Chapter 1 of 100

石川啄木

やはり、平次誕生から、はじめなければ、ならないかも知れない。

が、それは、あまりにも書きすぎた。いずれは触れることとして、ここではまず、古い友人たちから筆を起こそう。

県立盛岡中学……つい一月ほど前、「わが母校わが故郷」とかいうテレビの番組に登場したので、午後九時絶対就寝の私も、この日ばかりは大いに奮発して、夜の十一時まで、眼をあけていたが、昔は、あんな立派な校舎ではなかった。

木造の、少々よぼよぼした教室から、雨天体操場へ廊下つづきになっている。そのうす黒い羽目板の下を歩いていると、うしろから肩を叩いたやつがある。振り返るとクラスメイトの及川古志郎だ。

及川は、のちに海軍大将になったが、当時は文学青年で、妙に新しがった短歌なんぞをいじくっていた。

その及川が、ニヤリとして、

「野村。お前に、こいつを紹介するよ。石川といって、一年下だが、何か書いているそうだ。見てやってくれないか」

みると、及川の横に、こまっちゃくれた少年がいる。私も、及川も、身体は大きい方だったが、それにくらべると、三分の一もないくらいで、骨組みや腕ッ節になる養分が、ことごとく知恵の方へ回ったという顔をしていた。これが、石川啄木との、初対面だった。

その時、直してやった新体詩は、字句は忘れたが、正直なところ、おそろしく下手くそだな、と思った。後年、あんなに有名になろうとは、もちろん、夢にも考えなかった。

しかし、これが縁で、一緒に校友会雑誌の編集をやったり、家へ遊びに行ったり、来たりした。啄木の父親は、内気のように見えて、不思議に気概のある顔をしており、母親は口数も少く、何時もひかえ目に、すわっていた。

啄木の友人も、年々すくなくなり、今では金田一京助博士をはじめ、片手の指にも足りないだろう。啄木という男は、社会人としては、厄介な人間であった。ほら吹きで、ぜいたくで、大言壮語するくせがあり、まことにつき合いにくかったが、その半面、無類の魅力を持った人間でもあったのである。おしゃれで、気軽で、少し陽気すぎるほどで、そして何よりも美少年であった。異性の友人を吸いよせただけでなく、のちには啄木と絶交した人たちも、一度は彼の不思議な魅力に傾倒していたはずである。

その上、啄木の才能は非凡であった。中学二、三年までは秀才中の秀才であり、その後は文学少年らしい怠け者になってしまったにもかかわらず、英語も相当読みこなすし、ヴァクナーからメレジュコフスキーに入り、さらにクロポトキンへ歩んだことは、彼の遺した大学ノートに明らかである。

私が卒業して東京へ出ると、あとを追うように啄木も上京した。そして二度目の交際がはじまった。彼は歌は作るが俳句は駄目。こっちは俳句に没頭して、歌を相手にしないから、芸術論などたたかわせた覚えはないが、それでも可なり交渉があった証拠には、啄木の書いた手紙が二十四通たまっていた。今では十二、三通しか残っていないが、その中の一通に借金の詫び状がある。啄木が病んで郷里の渋民村に帰る時、三円だか五円だかを貸した時のである。字も立派だし、表装して保存しているが、今となっては、私のあらゆる骨董品よりも尊いものになってしまった。

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