Chapter 1 of 15

夜が明けると共に靄も霽れてしまいました。天気も申し分のないよい天気であります。幸内は能登守の屋敷から有野村の伊太夫の家へ迎えられることになりました。

有野村へ迎えられて幸内が、その今までの経過をすっかり物語りさえすれば、万事は解釈されるのでした。神尾主膳の残忍さ加減と、その屋敷にいる盲剣客の一種異様なる挙動とが、幸内の口から明らかになりさえすれば、それを聞く人々は或いは仰天し、或いは戦慄しながら、事の仔細を了解するはずでありました。けれども不幸にして、送り返された幸内なるものは、ただ送り返されたという名前だけに過ぎません。まだ屍骸というには早いけれども、とても生きた者として受取ることはできないほどであります。

幸内は口が利けないのみならず、手も利きませんでした。手が利かないのみならず、身体が利きませんでした。それらのすべての機関が働かないにしても、眼だけでも動けば、多少ものを言うのであろうけれど、その眼も昏々として眠ったままでいるのであります。ただ動いているのは、微かなる脈搏のみであります。

幸内の看病には、ほとんど誰も寄せつけないでお銀様ひとりがそれに当っておりました。駒井家から是々と聞いても、お銀様はそれを耳にも入れないのでした。駒井家の使の者に対してすらお銀様は、一言のお礼の挨拶をもしようとはしませんでした。殿様のことは無論、あれほど親しかったお君の身の上のことすらも尋ねようとはしませんでした。お君からは、お嬢様にくれぐれもよろしくと使の者の口から丁寧な挨拶があったのだけれど、お銀様はそれを冷然として鼻であしらって取合いませんでした。それよりも先に幸内を自分の部屋に近い、前にお君のいたところへ休ませて、その傍に附ききりの姿です。

お銀様はこんなふうに、ただに駒井家に対して冷淡であるのみならず、その冷淡の底には深い恨みを懐いて、深い恨みは強い呪いとなって能登守とお君との上に濺がれているのでありました。前には一種の僻んだ嫉妬でありました。今は骨髄に刻むほどの怨恨となっているのであります。せっかく運びかけた神尾家との縁談を、途中で故障を入れたのはあの能登守だという恨みは、お銀様の肉と骨とに食い入る口惜しさでありました。お銀様に向ってのすべての報告はみんな、この口惜しさを能登守とお君とに濺ぐように出来ておりました。なぜならば、支配の上席なる筑前様でさえも御承諾になっているものを、能登守がひとり、旗本の女房は同族か或いは大名でなければ身分違いだと言い立てたために、事が運ばないのだということに一致するからであります。

今時、そんなことはどうにでもなるのである。よしどうにでもならないにしたところで、自分の家の家柄はそれに恥かしいような家柄ではないものを、それを能登守から見下げられたということが、お銀様は腹が立ってたまりませんでした。

その上、そんなよけいな故障を言い立てた能登守自身はどうであろう、あのお君を可愛がって、うつつを抜かしているではないか。お君という女は言わば旅の風来者で、氏も素性も知れない女ではないか。自分ではその氏も素性も知れない女を可愛がって勝手な真似をしながら、人の縁談に鹿爪らしいことを言って故障を入れる、その心が憎らしいではないか。それにはきっと、お君が傍からよけいな入知恵をしているであろうとの邪推で、二人の憎らしさがいよいよ骨身に食い入って行くのであります。

「ねえ、幸内や、早く癒っておくれ、わたしはお前から聞いてみなければわからない、わたしもまたお前に聞いてもらわなければならないことがある」

その晩、お銀様の居間へ丸頭巾を被った父の伊太夫がやって来て、何か言っているようでありましたが、やがてその言葉がいつもよりも荒く聞えました。お銀様もそれに答えて二言三言なにか言いましたが、その声がやがて泣き声になってしまいました。

いつもの場合においては、お銀様が泣き声を出す時には、父の伊太夫の方で折れるのが例でありましたけれど、その晩はそうではありませんでした。

「お前のような不孝者はない、幸内をくれてやるから、それをつれてどこへでも行け、あとは三郎がおれば困ることはない」

父の伊太夫はこう言って苦り切っておりました。

「ようございますとも、ようございますとも」

お銀様の泣き声は甲走ってしまいました。

「わたしは先のお母さんの子ですから、わたしがいない方が家のためになります、三郎のお母さんと、わたしのお母さんとは違いますから、今のお母さんのためにも三郎のためにも、わたしがいない方がようございましょう、そうしてお父様は今のお母さんを大切になさいまし、わたしはどこへでも行ってしまいますからようございます」

お銀様は頭を振って泣きました。

「お銀、お前は何を言うのだ、自分の我儘を知らないで、いつもいつも、そういう言いがかりばかり言ってお父様を困らせようとしても、そうはお父様も負けてはいないよ」

「ええ、ええ、どう致しまして、わたしがお父様を言い負かそうなんぞと、そんなことがありますものですか、わたしはどこへでも行ってしまいますから」

「お銀」

伊太夫はいよいよ苦り切って、

「お前には、物が言えない、気を落着けてよくお聞きなさい、お前がそうして幸内の傍へ附ききりでいることが、世間へ聞えていいことだか悪いことだか、大抵わかりそうなものではないか。第一、家の者にまでわしがきまりが悪い。それから、あの神尾の縁談のことだといって、まだ話が切れたわけではなし、そんなことのさわりにもなるから、幸内を別宅の方へやって養生させたいと言うのは順当な話ではないか、無理のない話ではないか。それをお前が聞きわけないで、こうして幸内と一つ部屋のようなところへ寝泊りして、ほかの者には誰にも手出しをさせないというのは、あんまり我儘が過ぎるではないか。ね、よく考えてごらん」

ここに至って、やはり伊太夫は折れているのであります。噛んで含めるように、腫物に触るように繰返してお銀様を説いているのであります。

「幸内をわたしが看病しては悪いのでございますか、それでは誰に看病させたらよいでしょう、わたしでなければ本気になって幸内を見てやる者はないではございませんか、ほかの者はみんな幸内を嫉んだりにくがったりしているではございませんか」

「そんなことがあるものか」

「いいえ、そうでございます、この家では本心から、わたしの力になってくれる者は幸内のほかにはありませんから、わたしが幸内を大切にしなければ、大切にする者はないのでございます」

「ばかな!」

「ええ、わたしは馬鹿でございます。お父様、わたしをこんなに馬鹿にしたのは誰でございましょう、先のお母さんが生きておいでなさる時分には、わたしはこれほど馬鹿ではなかったのでございます、わたしもこれほど馬鹿ではなかったし、それに、わたしの……わたしの面もこんな面ではなかったのでございます。今のお母さんがいらしってから、わたしはこんな馬鹿になりました、わたしの面は……わたしの面は、こんな面になってしまいました」

お銀様は喚ッと泣き出しました。

「お銀、お前はまたそれを言うのか」

伊太夫は情けない面をして、泣き伏したわが娘の姿を見ていました。

「お父様、もうこれから二度と申し上げるようなことはございますまいから、どうか今晩は申し上げるだけのことを申し上げさせて下さいまし。先のお母さんは、わたしが十歳の時に病気で亡くなりました、わたしはその亡くなった時のことをようく存じております、世間では、今のお母さんが、先のお母さんを殺したんだとそう申しているそうでございます……」

「これ、何を言うのだ」

「お父様、それは嘘でございます、嘘でございますけれども、世間ではそんなに噂をしている者もあることは、お父様だってごぞんじでございましょう。お母さんは口惜しがって死にました。わたしは十歳でしたから、先のお母さんが何をそんなに口惜しがっておいでなすったのか少しも存じません、また誰もわたしに話してくれる人はありませんけれど、あの時分、お母さんのお口からそれとなく、わたしにお聞かせなされた二言三言が、今でも耳に残っているのでございます、それでなるほど、それはそうかと時々思い当ることがあるのでございます。わたしは先のお母さんがかわいそうだと思います。そうかと言って、わたしは今のお母さんに恨みがあるわけでもなんでもございません」

「あああ、困ったことだ、お前の僻み根性は骨まで沁み込んでしまっているのだ、情けないことだ」

伊太夫はなんとも言えない悲しそうな歎息であるのに、お銀様は、父の歎息に同情することがあまりに少ないのであります。

「お父様のおっしゃる通り、わたしの僻み根性は骨まで沁み込んでしまいました、モウどうしても取ってしまうことはできないのでございます。わたしももとからこんな僻み根性の子ではありませんでした、婆やなんかが時々噂をしているのを聞きますと、わたしの子供の時は、それはそれは可愛い子であったと申します、可愛い子で、情け深くて、どんな人でもわたしを好かない者はなかったそうでございます。それが今はこんなになってしまいました、わたしの姿がこんなになってしまうと一緒に、わたしの心も片輪になってしまいました。お父様、わたしの姿は、もう昔のような可愛い子供にはなれないのでございますね、それでも、こんな姿をしていながらも、わたしがこうして生きていられるのは誰のおかげでございましょう、幸内のおかげでございます。わたしがこの面を火鉢の火に吹かれた時に、幸内が飛んで来て助けてくれたから、それで命が助かったのは、わたしが十歳で幸内が十二の時、お父様もよく御承知でございましょう。わたしの面を焼いたのは、それは今のお母さんのなさったことだと、わたしは決してそんなことは思っていやしませんけれど……」

「な、なにを言うのだ、お銀、そ、そういうことがお前、お前として」

伊太夫も、さすがにせきこんで吃るのでありました。けれどもお銀様は冷やかなものであります。

「わたしの面はその時から、誰かのために殺されてしまいました。けれども幸内のために生命だけは助けられました、生命も助けられない方が、誰かのためにも、わたしのためにもよかったのでしょうけれど、助けられてみれば、こうして生きているよりほかはないのでございます。幸内に助けられた生命ですもの、幸内にくれてやっても差支えはございますまい、幸内に助けられた身体ゆえ、幸内に任せてしまっても誰もなんとも言えないはずではございませんか。世間がわたしと幸内のなかをうるさく言うなら言わしておきましょう、それがために縁談とやらの障りになるならならせておきましょう、お父様が今のお母さんをお好きのように、わたしも幸内が好きなんでございます」

伊太夫はついに全くその娘をもてあましてしまいました。ただに全くもてあましたのみならず、そのあまりに執拗な言い分に嚇と腹を立ててしまいました。

「お前がそれほど幸内が大事なら、幸内をつれて勝手にどこへなりと行きなさい、父はもうお前のすることについては何も言わぬ、お前もこれから父の世話にならぬ覚悟でいなさい」

と言い捨てて、座を蹴立てるようにして立去りました。

お銀様は父の立去る後ろ影を、凄い面をして睨めていましたが、

「ええ、ようございますとも、出て参りますとも、幸内をつれてどこへでも、わたしは行ってしまいます、お父様のお世話にはなりませぬ、死んでも藤原の家の者のお世話にはなりませぬ」

お銀様は歯噛みをしました。その有様は、父に対して言い過ぎたという後悔が寸分も見えないで、なお一層の反抗心が募ってゆくように見えます。

「幸内や」

お銀様は、幸内の寝ている枕許へ膝行り寄って来ました。

「いま聞いた通り、わたしはここの家にはいないから、お前、少しのあいだ待っていておくれ、わたしはお前をつれて行くところを探して来るから待っておいで、今夜のうちにもお前をつれて出て行ってしまいたいから、わたしはこれから心当りを聞きに出かけます、お父様にああ言われてみれば、わたしはもう一刻もこの家にはいられない、お前もいられまい、誰がなんと言っても、わたしはお前を連れて出て行ってしまいます」

お銀様は、やはり歯噛みをしながらこう言って幸内の寝面をのぞいていましたが、すぐに立って箪笥をあけました。それで、あわただしい身ごしらえをはじめたところを見ると、この娘はほんとうにたった今この家を出かけるつもりでしょう。帯の間へは例の通り懐剣を挟みました。そうして小抽斗から幾つかの小判の包みを取り出して、無雑作に懐中へ入れました。それからまた例の頭巾を被りました。

「いいかえ、わたしはこれから甲府へ行って、お前を引取るような家を探して直ぐにまた迎えに来るから、それまで一人で待っておいで。ナニ、お父様がかまってくれなくても、二年や三年お前と一緒に暮らして行くだけのお金は、わたしが持っているから心配することはない」

お銀様の手足が慄えているために、懐中へ入れた小判の包みをバタバタと取落して、それをまた懐中へ拾い込み、それがまた懐中からこぼれるのを、お銀様は慄える手先で拾って、狂人が物を口走るように独言を言いました。

「まあ、ずいぶんお前月代が生えているね。もしよそへ行く時に、それではあんまりだから、わたしが月代を剃って上げたいけれど、今はそんなことをしてはいられない。甲府へ行ったら、わたしは人を頼んでお前を迎えによこすから、わたしも附いて来るから、その時になってお父様がなんと言ったって、わたしは帰りゃしない、お前も帰さない。この家には、わたしがいない方がいいのだから、わたしがいなくなればみんな手を拍って喜ぶのだから、わたしがいないので、いなくなるので、それだから、わたしは……」

お銀様は、畳の上へこぼした小判の包みが手に触らないのであります。やっと拾ってまた懐中へ入れるとまたこぼれます。お銀様はとうとう、その幾つかの小判の包みのうち一つを取落したままで、行燈の火を細めて外へ出ました。

外は昨晩のように深い靄はありませんでしたけれども、闇夜であることは昨晩と少しも変りはありません。

お銀様が父と言い争っている時分から、この家の縁先の網代垣の下に黒い人影が一つ蹲まっていて、父子の物争いを逐一聞いていたようです。

伊太夫が怒って足音荒く立退いてしまった時分に、そろそろと縁先へ忍び寄って戸の隙間から、お銀様の挙動を覗いているようでありました。抱えるようにしていたけれど、両刀の鐺は羽織の下から外れて見えています。

お銀様が今、戸をあけて外へ出ようとした時に、この怪しい人影は、また前のところへ立退いて蹲まっていました。お銀様がどこともなく闇の中へ消えてしまった時分に、またその怪しの人影はそろそろ網代垣の下から身を延ばして、以前の通り縁先へ忍び寄り、それから雨戸へ手をかけました。お銀様のいま立てきったばかりの戸の裏には鍵をしてありません。それですから別段に音も立てずに一尺ばかり開くことができると、直ぐに中へ入ってしまいました。

なんの苦もなく障子を開いて座敷へ入った姿を見れば、紛れもなくひとりの武士です。それも小身の侍や足軽ではなく、多少の身分ありそうな武士です。多少の身分のありそうな武士が、こんな挙動をして人の家に忍び入るのは似合わしからぬことであります。けれども似合わしからぬことを敢てせねばならぬほどの危急に迫られたればこそ、こうして忍んで来たものと思わなければなりません。お銀様が細目にして行った行燈の傍へ行ってそれを掻き立てた時に、頭巾から洩れる面体をうかがえば、それが神尾主膳であったことは、意外のようで意外でありますまい。

主膳はソロソロと昏睡している幸内の枕許へ寄って来て、その寝顔を暫らくのあいだ見ていました。そうしてニッとして残忍な笑い方をしましたが、背中を行燈の方に向けて、幸内の枕許へ立ちはだかるようにしてしまったから、何をするのだか挙動が少しもわからないが、ただ懐から縄を出して扱くような素振をしたり、またそこらにあったものを引き寄せるような仕事をしているうちに、寝ていた幸内が、

「ウーン」

とうなり出したのを、主膳はその頭の上から蒲団を被せて抑えましたから、幸内のうなる声は圧し殺されたように絶えてしまいました。

それで静かになってしまうと、主膳はまた行燈の方へ向き直りましたが、幸内は蒲団を被せられてしまっているから、どうなったのかサッパリわかりません。ただ前よりは一層おとなしくなってしまったようであります。行燈の方へ向き直った主膳は、思わず小さな声で、

「あっ」

と言って自分の両の手先を見ました。その手先へ鬼蜘蛛のような血の塊がポタリポタリと落ちている。

「ああ鼻血か」

主膳は、仰向いて、その手を加減しながら自分の懐中へ入れて畳紙を取り出して面に当てました。いま主膳を驚かしたその血の塊は、外から出たのではありません、自分の鼻から出た鼻血でありました。けれども紙で拭いたその血を行燈の光で見ると夥しいもので、黒く固まってドロドロして、しかもそれが一帖の畳紙を打通して染みるほどに押出して、まだ止まらないのです。

神尾主膳は、そのあまりに仰山な鼻血の出様に、自分ながら怖くなったようでありました。鼻血を抑えながら、あたりを始末して以前の戸口からこの座敷を脱け出しました。

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