八
染井の化物屋敷はまた化物屋敷で、神尾主膳はあの時の井戸釣瓶の怪我からまだ枕が上らないで、横になりながら焦れきっています。眉間につけられた牡丹餅大の傷は癒着したけれども、その見苦しい痕跡ばかりは、拭っても、削っても取れません。
そうして時々思い出しては歯噛みをして、
「あいつ、お喋り坊主はどこへ失せおったかなあ」
取捉まえて八つ裂きにしてやりたいほどの口惜しがり方です。弁信の方にこそ怨みはあれ、神尾のこのていたらくは言わば自業自得に過ぎないのに、その逆さ怨みが、因縁ずくと思われるほどに骨身に食い入っていて、明暮、弁信を憎み憤っていたが、さてその後、弁信は再び彼の土蔵へは帰って来ませんでした。弁信が帰らないのみならず、それと一緒に出た竜之助も、あれからまた再び戻っては来ません。お銀様は、土蔵の中に引籠って、針で血を刺してはお経を写すことを、以前のように繰返しているらしい。
或る夜、神尾主膳は囈言のように、枕許にいた福村を呼んでこう言いました、
「福村、このごろ、毎夜のように、この屋敷へ狸が入り込むな」
「狸? そんなことはござるまい」
「夜中に眼が醒めると、狸の足音がする、耳を澄まして聞いていると、離れの方へ忍んで行くようだ、おれは、二晩までその足音を聞いた、この調子だと今夜あたりもやって来るぜ、取捉まえてやろうと思うが、足音だけが聞えて、身体が利かぬ」
「それは穏かでない、いったい、狸の足音というのを、どうして大将は聞き分けた、狸なら狸のように、もし人間であったら人間のように、ずいぶん打捨っちゃおけねえ」
と言って福村は、今更のように離れの方を見ました。離れには例のお絹がいます。
福村は気をつけていたけれども、その晩は狸の足音は聞えない代りに、遠からぬところで狸囃子の音が起るのを聞きました。
その翌日の晩もまた、お囃子の音が賑やかに宵のうちから響き出しました。この屋敷の界隈でも、例の踊りが流行り出したものです。
「うるさい百姓共だ、誰か行ってあれをさしとめて来い」
神尾主膳は病床のうちで、そのお囃子を焦れったがったけれども、ほかの連中はかえってそのお囃子で浮き立ちました。
踊りの同勢がこの化物屋敷の前へ来て、そこでまた盛んに踊り出している時に、
「喧しいやい」
神尾だけが焦れているけれども、そのほかの連中は面白がって出て見ます。
離れにいたお絹もまた、じっとしてはいられません。女中を連れて垣根からしきりに踊りを見物していたが、つい面白さに釣り込まれて、門の前へ出てしまいました。
「このお屋敷の中には、たしか八幡のお稲荷様がありましたぜ、お稲荷様の前で踊らせてもらいましょう」
「そういうことに願いましょう」
同勢は踊りの威勢で、化物屋敷の中へ混み入ってしまいました。もとより形の如き荒れ屋敷ですから、門と垣根の締りも厳重というわけにはゆきません。屋敷の中へ混み入った同勢は、庭の方へと踊って行き、提灯をブラ下げて、えいや、えいや、と踊りはじめました。
迷惑がった連中も、実はそれが面白いので、大いにおだてて踊らせたいくらいであるが、神尾主膳はその物騒がしさを聞くと赫と逆上しました。
「誰にことわってこの屋敷へ入った、追い返せ」
ひとりで喚いているけれども、誰も相手にする者がありません。
繰込んできた同勢は手を取り組んで、ここの木蔭や、かしこの築山の蔭で散々に踊ります。はじめのうちは頬冠りをしている者も多かったが、いつか知らずそれも脱けて落ちて、果ては自分の帯の解けて落ちたのを知らないで、踊り狂う女もありました。
「お屋敷のお方も踊りなさい、皆さん一緒に踊りましょう」
踊りの同勢は見物のすべてを踊りに巻き込まずにはおきません。それを巻き込んで行くから、おのずと同勢が殖えてゆくのです。
「どうも御苦労さまでした、また明晩も来て踊って下さい、待っていますから」
夜明け近くになって、踊りがいよいよハネようとした時に、お絹の挨拶がこうです。だから、いやでもその翌晩、この踊りの同勢が繰込まないという限りはありません。
果して翌晩、また同勢が押寄せて来たには押寄せて来たが、驚かされたことには、その多数の人が悉く、紙製の狐の面をかぶって来たことです。
「これから王子の衣裳榎へ行って踊ります、皆さん、後からいらっしゃい」
こう言って狐の面をかぶった者共が、この化物屋敷の前で、あっさり踊ると、今晩は屋敷の中へは入らないで行ってしまいます。多分これから王子の稲荷の衣裳榎とやらへ行って散々に踊るのでしょう。
その翌日になってみると大きな評判が立ちました。王子の稲荷の衣裳榎の下へ、関八州の狐が悉く集まるという噂であります。それで十里四方から狐火が炬火のように続くという噂であります。それを見物せんがために、江戸の市中をはじめ近在から集まる人が雲の如しという噂であります。ついには人と狐が一緒になって踊り出し、人が狐だか、狐が人だかわからないで踊り出すという噂がいっぱいに拡がりました。
これによって見ると、今年はたしかに豊年である。こうして衣裳榎へ多数の狐が集まるのは、それぞれの狐がみな官位を欲しがるからで、それと人間と一緒になって踊るのは、人間も狐も共に有卦に入ったのだという縁喜のよい解釈であります。今夜はまた昨晩よりは一層盛んで、これから毎夜の如く、人と狐の踊りがあるだろうという評判です。
化物屋敷の離れにいたお絹はその評判を聞くと、昨晩貰い受けた狐の面を取り上げて、女中を相手にその話をしていたが、今晩は王子の稲荷まで出かけてみようとの相談です。
お絹が王子稲荷の踊りへ出かけるという話を聞くと、べつだん誘いをかけたわけでもないが、化物屋敷に居合わせた御家人崩れの連中が、我も我もとお伴を志願することになった。ここから繰り出しただけでも十人余りです。
してみると、屋敷に残されたのは、神尾主膳ひとりであります。彼等は主膳に酒を飲ませておいて――ではない、主膳が昨晩から酒浸りになって、今は熟睡しているのをよいことにして、体のいい置いてけぼりを食わせて、みんな出払ってしまいました。こうなると、これらの連中はかなり薄情なものであります。
眼が醒めて神尾主膳は、しきりに水を呼びました。けれども、水を持って来るものはありません。返事をする者もありません。
神尾は病床でしきりに怒鳴りました。いくら怒鳴っても、今宵に限ってこの化物屋敷には人間一人いないのですから、神尾の怒鳴りも空雷に過ぎないのです。酒を多く飲めば酒乱の萌しがあり、今も飲んだ酒が醒めたというわけではないのですから、主膳は赫と怒り、一時に逆上せあがりました。病床からよろよろと這い出して、あぶない足を踏みしめると、長押にかけた槍を取卸しました。逆上すると槍を取るのが神尾の癖であります。
「騒々しいわい、者共、何が面白くって踊るのだ」
槍をしごいて縁側から庭へ飛んで下りました。けれども、今宵に限って誰もお危のうございますと言って止める者はありません。荒れ出した神尾主膳は、この手槍で真一文字に庭の石燈籠へ突っかけて行きました。それが真面に石燈籠へ当ったら、槍の穂先もポッキリと折れるのでしょうが、燈籠の屋根の上を掠めて流れたから、そのハズミで主膳は石燈籠へブッつかって、と後ろへ倒れました。
神尾主膳は、起き上って手近な植木を滅茶滅茶に突き立てます。主膳の眼には石燈籠も立木もみんな人間に見えて、当るを幸い、それを突き伏せていることに、少なからず痛快を貪っているようなあんばいです。幸か不幸か、いくら荒れ狂っても相手が石燈籠であり、植木であるから、手答えはあっても手向いはありません。それに、一家を挙げての留守と来ているから、荒れたい放題に荒れたところで、それを取押えようとする者がないから、神尾主膳は思うままにその酒乱と逆上とを発揮することができました。さりとて、先方が全然無抵抗であるとはいえ、もと、人間の暴力には限りがあるものであります。放っておけばおのずから疲れて、暴力そのものが無抵抗の中へ沈没してしまうにきまっております。神尾はついに綿の如く疲労してしまいました。それでも、水が飲みたくなると共に、井戸までのたって行くの本能だけは残っておりました。
例の井戸のところまでのたりついて行って、無暗に水を汲み上げて、釣瓶に口をつけてガブガブと飲んでいたが、いい加減飲むと共に、その残った水を頭からザブリと被り、
「ああ、いい心持だ」
つづいて釣瓶を繰り卸して汲み上げると共に、水をまた頭からザブリと被って、
「なんといういい心持なことだ」
釣瓶を卸して二杯三杯汲み上げては、それを頭から被り、頭から被っては、また汲み上げるのが、やはり正気の沙汰ではありません。五杯も十杯も十五杯も汲んでは被り、被っては汲み、その度毎に、車井戸の車がけたたましい音を立てて火の発するほどに軋ります。程遠からぬ庭の土蔵の二階には、この車井戸の音が大嫌いなお銀様が、もしいるならば、今頃もたしかに、血を刺して、お経を書いていなければならないはずです。
その水を汲むたびに井戸をのぞき込むと、神尾主膳は血管が裂けるほどに憤り出して、
「お喋り坊主、出て来い」
と怒号します。主膳の眼には、たしかにこの井戸の底にお喋り坊主がいて、減らず口を叩いて自分を、おひゃらかしでもするものと見ているらしい。
「お喋り坊主、貴様の言い草が、いまだに耳に残って不愉快千万でたまらぬわい、おそらく一生のうちに、貴様ほど不愉快な奴はなかろう、貴様のことを思い出すと、骨から肉が浮び出すほど忌になるわい、つべこべと尋ねられもしないお喋りを、井戸へ投げ込まれてまで喋りつづけている声が、地獄の底から迷うて来たもののように耳に残っている、思い出しても癇にさわってたまらぬ、貴様を引き出して、骨も身も一度に擦りつぶしてくれぬ上は、この癇が納まらぬわい」
神尾主膳はこう言って地団駄を踏みながら、しきりに水を汲み上げては被ります。その度毎に、弁信に対する恨みは骨髄に徹するもののように、身を戦かせるのであります。
果してお銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字の法華経を写して「我此土安穏、天人常充満」というところに至った時に、車井戸がキリキリと鳴り出したから、お銀様はゾッと身ぶるいをして筆を下へ置きます。
「お喋り坊主」
神尾の世にも口惜しそうな声が、そのいやな深夜の車井戸の響きと共に、お銀様の耳朶に触れると共に、お銀様の眼前に現われたのは、そのお喋り坊主の弁信の姿ではなく、甲州でむごたらしい虐殺に遇って、訴うるところなき恨みを呑んで横死を遂げた愛人の幸内が姿であります。
「お嬢様、あなたは幸内がかわいそうだと思召しになりませんか、もし幸内がかわいそうだと思召すなら、なぜ、あなたは神尾主膳を殺して下さらない、神尾を討って幸内の仇を酬いて下さらないのがお恨みでございます、倶に天を戴かずと申しますのに、私をなぶり殺しにした神尾主膳と、そうして同じ屋敷に住んでいていいのですか、それでこの世に残した幸内の恨みが消えると思召しますか、今も神尾主膳は、ああして私を苦しめています、あの車井戸の音がキリキリと軋るたびに、私の骨と肉がそれだけ擦り減らされて参りますのです、死んだ後までも、私がかわいそうだと思召すなら、どうか、あの車井戸の音だけでも差止めて下さい、ああ、苦しい、私は神尾主膳のために、鉄の熊手で骨と肉とを掻きむしられながら、地獄の底へ落ちて行くのでございます」
お銀様の耳には、車井戸の音も、神尾の怒号も、一つになって幸内が恨みとなって響いて来るのです。
「わたしは、あの車井戸の音がいやだ、夜更けにあの音を聞くのはいやだ」
お銀様は目を閉じて幸内の面影を見まいとし、耳をふさいで車井戸の音を聞くまいとしました。けれども車井戸は一倍けたたましく軋り、神尾の怒号は、耳をふさいでいるお銀様の両手をもぎ離すほどに烈しく鳴りはためいて、
「寝ても醒めても、貴様のお喋りが癇にさわってたまらない、井戸の中から出て来い、それとも土蔵の中に隠れているのか、土蔵の中に隠れているならば、土蔵の戸を押破って、この槍で突き殺してくれよう」
散々に井戸へ当り散らした神尾主膳は、投げ捨てた槍を拾い取って、この土蔵をめがけて突進して来ました。
神尾主膳は土蔵の引戸を手荒く引っぱったけれども、それは内から錠が卸してあって、引いても押しても容易にあくものではありません。
そのたびに激昂する主膳は、ドシンドシンと戸前にぶっつかりはじめます。果ては槍の石突で戸の隙をコジにかかります。けれども尋常の雨戸と違って、いったん、内から錠を卸した以上は、兇暴な力を以てしても外から打ちこわすわけにはゆきません。
自分の力いっぱいの暴力を利用したけれども、ビクともしないので神尾は、いよいよ激昂しているが、その激昂はいたずらごとで、この時分にはお銀様も、神尾の無駄骨折りを冷笑するくらいの余裕を持っておりました。破れるものなら破ってごらん、という驕れる態度を以て、お銀様は戸前で狂っている神尾主膳を笑止がっていました。
さりとて、お銀様のこの驕慢心が永く続くものではありません。常識を失っているとはいえ、兇暴の時には兇暴の知恵が働くものであります。
「坊主、お喋り坊主、中で押えてるな、小癪な奴だ、しっかりと押えてあかないようにしているな、よし覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるからな」
神尾主膳はこう言って、暫く暴力を中止しましたから、中でお銀様は、それ見ろと言わぬばかりの心持です。それは力の尽きた神尾主膳が、負惜みから言った捨台詞と思ったからです。この捨台詞で引上げて、母屋へ帰って寝込んでしまうのが落ちだろうと思ったからです。
果せる哉、それから後は扉へ突当る音もしなければ、押したり引いたりしてみることもなく、槍を隙間へ突込んでコジあけようとするような無茶な物音も聞えません。しかし、左様な物音が聞えないからといって、それは決して神尾主膳がこの場を去って、母屋へ引揚げたのではありません。神尾主膳は今もなお土蔵の周囲をうろうろしながら、よろめく足を踏み締めては酔眼をって、槍は片手に、そこらあたりから頻りに物を掻き集めています。その掻き集めている物というのは、荒れた庭内に落ちている杉の枯葉だの、木の枝だの、竹の折れだのという物を、手に任せて掻き集めているのであります。危なっかしい手つきで、それを掻き集めては例の土蔵の戸前へ持って来て、無暗に積むものだから、忽ち小山のように盛り上げてしまいました。
「占めた!」
最後に神尾主膳が、槍を投げ出して両手で抱え込んだのは一束の薪です。その土蔵の廂に高く積み上げてあった薪の束を発見したからのことで、それを発見すると神尾は占めたとばかり、槍を投げ出して、一束ずつ抱え出して、前に積み上げた枯葉や、木の枝の上へ、左右から立てかけたものです。
時分はよしと見た頃合に、主膳は、やはり本性たがわず、投げ出しておいた槍を手さぐりに拾い取って、
「坊主、覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるから後悔するな」
こう言って、今度は、たしかにこの土蔵の前を立去って、母屋の方へ行く足音がします。
お銀様は神尾の挙動がわからないから、この時も負惜みの捨台詞だろうと思って、やはり七分の冷笑気味でおりましたが、暫くして、また足音が聞え出したので、オヤと思いました。さても執念深い、力が尽きて、テレ隠しの捨台詞で、母屋へ逃げ帰って寝込んだものだろうと思っていたところが、たしかにまた、やって来た。
「さあ、どうだ、お喋り坊主、この蝋燭で焼き殺してくれるぞ」
その声を聞いたお銀様がたちあがらないわけにはゆきません。事実神尾主膳は、母屋へ行って蝋燭へ火をつけて来ました。さいぜんのガサガサは、実にこの土蔵の戸前を焼こうとする材料を集めていたのだと気のついた時には、決して好い心持はしません。
神尾主膳はたしか、提灯へ入れて持って来た蝋燭を裸にして、それを積み上げた枯葉と木の枝と薪の中へ突込んで、火をつけはじめたものです。それと覚ったお銀様がじっとしておられないのはその道理です。
主膳のやりそうなことであると思いました。酒に乱れて惨忍性を発揮せられた時の神尾は、たしかにそのくらいのことはやり兼ねません。また、そういう場合に限って、惨忍性を煽るには都合のよい知恵だけが働くように出来た神尾の性格を知っているだけに、お銀様の怖れが一層深くないということはありません。
この土蔵は一方口である。前に火をつけられると後ろへ逃げることができない。横にも縦にも、蹴破って走るというわけにもゆかない。二階に窓があるにはあるけれども、それは筋鉄が入って鉄の網が張ってある。逃げるのならば今のうちである。火の手のまだ揚らない先に内から戸を押開いて、そこを突破するよりほかは手段も方法も無いことです。聡明なお銀様がそこに気のつかないはずはありません。同時にまた走り出せば当然、神尾の網にひっかかることを覚悟しなければならないのを知らないはずはありません。神尾の憎んでいるのは盲法師の弁信にあるらしいけれど、さりとてこうなった時には、獲物の見さかいがあるべしとは思われない。土蔵の戸前を突破し得た時は、神尾の槍先が待っている。最後までここに踏みとどまって焼け死ぬか、それとも一刻を争うて突破を試むるか。お銀様は手早く身づくろいしました。同時に神尾の声高く笑うのが聞えます。
「アハハハハ、火水の苦しみとはこれだ、水の中へ投げ込まれて往生のしきれぬ奴が、火の中で焼け死ぬのだ、お喋り坊主、これでも出て来ないか」
パチパチと火の燃える音が聞えます。プスプスと枯葉のいぶる音も聞えます。土蔵の戸前は非常に厚味のある板を二重に張って、中には筋鉄が入って、上の部分がやっと日の目の透るほどの格子になっているから、そう容易く焼け抜けるとも思われないが、相手は火であるから、相当の時間と力が加われば何物をも燃やしてしまいます。それが燃える時分には、土蔵の中は煙でいっぱいになって、火で焼け死ぬ前に、人は煙のために窒息してしまわねばならないことは明らかです。
身仕度したお銀様は、この際に何を持って出ようとの分別はありませんでした。手に触れた一本の脇差を持って、土蔵の二階の梯子段を転がるように走せ下りました。
「お喋り坊主、何か文句があるならここで一番、喋ってみろ、久しく乾いているから、メラメラと赤い舌を出して小気味よく燃える、井戸の底へ投げ込まれて往生をしそこなうのと、火の中で苦しがるのとどちらがよい、貴様のために、この面体に生れもつかぬ大傷が出来た、それが憎いからこうしてくれるのだ、よく焼かれて往生しろ」
神尾主膳は濡れみづくになった身体で、燃えさかる火を望んでは喜び狂い、手に持った槍の石突を火の中へ突込んでは薪を浮かせて、火勢を煽ろうとしています。
頭から掻巻を被ったお銀様が、内から戸を押開いて、脱兎の勢いで、その燃えさかる火の中へ飛び出したのはこの時であります。
「熱、熱、熱」
お銀様は火を踏んで、掻巻もろともにその中を転がり出しました。
「熱、熱、熱」
同じように叫んで火の外に転がったのは、神尾主膳であります。
「熱、熱、熱、出たな坊主、熱」
お銀様も転がる、主膳も転がって起き上れない。勢いのようやく加わった火は炎々と燃え上ります。
頭から掻巻を被ったお銀様が、俵を転がしたように火の中を転がり出ると、それに驚いた神尾主膳が、同じように槍を持ったまま転がりました。
「出たな坊主」
それでも神尾の転がったのは、それと見定めてから転がったものらしく、転がっても槍は手放さないで、二三度もがいてから起き直った時に、その槍をとりのべて、眼前に転がり出した掻巻の俵を伸突きに突きました。
ところが慌てているから、槍の石突で突いてしまっているから、また槍を取り直す時にお銀様は、ようやく掻巻の中から脱け出すと、その鼻先に神尾の槍の穂の稲妻です。危うくその槍の穂先を避けましたけれども、神尾の足許も手先も狂いきって、繰りのべる槍も、手許へ引く槍も、すこぶる怪しいものとは言いながら、たしかにめざすものを見かけて突く槍です。ことに相当に鍛錬を積んでいる槍ですから、一つ逃れてまた一つです。それを逃れると、ひょろひょろしながらも、よろよろしながらも、ほとんど透間もなく、やっと掻巻から抜け出したばかりのお銀様の腰を立て直す隙もあらせず、神尾が突っかけて来る槍は凄いばかりです。
「誰か来て下さい」
さすがにお銀様は女ですから、こうなってみると我知らず叫びを立てました。
この叫びはかえって神尾にとっては、よい目標を与えたようなもので、得たりと畳みかけて突っかけるのを、幸いに梅の木があったから、それを廻り込んでお銀様は、またしても暫しの息をつきました。
その梅の木の前から諸突きにしてみたけれども、それが外れたと見え、神尾は左からねらって突きました。それも手答えがなかったために、右から覘って突いたけれども、お銀様の身には当りません。こうなると神尾は再び激昂を始めました。
お銀様と神尾とは、槎たる梅の大木を七たび廻って、追いつ追われつしています。
「誰か来て下さい」
ふたたびお銀様が叫びを立てた時分には、神尾とても、これが目的のお喋り坊主ではなく、日頃苦手のお銀様であったことに気がついたのでしょう。しかしながら、今となってはかえってそれが面白そうです。当の敵は変っても、苦しむことに変りはない。苦しめて興の多いことにも変りはないのだから、神尾は一層の惨忍なる好奇を振い起して、お銀様に槍を突掛け突掛けて、更に萎む色がありません。
梅の木の周囲をグルグル廻って必死に逃げているけれど、前に言う通り狂っているとは言い条、神尾の槍は相当の覚えのある槍であって、それに油を差した兇暴性が加わっているのだから、槍の筋は存外狂わず、その精力も容易には衰えません。お銀様は命からがら逃げ廻っているうちに、帯がほどけました。ほどけた帯を踏んで危うく倒れようとして帯に手をやった時、覚えずその手に触れたのが、土蔵の二階から駆け下りる時に手に触れた脇差であります。お銀様は帯をかいこむと一緒に、その脇差を抜き放ちました。片手では帯をからみながら、片手でその脇差を構えたのは多分、神尾の槍をあしらうつもりでありましょう。
こうして見るとお銀様には、どうも多少、武術の心得があるようです。女軽業の親方のお角ほどの女が、お銀様を怖れるのは、一つはお銀様の傍には大抵の時には脇差がひきつけてあって、話の調子によっては、いつそれが鞘走るか知れないような心持がすると話したことがあります。神尾主膳もその後、お銀様に対してはうっかり冗談もいえないと言ったのは、たしかにその用心があるらしいからです。
女だてらに脇差を抜いて、一方に槍を防ぎながらお銀様は、ようやく梅の木を離れて樫の木の後ろへ避けることができました。覚束ないうちに本性がいよいよ冴えて、神尾主膳は透かさずそれを追いかけました。
樫の木を移ってお銀様が、石燈籠の蔭へ避けた時に、神尾主膳はさながら絵に見る悪鬼の形相です。いかなるところへ逃げ隠れようとも、この怨敵を突き伏せずしては置かずという意気込みで、燈籠の屋根の上や、台石の横から無二無三に突き立てました。
形ばかりに脇差を構えたお銀様は、それを振閃かしては槍の穂先を逃れようとする。槍はしばしば流れ、手元はしばしば狂うけれども、その狂暴はいよいよ衰うることあるべしとも覚えません。ついに石燈籠もろともに、お銀様を縫いつけるのかと思われるばかりです。
お銀様は石燈籠の蔭から追いつめられたのが池の端です。池の汀を伝って逃げると巌石がある。後ろへすされば一歩にして水です。進退谷まったお銀様は、ついに脇差を振り上げて、勢い込んで追いかけて来た神尾主膳の面をのぞんで、その脇差を投げつけました。
その覘いは過たず、神尾の面上へ飛んで来たから、狂乱の神尾も落ちかかる刃を払わずにはおられません。それを槍の柄で払おうとして、あぶない足許が一層あぶなくなって、ついに堪らずと尻餅をついたのが、お銀様にとっては命の親でありました。
この僅かの間を利用してお銀様は、池の端を通って、橋を飛び越えて、一息に本邸の縁側へ飛び上って、障子を蹴開いて奥へ逃げ込みました。
つづいて起き上った神尾主膳は、同じように池を飛び越えて縁の上へはね上ったが、ここではお銀様が広い母屋のいずれの部屋へ逃げ込んで、いずれの方角から抜け出したかということは更にわかりません。
主膳がただ何事をか、しきりに怒号して間毎間毎を荒し廻っている音声が、外で聞くとものすごいばかりです。いつまでたっても例の槍ははなさず、間毎間毎を荒し廻りながら、襖といわず天井といわず、その槍の石突と穂先との両方でブスブスと突き立てたものです。
幸か不幸か、日頃は少なくも十人以上も、ごろごろしているはずのこの屋敷に、この晩に限って一人もおりません。今頃、彼等は王子稲荷の衣裳榎とやらで狐の面をかぶって、夢中になって化かしつ化かされつしているところでしょう。
こうして間毎間毎を存分に荒し廻った神尾主膳は、やや暫くあって、再び縁側から池のほとりへ身を現わしました。その吐く息は大風のように、身体の疲れきっているのは綿のようであろうとも、さいぜんからの主膳を物狂わしく働かせているのは、たしかに別に天魔波旬の力が加わっているのだから、絶え入らないところが不思議です。
再び池のほとりへ立っていた主膳は、やはり槍は持っていたけれども、獲物はありません。お銀様はついにいずれかの方角へ取逃がしてしまいました。
残念で、無念で、腹が立って、業が煮えてたまらない神尾主膳は、火のように燃える眼を瞋らして四方をながめる。その池の中がまた火のように燃えているのを認めました。池が燃えているのではない、この時分に、さいぜん焼き残しておいた土蔵の戸前の火が本物になって、炎々と燃え上り、その炎の色が、この池の水を真赤に染めているのです。
それと気がついて主膳が土蔵の方を見やると、植込の間から猛烈なその火勢がうずまきのぼる。火は土蔵の中へ侵入すると共に、その附近の木小屋へ燃えうつったものらしい。いよいよ本物の火事です。
その火炎の勢いを見て神尾がはじめて、やや溜飲を下げました。
暫くして手製の大炬火を持った神尾主膳は、土蔵に燃えている火を持って来て、本宅の戸と、障子と、襖と、唐紙へうつしはじめました。
そこで土蔵と本宅とが相呼応して燃え上ります。いかに燃え出しても、この家にはそれを消そうとするものがありません。附近の人々も大方は狐の踊りに出かけているところであります。ようやく人が騒ぎ出して火消が駈けつけた時分には、土蔵も、本宅も、大半は焼けて手のつけようがありません。暁方近くなって、お絹をはじめ踊りに出た連中が帰って見た時分には、土蔵も、本宅も、物置の類も、すっかり焼け落ちていました。