一
或田舍の町である。裏通の或一部を覗くと洗張屋が一軒庭へ布を張つてあつて其庭先からは青菜の畑があるといふので、そこらをうろつくの群が青菜の畑へ出るとほう/\とを追ふ百姓の叱り聲が聞かれる。春になると其の畑からさうしてそこらあたりに隱れて居た青菜が一時に黄色な頭を擡げてすつと爪立てをしてそれから白桃の花が垣根に咲いて、洗張屋は庭の短い青草に水を滾しながら引つ張つた布を刷毛でこすつて居る、とかういふ町の或横町である。其角に破れた酒藏が悲しげに立つて居る。此藏を建てた老人が太い木の杖を突いて乞食のやうな姿で歩いて居たのはまだ近い過去のことである。酒の仕込時といふと勿論冬の季節であるが、大竈の前へ筵を敷いてそこへごろりと成つた儘蒲團を一枚かぶつて夜を明すといふ位であつた。それが一旦眼を瞑つたら非道な金貸に其藏はそつくり奪はれてしまつた。其後金貸は自分が招いた或事件の爲めに苦役に服して長い間入牢して居るので酒藏へは手のつけるものも無い。草が蓬々と生える。瓦はこける。壁は崩壞する。大桶が幾つとなく壁の崩壞した所からあり/\と見える。丁度腐骨瘡といふ病に罹つたらこんな姿であらうかと思ふ程凄じい形である。横町の長い板塀は柱が朽ちてるのでふわ/\として時々其一部が倒れる。それを誰かゞ起しては繩で縛つて置くので繩の新しい結び目がそこにもこゝにも作られてある。此の板塀を前にした一構、それはさつきの洗張屋の庭先の青菜の畑からを追ふ叱り聲も時々は微かに聞かれるあたりであるが、そこに近頃開業した醫者がある。表の格子戸から患者は出入する。夜になると患者の控室になつて居る表の座敷の釣りランプの下で箱火鉢に倚り掛りながら藥局生が中央から分けた髮を光らせてパックを披いて見て居る。其側に火鉢を少し離れて醫服を著けた儘の若い主人が新聞を大きくあけて見て居ることがある。凍てがひどい冬の或晩のことである。同年輩の三十恰好の男の客があつた。控室の次の六疊の間で二人は炬燵をかけて居る。主人の醫者はまだ冷たい櫓の下で新聞紙の小さく折つたので頻りに炭を煽いで居る。藁屑の交つた粉炭の燻りは蒲團の裾から少し煙を立てる。炬燵の火がばち/\と起り掛けた時に醫者は醫服をとつて客の後ろの折釘へ掛ける。客と相對して居る欄間にはガラス張りの額が二つ懸けてある。一つは主人の醫者が出征の際に撮つた中隊の寫眞で一つは千葉の醫學校の卒業證書である。炬燵の側のランプの光が一方の額のガラス板から客の目へきら/\と反射する。頭を横へやるとランプの光は又一方のガラス板から反射する。そつちを見こつちを見して居ると醫者は和服に著換へてぐる/\と無造作に兵兒帶を締めながら
「君何だい」
と炬燵へはひる。衣物は唐棧の洗曝しでメリヤスのシヤツは目に立つ程垢づいて居る。シヤツは二枚も襲ねて居るので手首の所が思ひ切つて不恰好に太く成つて居る。藥局生は擬ひの相馬燒の茶器に茶を入れて來る。盆を下に置いて立ちながらだらりと下つた羽織の紐が茶碗を引きずつて行つた。茶を一杯啜つて
「こりや冷たい、どうも書生と二人切りだから不自由で仕やうがないよ」
と主人の醫者は苦笑した。さうして
「松田、おい松田」
と喚んでついと表の座敷へ行つて
「汁粉を一つとつて來てくれないか、おいひよつと立つてランプへぶつゝかつちやいけないぞ」
といつた。藥局生はがらりと格子を開けて出て行く。主客の間には炬燵の火力が増すに連れて雜談が始まる。時々其癖の髭の先を撚りながら主人の醫者がいふ。髭の先をちより/\と撚る時は若い者に普通なすぐに得意になる時である。客は平打の白い羽織の紐を手の平でふわ/\と動かしながら嫣然として居る。炬燵の側に引きつけられた臺ランプの光がぼんやりと丸く大きく天井へ映つて居る。其丸い光が靜かに二人を見おろして居る。格子戸がゞらりと開いて汁粉が來た。亂暴な運びやうをしたと見えて碗の蓋は傾いて汁が碗を傳ひてこぼれて居る。
「よけりや君みんなやつてくれ給へ」
主人がいふと
「大抵あるのぢや困らないぞ」
と客はふう/\と汁を吹きながらたべる。若い主人は箸も持たずに一寸一口やつて髭を左右へ拭ひながら先刻からの雜談をつゞける。
『寄宿舍を出て素人下宿に居た時だ。其下宿といふのは表は穀屋で隱居夫婦が内職にやつて居るのであつた。生徒といふと大抵は放蕩して居るといつていゝ位であるのに僕はまだ其頃は模範にされて居たのだから特別に待遇されて居たのであつた。其時分僕の二階に先生が暫く下宿をして居た。先生はヂストマの研究で學位を授かる筈になつて居たのだけれど自分の家から出ると方位が惡いとかいつてお母さんが心配するので孝行な人だからお母さんのいふ儘に別居して居たらしいのだ。何でも一の酉の晩であつたらしい。僕の部屋へ多勢集まつて互に肉とか酒とかを買つて來て牛飮馬食會をやつた。初めは遠慮して居たがたうとう詩吟もやれば劍舞もやる大騷ぎをしてしまつた。先生は二階に勉強をして居たのだ。他の生徒は歸つてしまふのだから平氣だが僕はみんな散會してぽつゝり獨りで殘つて見ると先生が非常に迷惑であつたらうとも思ふし一寸濟まない心持にも成つたから火鉢を持つて二階へあがつて行つた。火鉢に火が熾に起つて居たからである。さうすると先生は僕の顏を見ると突然
「君は成績の惡い生徒だらう」
といふ。僕は一寸癪に障つたから
「如何にも成績の惡い生徒でありませう、然しながら今日まで席順は八番九番を下つたことは唯一囘もありません」
とかう昂然としていつた。先生も少し當てが外れた。
「それでも生徒の身で酒を飮んで騷ぐ抔といふのは宜しく無い。そんなことでは腦を惡くして將來到底いかんだらう」
といふので平凡な講釋である。それから僕は他の生徒の如く蔭に隱れてはしない。公然として愉快をとるべき時にはとるといふので批難すべき處はあるまいといふと
「だがそれはそれとして君は僕と約束をしないか」
といふ。何だか分らなかつたが大にしませうといつたのである。
「それぢや僕の指揮に從つて勉強しないか」
といふので他に返辭もないから又大に仕ませうといつたのだ。先生は殊の外滿足である。其の頃ペストの流行があつたので先生は興に乘つてペストの噺を一時間もつゞけた。酒で頭は痛むしちやんとして聽いて居なくちや成らないだりひどい辛抱をさせられた。先生の噺が途切れた所で僕はランプの始末を忘れて居たと急に氣が付いたやうなことをいつて二階を降りた。それからといふもの夜は十時となると必ずランプを消さなくちやいかんといふことで少しでも遲くなると
「おい君、こくふ田君まだ起きてるのか」
と二階梯子段から呶鳴る。初めは先生は國府田をこくふ田といつて居た。朝は五時といふと先生が呶鳴る。
「こくふ田君まだ眠いか」
といつてどん/\と戸を叩く。二階の窓の戸である。忽ち響くから起きずには居られない。規律の立つた人だから一遍でも捨てゝは置かぬ。先づさうされたから自然勉強も出來るし先生も隨つて非常に身を入れてくれる。卒業の後には助手にしてやらうとまでいつて居たものだ。それが先生がまだ下宿に居るうちにたうとう墮落してしまつたのだからいひやうは無いのである。遊びに行くのが面白く成つたのだから駄目なのである。それでも先生の目につく處では勉強しなくちや成らなかつたから先生の下宿に居るうちはまだよかつた。夜は十時にならぬうちにランプを消して置く。それには豫め戸を少し開けて置いて蒲團にくるまつて居る。梯子段からのぞいて先生のランプが消えると其時すつと拔けて塀を乘り越えて出て行く。さうして夜の明けぬうちに歸つて冷たい蒲團へもぐり込んで居る。先生はちつとも知らないから五時になると戸を叩く。まだ眠いかといつてはどん/\と叩く。實際眠いのだから隨分苦しかつた。或晩のこと例の如く塀を越えて遊びに行つて居るとヂヤン、ヂヤンと半鐘が鳴る。何處だといふとどうも僕の下宿の近くらしい。しまつたと思つてせつせと駈けて來た。見ると近くは近くだが僕の下宿ではない。藝者町だといふので飛んで行つて見たくて堪らない。所が下宿の婆さんに捉まつた。まあよく戻つてくれました。内では書生さんがみんな出てしまつたので私一人ではら/\して居たんです。なんぼあなたが心強いか知れません。どうぞ私を助けると思つて居て下さい。先生もお宅が心配になるからつてお出掛になつた處です。どうぞ後生ですからと袂をぎつしり捉へて離さない。空は一杯に赤く焦げて火の子がもろ/\と吹き上つて居る。ごう/\といふ騷ぎが聞える。醫學校の生徒が飛び込んで藝者の三味線を擔ぎ出した抔といふことであつたさうだが僕は其の時氣が氣でない。だが仕方がないから婆さんと表に立つて居ると先生も其内に歸つて來て僕の居たことを非常に悦んだ。先生は僕をすつかり信じて居たのだから慌てゝ駈けて來て婆さんにつかまつたのだとは思はない。外の書生は飛び出すのに僕一人が守つて居たのは感心だと思つたらしかつた。そこになると先生は疎いのである。其後先生は方位の何かゞ解けたのだらう自宅へ引き移つた。荷物を運ぶ手傳ひをして日曜一日を潰した。先生が居なくなつてからはもう僕は自由自在である。然し報いは覿面で俄然三十六番に落ちてしまつた。先生は驚いた。だが其時は病氣であつたからといふので一時先生を瞞着して居た。それでも何時までも欺きおほせることは出來なかつた。或時先生の試驗があつた。口頭で應答するのだからどうにか先の奴の眞似をして饒舌つたが逐うつかり捉つてしまつた。發疹窒扶斯と膓窒扶斯との鑑別診斷でぐつと行詰つてしまつた。ほんの少しの處であつたが分らなかつた。先生は疎い人だが學問の方になると非常に鋭敏だから到底欺くことは不可能であつた。君は墮落したなと先生は唯一言いつた。僕は冷水を浴せられたやうに感じた。さうしてちらりと先生の顏を見上げると先生は姿勢正しく直立した儘ぢつと僕を睨んで居た。先生はそれつきり云はなかつた。僕は身體がひどく小さく蹙められたやうで氣が疎くなつたやうで他の生徒の竊かに冷笑するのをやつと聞いたのであつた。
千葉も最初は愉快であつた。學校の庭から遠く海を隔てた相州あたりの山々を得意になつて望んだものだが卒業の時にはたう/\六十八番に下落してしまつたのである。どうかすると大に發奮することもあつたが一旦墮落してはもう再び舊位置にかへることは出來ないものである。借財を背負つた身體を兄に曳かれて千葉を出たといふ姿で父兄への信用は其時失墜してしまつたのだ。迂濶なことであるが父でも兄でも僕が机一つなくなつて埃だらけな酒樽の轉がつて居る所にぽつさりと居ようとは思はなかつたのである。料理屋でも無闇に貸すのですつかり重荷を背負つたのであつた。今日こんなに郷里へ燻ぶつて束縛されて居るのも其時の祟りがあるのである』
若い醫者は一寸口を噤んで碗の底に吸ひ殘した汁粉の汁を右の手から啜つて妙な手つきで左の手で箸を持つて冷たくなつた餅を噛つた。さうして汲んであつた冷たい茶を啜つた。此時まで臺ランプの下で右の肘を突いて身體を横にして聞いて居た客は徐ろに起きて一つ殘つて居た汁粉の碗へ手を懸ける。碗のいとじりが小さな輪を膳の上に描いた。客は醤油の浸みた菜漬を旨さうに噛んでやがて冷えた鐵瓶から急須へ注いで其鐵瓶を炬燵の火へ懸けた。さうして
「君足を出して引つくりかへしちやいけないぜ」
といつた。
「僕もこんな所で開業する料簡はなかつたんだがな」
と若い醫者はハンケチで髭を扱きながらいつた。
「然し事情といふものはすつかり自分を弱くしてしまふもんだからな」
若い醫者の顏には此時僅かながら苦痛が浮んだ。
天井の丸い明りはほつと息をついたやうな形で、さつきの位置から依然として二人を見おろして居る。