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大菩薩峠 10 市中騒動の巻
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大菩薩峠 10 市中騒動の巻
中里介山
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 15

四

徳川幕府の影が薄くなって、そのお膝元でさえこの始末。

貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と覚しき強盗が蔭へ廻って悪事を働き、なお火事場泥棒式の悪漢が出没するけれども、それを取締る捕方は出て来るという評判だけで、ちっとも出て来ません。

人形町の唐物屋を貧窮組が叩き壊した時は、朝の十時頃から始めて家から土蔵まで粉のように叩き壊してしまいました。いくら多勢の力だからと言って、これは人間業とは思われませんでした。表の店の鉄の棒が、飴を捻るように捻切ってありました。それを捻切ったのは十五六の子供であったということ、それは天狗の子に相違ないということ、天狗の子供が先に立って、大勢の指図をして歩くのだというようなことが言い触らされました。

「天誅」の文字が江戸の市中にも流行り出して来て、市民を戦慄させたのはそれから幾らもたたない時でありました。この「天誅」の文字は大和の「天誅組」から筋を引いたものかどうかわからないが、武士と武士との間に行わるるのみではなく、町人にまで及びます。ひそかに人の首を斬って、橋の上や辻々へ捨札と共に掛けて置きます。市民の財産の危険はようやく生命の危険に脅かされてきました。

さても本所の鐘撞堂の相模屋という夜鷹宿へ、やっと落着いた米友は、お君から何かの便りがあるかと思って、前に両国の見世物を追い出された晩、お君と二人で宿を取った木賃宿へ行って様子を聞いて、まだ何も消息がないと聞いて失望して、帰りがけに、両国橋を渡りかかると、多くの人が橋の上に立っていますから、米友もなにげなく覗いて見ました。米友ではとても人の上から覗き込むことはできないから、人の腰の下から潜るようにして見ると、橋の欄干へ板札が結び付けてあります。米友は学者(お君に言わせれば)ですから直ぐにその板の文句を読むことができました。

「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金を請ひ、府下の模様を内通致し、剰へ婦人を貪り候段、不届至極につき、一夜天誅を加へ両国橋上に梟し候所、何者の仕業に候哉、取片附け候段、不届且不心得につき、必ず吟味を遂げ同罪に行ふべき者也。

月  日報国有志此高札三日の内、取片附け候者有之ば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也」

米友はその文句を読んでしまったが、腑に落ちないことがありました。

「この札はこりゃ誰が立てたんだ」

米友は独言のように聞いてみましたけれど、誰も返事をするものがありません。

「この高札三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也てえのは穏かでねえ」

米友が仔細らしくこんなことを言い出したから、集まっていた人は、それを聞いて滑稽に思うよりは怖ろしく感じました。そうして何者がそんなことを言うかと思って、声の出たところをよく見ると、人の股の間にモゴモゴしている米友でしたから、みんなプッと吹き出しました。

米友にとっては笑われる自分よりも、笑うやつらの方がおかしい。単純な米友は、理由なきに冷笑されたことを不本意として、ムッとしてきました。

「何がおかしいんだい、俺らの言うことが何がおかしいんだい」

「若い衆、そう怒るもんじゃねえよ」

米友がムキになったのをなだめたのは老人。

「こりゃ天誅組というやつなんだから、お役人でも始末にいかねえんだ」

「天誅組というのは何でございます、お爺さん」

米友は老人の面を見上げる。

「天誅組というのは、このごろ流行り出した悪い貼紙で、疱瘡神よりもっと剣呑な流行神だ」

「そんな剣呑な流行神を平気で眺めている奴の気が知れねえ」

見物はまたドッと笑い出して、

「うむ、全く気が知れねえ、若い衆、お前なんとかひとつ、その流行神を始末してみねえな、人助けになるぜ」

「ばかにするない」

米友が眼をクルクルして群集を見廻した、その面つきと身体を見て群集はやはり笑わずにはいられません。高札よりもこの方がよほど見栄えがあると思って、

「豪い!」

拍手喝采してこの奇妙な小男の、本気になって憤慨するのを弥次り立てて楽しもうとすると、米友はかえってそれらを相手にはしないで、欄干に結びつけてあった高札の縄目を解きにかかったから、

「おやおや」

弥次連の面の色が変ります。

「おい、若い衆、小せえの、何をするんだい」

慌てて留めたのは老人。

「冗談じゃねえ、煽てに乗るも大概がいい、その高札へお前、指でも差そうものなら、大変なことになるぜ、引込んでいなせえ、いなせえ」

「ナニ、かまわねえ」

「三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきものなり――この字がお前にも読めたんだろう、天誅というのは首が飛ぶことなんだ、いいかい、この高札を動かそうものなら、お前の首がなくなるんだ、お前が遠からず首を斬られてしまうんだぜ」

「誰が俺らの首を斬りに来るんだ」

「天誅だよ、天誅だよ」

「天誅が首を斬りに来るのか。天誅というのは何だ、俺らはまだ天誅に首を斬られるような悪いことをした覚えはねえ」

米友は留めてくれる老人の手を振り払って苦もなく高札の縄を解いてしまい、その高札を振り上げて橋の上から川の中へポンと投げ込んでしまいました。

「無茶なことをする奴だ」

さすがの弥次馬も舌を振ってしまいました。

これが不思議な縁で米友は、その翌日から本所の相生町の箱屋惣兵衛一家の留守番になってしまいました。それで鐘撞堂の相模屋から気軽くそこへ移ってしまいました。

この縁は昨日の高札の一件からであります。米友が高札を川へ抛り込んだために、町内からこの家の留守番を押つけられたものです。

米友もまた押つけられたことをかえって幸いにして箱惣の留守番を欣んで引受けてしまいました。

米友が留守番を押つけられた箱惣の家は大きな家でした。けれども誰も一人も住んではいないのです、ガラあきです。ただの空家と違って誰も留守居をし手のない空家なのです。昨日、米友が投げ込んだ札の文句にも、「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金を請ひ、府下の模様を内通致し、剰へ婦人を貪り候段……」とある通り、浪士たちに悪まれてツイこの間の晩、首を斬られて、両国橋へ梟し物にかけられた惣兵衛の家です。その首が誰がどうしたか直ぐに片附けられてしまうと、その後へ立てられた高札がすなわち米友の川へ投げ込んだものであります。その後難の人身御供の意味で留守居を押附けられ、米友は、主人の居間であった贅沢な一間でゴロリと横になっている。その傍には例によって槍が一本あります。

何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は疚しいところがないと、ひとりで力んでいたけれど、二晩三晩というものは、サッパリ何も手答えがないから、米友も力瘤が弛んできました。四晩目の晩、雨が降って鬱陶しいものだから、行灯の下で、やはり寝ころんで絵草紙を見ていました。

「今晩は――今晩は」

二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、

「今晩は」

返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。

「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」

「今晩は」

「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」

「あの、仕出し屋でございますが……」

ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから入用はないと思って、

「弁当箱を取りに来たのかい」

「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」

「ナニ、俺らに一口上げてくれって? そんな人はいねえはずだが」

「どうかここをおあけなすって下さいまし」

「どうもおかしいな」

米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた番傘を被って岡持を提げて立っています。

「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」

「町内の衆でございます」

「町内の誰だろう」

「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」

「俺らの方ではよくわからねえ」

米友は一合の酒と鰻の丼を受取りました。仕出し屋の女は帰ってしまいます。米友は、またもとのところへ帰って、鰻の丼と一合の酒を前に置いて、しきりにそれをながめていました。一合の酒も飲んでみたくないことはない、鰻の丼も食慾を刺戟しないこともない、けれども町内の誰がよこしたんだか、それがわからないのが不足である。うっかり御馳走になっていいものだかどうだか……米友は一合の酒と鰻の丼を後生大事に睨めていました。

一合の酒と鰻の丼を睨めている米友。

「飲んでしまおうか、それとも飲まずにいた方がいいか、この鰻の丼も食ってしまえばそれまでだが、食わずに置いてみたところでそれまでだ」

米友はいろいろに考えてみたが結局、この無名の贈り主から贈られた酒は一滴も飲まず、丼は一箸も附けずにほっておく方がよろしいと覚悟をして、床の間の方へ持って行って飾って置きました。飾って置いてそれをやや遠くからまた暫らくながめていたが、

「こうして俺らに酒を飲ましておいて、酔ったところを見計らって計略にかけるつもりだとすると、そんな計略にひっかかっても詰らねえ」

誰も米友を毒殺しようというほどの物好きもなかろうけれど、米友の方でとうとう一合の酒と鰻の丼を敬遠してしまって、それからまた本を見だしていると、

「今晩は」

またも表で人の声、前と同じように女の声。

「誰だ」

「仕出し屋でございます」

「ちェッ、また仕出し屋か」

「まことに相済みませんが、先程のお丼と御酒は間違いました」

「ナニ、間違えたって?」

「御近所へ持って上るのを、つい間違えまして申しわけがございません」

「そんなことだろうと思った、俺らに御馳走してくれる奴はないはずなんだから」

米友は跛足を引きながら、いま床の間へ飾って置いた一合の酒と丼、果して手を附けなかったことの幸いを感じて、それをそっくり持って来てやりました。仕出し屋の女中の方では、食われてしまってもこちらの粗忽だから文句のないところへ、米友が手を附けずに返してくれたのだから大へん喜びました。

「気をつけなくっちゃいけねえ、俺らだから手を附けなかったが、ほかの者なら食ってしまうんだ、俺らも実は食ってしまおうかどうしようかといろいろ考えたんだ」

「どうも相済みません」

仕出し屋の女はきまりの悪い面をして、一合の酒と鰻の丼を持って急いで敷居を跨いで外へ出ました。米友は一合の酒と鰻の丼の香ばかりで妙な面をして見送っていたが、表を二三間も歩いたと思われる仕出し屋の女中が、

「あれ――」

ガチャン、ピシーンという音。それによって見ると、女中はその辺で転んで倒れて泥濘の中へ、せっかくの一合の酒も鰻の丼もみんなブチまけてしまったようですから、米友は舌打ちをして、

「だから言わねえことじゃあねえや、そそっかしい女だなあ」

潜り戸から面を出して、雨の降る暗いところで転んだ女中をたしなめようとする途端、

「静かにしろ」

その潜り戸から跳り込んだ二人、小倉の袴に朱鞘に覆面、背恰好とも、忠作の家で金目の葛籠を奪って裏口から悠々と逃げた強盗武士そのままの男であります。

「さあ来やがった」

覚悟の上。米友は不自由な足ながら傘のお化けのように後ろへ飛んで返って、以前の一間に置いてあった槍を手に取りました。

「待ってたんだ、両国橋の立札を川ん中へ抛り込んだのは俺らの仕業に違えねえ、さあ何とでもしてみろ、宇治山田の米友の槍を一本くらわせてやる」

米友の槍は、これを侮っても侮らなくても防ぐことはむずかしいものです。

「呀ッ」

内へ転げないで外へ転げた覆面の浪士は、米友の一槍で太股のあたりをズブリと刺されたらしい。

Chapter 4 of 15
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