるのを、聞きながら、池上は、左右の追手へ

「輦台の上での勝負は珍しい。今度は、貴殿のところへ、源義経、八艘飛び」

と、微笑して、手摺へ、足をかけた。兵頭の輦台は、もう、七八間も行きすぎていた。

「池上っ」

と、いう声と

「あとへ、あとへ」

と、兵頭の叫んでいるのが聞えた。池上は、右手を振って

「一人でよい、一人でよい」

と、叫んだ。

「小癪なっ」

輦台の上から、一人が叫ぶと、川の中へ飛び込んだ。人足は、臍のところまでしか水に浸っていなかったから、浅いところであったが、水流は烈しかった。その侍は、二三間、よろめいて、ようよう、押流されて、立上った。丁度その時、池上に川へ落された侍も、立上った。二人は、刀を抜いて、川下から、迫って来た。

「いけねえ」

人足が叫んだ。そして、二三尺進むと、乳の上まで水のある深いところへ入った。

「待てっ」

一人が、水中から、池上を目がけて、刀を斬り下ろした刹那、一人の人足はびっくりして、肩から輦台を外した。と、同時に、池上は、輦台の上から、川上の方へ飛び込んでいた。

兵頭は、じっと、川面を眺めていた。二人の追手は、胸まで来る水の中を、よちよちと、兵頭の方へ進んだ。三台の追手は、無言で、川中にいる二人の後方を、横を、兵頭の方へ迫りながら、川下へ浮んで出るべき池上の姿にも、気を配っていた。

兵頭が、輦台の近くへ浮いて来た黒い影へ、身構えた時、池上が顔を出して、頭を振った。髪をつかんで水を切りながら

「わしは、歩いて行く」

と、兵頭を見上げて

「歩けるのう」

と、人足へ笑った。

「ええ」

「旦那っ、強うがすな」

池上の輦台人足は、走るように近づいて来て

「お乗んなすって」

と、いった。

「大勢かかりやがって、何んてざまだ。やーい、どら公、しっかりしろいっ」

人足共は、小人数の方へ味方したかった。

島田の側も、金谷の側も、磧は、人でいっぱいであった。

「強いな」

「兄弟、もう一度、行こうぜ、輦台二文って、このことだ」

「江戸へ戻って話の種だあ、九十六文、糞くらえだ」

「何うでえ、五人組は、手も、足も出ねえや。町内の五人組と同じで、お葬いか、お祝いの外にゃ、用の無え、よいよい野郎だ」

「二人の野郎あ、水の中で、刀をさし上げて、おかか、これ見や、さんまがとれた、って形だ。やあーい、さんま侍」

八郎太と、小太郎とは、微笑しながら、川を眺めていると

「おおっ、加勢だっ」

「八人立で、こいつあ、早えや」

「棒を持っているぜ」

「馬鹿野郎、ありゃあ槍だ」

「こん畜生め、穂先の無え槍があるかい。第一、太すぎらあ」

「川ん中で、芋を洗うのじゃああるめえし、棒を持ってどうするんだ」

小太郎が

「父上、あれは、休之助ではござりませぬか」

「ちがいない」

「一人で――」

と、いった時、八人仕立の輦台は、川水を突っ切って、白い飛沫を、乳の上まで立てながら、ぐんぐん走っていた。

「小手をかざして見てあれば、ああら、怪しやな、敵か、味方か、別嬪か、じゃじゃん、ぼーん」

「人様が、お笑いになるぜ」

「味方の如く、火方の如く、これぞ、真田の計、どどん、どーん」

「丸で、南玉の講釈だの」

「あの爺よりうめえやっ、やや、棒槍をとり直したぜ」

「やった」

益満の輦台が、追手へ近づくと、長い棒が一閃した。一人が、足を払われて、見えなくなった。何か、叫んでいるらしく、一人を水へ陥れたまま、益満の輦台は、追手の中を、中断して、池上の方へ近づいた。もう、金谷の磧へ、僅かしかなかった。水の中で閃く刀、それを払った棒。追手を、抜いて、二人と一つになると、すぐ、益満の輦台だけが川中に止まって、二人は、どんどん磧の方へ、上って行った。追手の五人は、益満一人に、拒まれて、何か争っているらしく、動かなかった。

二人の人足が、益満のために、川へ陥った一人を探すため、川下へ急いでいた。時々、頭が、水から出ようとしては没し、没しては出て、川下へ流されていた。

池上と、兵頭とは、磧へ上ってしまった。磧の群集が二つに分れた。役人らしいのが、二人に何か聞いて、二人を囲んで、だらだら道を登って行った。

益満は、一つの輦台が、右手へ抜けようとするのを、棒を延して押えているらしく、その輦台が止まった。

「益満め、舌の先と、早業とで、上手に押えたと見えるな」

と、八郎太が微笑した。そして

「この騒ぎにまぎれて渡ろう。何ういう不慮の事が起きんでもなし、水嵩も増すようであるし――」

小太郎は、川会所へ行った。川札は

乳下水、百十二文 と、代っていた。どんより曇った空であった。山の方には、雲が、薄黒く重なり合っていた。雨が降っているのだろう。

島田の宿は、混合っていた。風呂の湯は、真白で、ぬるぬるしていたし、女中は、無愛想な返事をして、廊下を足荒く走った。

「へん、ってんだ」

雨は降る降る

大井川はとまる

飯盛りゃ、抱きたし

銭は無し

隣りの――

と、唄って、七瀬と、綱手の部屋の隣りの旅人は、急に声を落して

娘で間に合わそ、か

てな、事なら、何うであろ

雨の十日も、降ればよい

それから、大声になって

「とこ、鳶に、河童の屁」

と、怒鳴った。

七瀬と、綱手とは、お守袋を、床の間へ置いて、掌を合せて、夫と子供の無事と、自分ら二人の道中の無事を、祈っていた。

「やーあい、早くう、飯を持って来う」

腹がへっても、空腹ゅう無い

大井の川衆にゃ、着物が無い

可哀や、朝顔お眼めが無い

俺の懐、金が無い

それは、だよ、案じるな

娘に惚れたで、お眼めが無い

「お待ちどお様」

女中が、膳を運んで来た。

手前の面には、鼻が無い 女中は、膳を置いたまま、物もいわないで行ってしまった。七瀬と、綱手とが、声を立てんばかりに笑った。

廊下も、上も、下も、喚声と、足音とで、いっぱいであった。

「ええ――」

番頭が、手をついて

「まことに申しかねますが、御覧の通りの混雑でござりまして――それに、ただ今、急に、お侍衆が七人、是非にと――何分の川止めで、野宿もなりませず――済みませんが、女子衆を一つ、相宿ということに、お願い致しとう存じますが――」

番頭は、手を揉んで、御辞儀した。

「相宿とは?」

「この御座敷へ、もう一人、御女中衆をお泊め願いたいので、へい」

母娘は、顔を見合せた。

「品のいい御老人で、つまり、お婆さんでござります。是非、何うか、へっ。お隣りの唄のお上手な方へも、御三人、お願い致すことになっておりますので、へい」

隣りの旅人が

「やいやい番頭、六畳へ、四人も寝られるけえ」

「へへへ、子守唄を、一つ唄って頂きますと、よく眠ります」

「おうおう、洒落た文句をぬかすぜ」

旅人は、立上って廊下へ出て来て、二人の部屋をのぞき込んだ。

「今晩は」

二人は、返事をしないで、番頭に

「では、そのお方お一人だけ――」

「へいへい、決して、もう一人などとは申し上げません。有難う存じました。それで、お唄の旦那」

「いやな事いうな」

「済みませんが、お侍衆を、お二人、割込ませて頂きます」

「侍?」

「薩摩の方で、今日の喧嘩のつづきでさあ。後から後詰の方が、追々参られるそうで」

七瀬と、綱手とは、身体中を固くして、不安に、胸を喘がせかけた。

隣座敷へ入った侍が、湯へ行くらしく、廊下へ出ると同時に、七瀬が、障子を開けて、その前へ進んだ。侍は、立止まって、七瀬を見ると

「おお」

「ま――御無礼を致しました」

七瀬は、一足、部屋の中へ引っ込んだ。

「お一人かな」

「いいえ、娘と、同行でございます」

「八郎太殿は」

「夫は、何か、名越様と、至急の打合せ致すことが起ったと、途中から江戸へ引返しまして、もう、追いつく時分でござりますが、何う致しましたやら」

「ははあ」

「丁度、幸の川止めで、明日一日降り続きましょうなら、この宿で落合えるかと存じております。貴下様は、御国許へでも?」

「うむ、国許へ参るが――小太郎殿も、父上と御同行か」

「はい」

「今日の昼間、ここで、果合があったとのこと、お聞きかの」

「何か、大勢で――」

「いや、一風呂浴びて――何れ、後刻、ゆっくり――妙なところで、逢いましたのう」

侍は、振返って、そういいながら、微笑して、階段を降りて行った。

七瀬と、綱手とは、人々から聞く、二人連の侍とは、確かに、池上と兵頭にちがいなかったし、その二人を援けたのは、きっと、益満であると考えた。そして、池上らと、益満とが、この辺にいるとすれば、八郎太父子も、この辺にちがいないと、考えられた。そして、そう考えてくると、夕方近くから降り出した雨が、自分等二人の涙のように思えた。雨さえ降らなかったなら、明日か、明後日は、八郎太に追っつけるのに――箱根で遅れ、ここで遅れ、天も、神も、仏も、何処までも、仙波の家だけは、助けてくれないもののように思えた。

追手だの、伏勢だの、役人だの、いろいろの者が、自分達の周囲に潜んでいるようにも感じた。七瀬は、二人の侍を、敵党の者と知って、仙波父子二人が遅れて来ると、欺いたが、うまく欺きおおせるか、もし自分等二人と落合うものと信じて、もし、ここを離れなかったなら? それが偽りとわかった時、自分達は、何うなるか?

八郎太と、小太郎とが、馬に乗って走っているのを描いた。夜道の雨の中を、強行して行く姿を想像した。そして

(無事で、牧を探してくれますよう)

と、誰に、祈っていいかわからない祈りを捧げた。

(もう一度、逢えますよう。無事な顔が見られますよう)

もう一度、夫の顔、子の顔が見られたなら、もう二度と、こんな未練な心は起さないと誓った。四ツ本が、玄関へ来てからの、急な追放、ろぐろく口も利かぬうちに、闇の中で別れてしまったことが、幾度、思い直してみても、悲しかった。

(こんな雨の夜、川止めの日、ゆっくりと、別れの言葉を交したなら――)

と、思うと、しとしと降っている雨の音までが、自分等を、悲しませたり、羨ませたりしたさに、降って来たもののように感じられた。

「綱手、考えても無駄じゃ。臥みましょうか」

七瀬は、こういって、うつむいている綱手に、言葉をかけた時、薄汚い婆さんが、濡れた袖を拭きつつ

「御免なされ」

と、入って来た。そして

「おお、美しい女中衆じゃ、年寄一人だから頼んます」

と、図々しく、坐った。二人は、この婆が、自分達の家を呪う悪魔の化身のように思えた。

Chapter 9 of 37
|