Chapter 1 of 4

ある晩、久助君は風呂にはいっていた。晩といっても、田舎で風呂にはいるのは暗くなってからである。風呂といっても、田舎の風呂は、五右エ門風呂という、ひとりしかはいれない桶のような風呂である。

久助君は、つまらなそうに、じゃばじゃばと音をさせてはいっていた。風呂の中でハモニカをふくことと、歌をうたうことは、このあいだお父さんから、かたく禁じられてしまったのである。「風呂の中でハモニカをふいたり、鼻歌をうたったりするようなもんは、きっとうちの屋台骨をまげるようになる」とお父さんはいった。久助君は、加平君ところの牛小屋が、いぜん、だんだん傾いてきて、壁がかえるの腹のように外側にふくれ、とうとうある日つぶれてしまったのをよく知っていたので、自分の家があんなふうになるのはかなわないと思って、ハモニカも歌もやめてしまったのであった。

ハモニカと歌をとりあげられてしまうと、風呂は、久助君にとって、おもしろくないことであった。何もすることがなかったのだ。

そこで久助君は、何か一つ考えてみることにした。

しかし考えというものは、さあ考えようといったって、たやすくうかんでくるものではない。いったいなんのことを考えたらいいだろう。

――さて何を考えよう、と久助君が、自分の耳をひっぱったときに、じつにすばらしい考えのいとぐちがみつかった。

耳のことである。花市君の耳のことである。

花市君は、ふつうの人より大きい耳をもっている。その耳は肉があつくて、柔らかくて、赤い色をしている。その二つの耳が、花市君の、まんまるな、お月さんのような顔の両側に扇子をひらいたようなぐあいについている。花市君はいつも、二つの耳のあいだで、眼をほそくしてにこにこしているのである。

久助君たちは、よくこの花市君の耳をさわるのである。むろん久助君ばかりではない。村の子ども――といって、花市君より上級の者ばかりだが――は全部、そういうことをするのである。ほんとうは久助君は、自分からすすんでそんなことをしたおぼえはない。ただ、ひとがするので、まねてするばかりである。

花市君の二つの耳というのが、また、みるとなんとなくさわりたくなってくるのだ。猫の背中をみると、人はなでたくなるし、赤ん坊の小っちゃい手をみると、人はそれをいじってみたくなる。それと同じで、久助君たちは花市君の耳をみると、さわりたくてむずむずしてくるのであった。

もしだれかが、久助君の耳をさわりにきたら――そんなことがたびたびあったら、久助君は憤慨するだろう。「ぼくの耳はおもちゃじゃないぞ。ばかにするねえ!」といって、相手をつきとばすだろう。久助君じゃなくても、徳一君にしても兵太郎君にしても音次郎君にしてもそうだろう。

ところが花市君は、いままで、おこったことがいちどもなかった。あんまり、みんなが、うるさく耳をさわりはじめると、「いたいよ」といってにげだすことがあったが、そんなときでもにこにこしていた。そこで、久助君たちは花市君の耳をいじることだけは、特別の法律でゆるされているように考えているのである。

いったい花市君は、あんなことをされるとき、何を考えているだろうか。にこにこしているところをみるとおこってはいまいが、何を考えているかはわからない。

わからないといえば、久助君たちはあまり花市君のことを知らないのだ。この村から、町の国民学校(この村は小さいので国民学校がない)に通うものは男が十八人、女が九人であるが、男の十八人のうちで、五年級にいるものは花市君ひとりである。久助君、徳一君、兵太郎君、音次郎君たちはみな六年級である。だから、花市君が、学校でよくできる生徒かどうかということも久助君たちにはわからなかった。それに花市君はにこにこしてばかりいて、あまり口もきかなかった。それで、みんなからわすれられてしまうこともあった。

しかし、こんなこともあった。ある雨の日に、五年と六年とが教室で戦争ごっこをした。久助君は俘虜になって五年の教室につれられていった。すると、そこの壁に図画が五六枚はってあった。どれもみなうまかったが、一ばん上にはってある山の水彩画は、久助君の眼をひきつけた。色が豊かで、たいへん美しかったのである。久助君も図画はとくいであったが、この画のように色を大胆に豊かにぬることはできなかった。この画にくらべると、自分の画は、何か、かさかさしていて貧相であった。久助君が、そっと、あれはだれの画かときいてみると、花市君のだということであった。

そんなこともあったが、じき久助君はわすれてしまったのだ。そして花市君をみれば、みんなといっしょに耳をさわらしてもらっていたのである。……

「久は、ちっとも音をさせんが、まさか風呂の中で死んどるんじゃあるめえな。」

とお父さんの、いっているのが聞こえてきた。

久助君はあわてて、じゃばッと外に出た。すこし考えすぎたようである。体がまっかになっていた。

Chapter 1 of 4