Chapter 1 of 4

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庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗の二階家なり。因って偏奇館と名づく。内に障子襖なく代うるに扉を以てし窓に雨戸を用いず硝子を張り床に畳を敷かず榻を置く。朝に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの煩なし。冬来るも経師屋を呼ばず大掃除となるも亦畳屋に用なからん。偏奇館甚独居に便なり。

門を出で細径を行く事数十歩始めて街路に達す。細径は一度下って復登る事渓谷に似たれば貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり。

偏奇館僅に二十坪、庭亦狭し。然れども家は東南の崖に面勢し窓外遮るものなく臥して白雲の行くを看る。崖に竹林あり。雨は絃を撫するが如く風は渓流の響をなす。崖下の人家多くは庭ありて花を植ゆ。崖上の高閣は燈火燦然として人影走馬燈に似たり。偏奇館独り窓に倚るも愁思少し。

屋後垣を隔てて隣家と接す。隣家の小楼はよく残暑の斜陽を遮ると雖晩霞暮靄の美は猶此を樹頭に眺むべし。門外富家の喬木連って雲の如きあり。日午よく涼風を送り来って而も夜は月を隠さず。偏奇館寔に午睡を貪るによし。たまたま放課の童子門前に騒ぐ事あるも空庭は稀に老婢の衣を曝すに過ぎざれば鳥雀馴れて軒を去らず。階砌は掃うに人なければ青苔雨なきも亦滑かに、虫声更に昼夜をわかつ事なし。偏奇館徐に病を養い静かに書を読むによし。怨むらくは唯少婢の珈琲を煮るに巧なるものなきを。

余花卉を愛する事人に超えたり。病中猶年々草花を種まき日々水を灌ぐ事を懈らざりき。今年草廬を麻布に移すやこの辺の地味花に宜しき事大久保の旧地にまさる事を知る。然れどもまた花を植えず独窓に倚り隣家の庭を見て娯しめり。

呉穀人が訪秋絶句に曰く、豆架瓜棚暑不レ長。野人籬落占二秋光一。牽牛花是隣家種。痩竹一茎扶上レ墻と。わが友唖々子に句あり。「夏菊や厠から見る人の庭。」われ此れに倣って「涼しさや庭のあかりは隣から。」

余今年花を養わざるは花に飽きたるにあらず。趙甌北が絶句に、十笏庭斎傍二水涯一。鳳仙藍菊燦如レ霞。老知光景奔輪速。不レ種二名花一種二草花一。といえるを思えば病来草花を愛するの情更に深からずんばあらず。然るに復之を植えざるは何ぞや。虫を除くの労多きを知るが故なり。啻に労多きのみにあらず害虫の形状覚えず人をして慄然たらしむるものあるが故なり。鳳仙藍菊の花燦然として彩霞の如くなるを看んと欲すれば毛虫芋虫のたぐいを手に摘み足に踏まざるべからず。毛虫の毛を逆立て芋虫の角を動し腹を蠢かすさまの恐しきを思えば、庭上寧ろ花なきに如かず。花なければ虫も亦無し。

毛虫芋虫は嫩葉を食むのみに非ず秋風を待って再び繁殖しいよいよ肥大となる。梔子木犀枳殻の葉を食うものは毛なくして角あり。その状悪鬼の金甲を戴けるが如し。雁来紅の葉を食むものは紅髯々として獅子頭の如し。山茶花を荒すものは軍勢の整列するが如く葉裏に密生し其毛風に従って吹散じ人を害す。園丁も亦恐れて近づかず。

およそ物として虫なきはなし。米穀に俵の虫あり糞尿に蛆あり獅子に身中の虫あり書に蠧あり国に賊あり世に新聞記者あり芸界に楽屋鳶ありお客に油虫あり妓に毛虱あり皆除きがたし。物美なれば其虫いよいよ醜く事利あれば此に伴うの害いよいよ大なり。聖代武を尚べば官に苛酷の吏を出し文を尚べば家に放蕩の児を生ず倶に免れがたし。芸者買の面白さは人を有頂天ならしめ下疳の痛さは丈夫を泣かしむ。女房の有難きや起きては家政を掌り寝ては生慾を整理す。徳用無類と雖も煩さくしつッこくボンヤリして気がきかず能く堪うべきに非ざるなり。児孫は老父を慰め団欒の楽しみをなすと雖障子はいつも穴だらけなり。荘子既に塗抹詩書の嘆をなせり。

利のある処必ず害あり楽しみの生ずる処悲しみなくんばあらず。予め害を除くの道を知らずんばいかでか真の利を得んや。悲しみに堪うるの力ありて始めてよく楽しむを得べし。景気に浮かされて儲ける事ばかり考えれば忽ちガラを食った相場師の如くなるべし。タダで安いと楽しめば三月目にはどうしたものかと途法に暮れるべし。栄華に安んじて其の治むる道を講ぜざれば事皆東京市の道路の如くならん。余既に病み夙に老ゆ。自ら悲しみに堪うる事能わざるを知って亦深く歓びを索めず。庭に花なきも厠の窓より隣家に此を眺めてよろこび家に妻なきも丸抱の安玉を買って遂に孤独を嘆ぜず。分を守って安んずるものを賢者となさば余や自ら許して賢なりとすも亦誰をか憚らんや。

本年初夏の頃より老眼鏡を用う。書肆春陽堂三年前より余が旧作を改版するに世俗ポイント活字と称する細字を以てす。ポイント活字の振仮名を校正する事甚しく視力を費すが故に余初は辻易者の如く大なる虫眼鏡を用いき。今春流行感冒に罹り臥床に在る事六十余日読書暁に及ぶ事屡なり。やがて病癒え再び坐して机に向うに燈火俄に暗きを覚ゆ。医に問うに病中漫に書に親しむ時は往々此の事あり速に老眼鏡を用うべし。然らざれば却って眼力を損じ神経衰弱症を起すべしと。即ち銀座の老舗松島屋に赴き老眼鏡を購い帰り来って試みに机上の一書を開くに、文字甚鮮明なり。頗爽快を覚ゆると共にいよいよ老来の嘆あり。たまたま思出るは家府君禾原先生の初て老眼鏡を掛けられし頃の事なり。時に一家湘南の別墅豆園にありき。府君松下の榻に倚り頻に眼鏡を拭いつつ詩韻含英を開閉せらる。余府君の眼鏡を用いられたるを見し事なかりしかば傍より其の故を問う。先君笑ってこは老眼鏡なり。古人の句に細字燈前老不便とは云得て妙ならずやと言われき。回顧すれば余の尋常中学を出でし時にして先君は正に初老の齢に達せられし時なり。余本年四十有二。先君と齢を同じうして初めて老眼鏡を用う亦奇ならずや。然れども其の看るものは雅俗もとより同じからず平生の行に至っては一は謹厳一は賤陋殆ど比すべきに非ざるなり。

一夜涼風を銀座に追う。人肩を摩す。正に是連袵幃を成し挙袂幕を成し渾汗雨を成すの壮観なり。良家の児女盛装してカッフェーに出入す。其の紅粉は俳優の舞台に出るが如く其帯は遊女の襠裲の如く其羽織は芸者の長襦袢よりもハデなり。夜店の蒔絵九谷と相映じて現代的絢爛の色彩下手な油画の如し。杖に倚って佇立む事須臾なり。忽見る詰襟白服の一紳士ステッキをズボンのかくしに鉤して濶歩す。ステッキの尖歩々靴の踵に当り敷石を打ちて響をなす事恰も査公の佩剣の如し。

洋人遊歩する時多くは杖を携う。或は腕につるして下げ或は腋下にたばさみ或は柄を下にし尖を上にして携うるものあり。皆流行に従って法あるが如し。巴里の街頭は世界各国の風俗を見る処然れども未だステッキを佩剣の如くなすもの非ざるべし。銀座は極東帝国の街衢なり尚武の国風自らステッキに現わる。

余日本に帰りてより久しく杖を携えず。図書館劇場展覧会等に赴くや下駄と一緒に荒縄で縛られ帰る時復手にすること能わざればなり。此に於てか無用の長物無きに如かざるを思い代うるに蝙蝠傘を以てするやここに年あり。当時東京市中の散策記日和下駄の一書を著し大に蝙蝠傘の杖に優る事を論じき。然るに一たび胃を病んで長く徒歩すること能わず、蝙蝠傘日和下駄漸く用なきに今年更に痔を病み愈歩行に苦しむ。再び傘を杖にするに棒弱く棒の太きを選ぶに甚重し。ここに於てか思わざりき往年里昂にて購いたるステッキ今復外出の伴侶となるを。追懐の情禁ずべからず。為めに此を記す。

余平素新聞を購わず。街頭電車を待つの時電信柱に貼り付けたる夕刊の記事表題を眺めて天下の形勢を知り電車来って此れに乗るや隣席の人の読むものを覗いて事の次第を審にす。たまたま活動写真弁士試験の一項を目にして以為らく警察の弱い者をいじめる事も亦至れり尽せる哉と。試験の科目に曰く爾に出るものは爾に反るとは何か。曰く李下に冠を整し瓜田に履を納れずとは何か。曰く寛政の三奇人とは誰ぞ。曰く何。曰く何と。もし審に此等の問に答得るの学力あらば誰か亦活弁とならんや。昔に在っても論語読み論語を知らず。況んや当今の教育英学を尊んで漢学を卑しむ。漢文中の故事成語を問わば小学校の教員も決して満点を得ざるべし。小説家も亦落第ならん。余も亦然りとす。

余講釈を聞いて寛政馬術の三名人を知ると雖も未寛政の三奇人の誰なるやを知らず。思うに高山彦九郎等の事を云うに似たれども橋の上で御辞儀をしたばかりでは別に奇人と云う程でもなし。奇人は狂人に近し勤王の志士を呼んで奇人となすが如きは蓋し官の喜ばざる処なるべし。

髪結床に組合の試験あり。役者に名題の試験あり。芸者に手見せの試験あり。然れども皆仲間中ですることなり。政は公平ならざるべからず。活弁既に警察の試験を受く芸者俳優落語家講談師浪花節語も宜しく試験すべし。小説家新聞記者も亦此れをなして可なり。

芸者を試験するに先ず何事をか問うべき。常磐御前の事跡か道鏡の事跡か米八仇吉の事か池田病院の所在も亦問うべし。

文士を試験するに先ず何事をか問うべき。井の底の蛙飯の上の蠅の何たるかを問え。猿の何たるかを問え馬の何たるかを問え。喪家の狗の何たるかを問え。肱をつかずに字が書けるかを問え。

土方工夫の輩酒気を帯び鉄鎚を携えて喧嘩面で電車に乗込めば乗客車掌倶に恐れて其の為すに任す。ボルシェイークの実行既に電車に於て此を見る。長屋の悪太郎長竿を振って富家の庭に入り蝉を追い花を盗むも人深く此を咎めず。書生避暑地の旅舎に徹宵酔歌放吟して襖を破り隣室の客を驚かすも亭主また之を制せず。平等主義は既に随所に行わる何を苦しんでか国禁を犯してビラを撒くや。

ボーイを呼ぶにおいボーイと言えばボーイ不満の色を現す。ボーイさんと呼ぶに及んで始めて応ず。車夫を車夫と呼べば車夫怒る。宜しく若衆さんと云うべしお供さんと云うべし。恰も巡査を呼ぶにお廻りさんというに似たり。敬語の必要車夫馬丁に及ぶ。階級打破の実夙に挙がれりと云うべし。

家に下女下男あり。国に宰相大臣なくんばあらず。米を磨ぎ厠を掃除するは主婦の手ずから為す事能わざる処なり。此に於てか給金を払って下女下男を雇う。兵を置いて外に備え法を設けて内を治むるは人民のよくする処にあらず。此に於てか国民税を出して大臣宰相の俸給に当つ。有司の国に要あるや奴婢の家に於けるに同じきを思わば、人民たるもの官の失政吏の怠慢を見るに須らく寛大なるべし。奴婢は使いにくきものなり不経済なものなり居眠をするものなり気のきかぬものなり摘み食をするものなり。吏は役に立たぬものなり慾の深いものなり賄賂を取りたがるものなり。責むるは野暮なり。いくら取替えても同じ事なり。下女の出代は桂庵の徳にして主人の損なり。内閣の更迭は政治家の付目にして人民の損なるべし。

雨戸に工合よきは少し

厠に悪臭なきは少し

掃除屋の日取よく来るは少し

女房に気のきいたのは少し

下女に居眠りせざるは少し

宰相に清廉なるは少し

志士に疎暴ならざるは少し

十五夜に雲なきは稀なり

長寿にして耻少きは稀なり

文士にして字を知るは稀なり

芸者にしてねだらざるは稀なり

新聞記者にして礼節あるは稀なり

役者にして自分を知るは稀なり

請負師にして金歯なきは稀なり

青年にして痳病ならざるは稀なり

赤ン坊のお尻にして紫斑なきは稀なり

女学生にして歯の奇麗なるは稀なり

女郎の長襦袢にシミなきは稀なり

汽車の弁当にして食えるは稀なり

電車にして停電せざるは稀なり

電話交換手にして番号を誤らざるは稀なり

女ボーイにして献立を知れるは稀なり

女店員にして暗算の早きは稀なり

印刷物にして誤植なきは稀なり

石版摺の表紙にしてインキの手につかざるは稀なり

警察干渉の手を大本教に加う。此れが為に丹波の邪教いよいよ信者を増すべし。森戸先生罰せられてクロポトキンの名却て世に流布したるを思えば宣伝の法広告の極意は蓋し官権の干渉に如くものはなし。往昔韓愈釈教の中華を侵すを慨嘆せしかど遂に能く止むる事能わざりき。幕府切士丹破天連の跡を絶たんとして亦よく断つ事能わざりき。匹夫の志もと奪うべからず。千束町は遂に千束町にして蠣殻町には依然として小待合多し。韓愈仏骨を論ずるの表は身命を賭して君王を諫むるもの人気取りの論文にあらず。幕府兵を用いて島原を攻めしは誠意国の禍を除き民をして安からしめんと欲せしが為めなり。御用商人と結托して儲けようと欲せしにはあらず。韓愈の見解或は褊狭に走れるや知るべからず幕府の政令苛酷に過ぎたるや亦知るべからず。然れども両者倶に誠意を以てその信ずる処を行わんと欲せしや明かなり。今当路の吏大本教を禁ぜんとするの心よく韓愈の如く松平豆州の如くならば何ぞ其の措置の如何を問わんや。酷なるを以て可とせば寸毫も許す処あるなかれ。事の是非は唯法を行うものの心に在り。

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