Chapter 1 of 119
正月元旦。
曇りて寒き日なり。九時頃目覚めて床の内にて一碗のシヨコラを啜り、一片のクロワサン(三日月形のパン)を食し、昨夜読残の疑雨集をよむ。余帰朝後十余年、毎朝焼麺麭と琲とを朝飯の代りにせしが、去歳家を売り旅亭に在りし時、珈琲なきを以て、銀座の三浦屋より仏蘭西製のシヨコラムニヱーを取りよせ、蓐中にてこれを啜りしに、其味何となく仏蘭西に在りし時のことを思出さしめたり。仏蘭西人は起出でざる中、寝床にてシヨコラとクロワッサンとを食す。(余クロワッサンは尾張町ヴイヱナカッフヱーといふ米人の店にて購ふ。)読書午に至る。桜木の女中二人朝湯の帰り、門口より何ぞ御用はなきやと声かけて過ぎたり。自働車を命じ、雑司ヶ谷墓参に赴かむとせしが、正月のことゝて自働車出払ひ、人力車も遠路をいとひ多忙と称して来らず。風吹出で寒くなりしかば遂に墓参を止む。夕刻麻布森下町の灸師来りて療治をなす。大雨降り出し南風烈しく、蒸暑き夜となりぬ。八時頃夕餉をなさむとて桜木に至る。藝者皆疲労し居眠りするもあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻に新春の曲を弾ずるものあり。梅吉※付せしものなりと云。余この夜故なきに憂愁禁じがたし。王次回が排レ愁剰有二聴歌処一。到得レ聴レ歌又涙零。の一詩を低唱して、三更家に帰る。風雨一過、星斗森然たり。