Chapter 1 of 10

小石川水道端に、質屋渡世で二萬兩の大身代を築き上げた田代屋又左衞門、年は取つて居るが、昔は二本差だつたさうで恐ろしいきかん氣。

「やい/\こんな湯へ入られると思ふか。風邪を引くぢやないか、馬鹿々々しい」

風呂場から町内中響き渡るやうに怒鳴つて居ります。

「ハイ、唯今、直ぐ參ります」

女中も庭男も居なかつたと見えて、奧から飛出したのは伜の嫁のお冬、外から油障子を開けて、手頃の薪を二三本投げ込みましたが、頑固な鐵砲風呂で、急にはうまく燃えつかない上、煙突などといふ器用なものがありませんから、忽ち風呂場一杯に漲る煙です。

「あツ、これはたまらぬ。エヘン/\/\、其處を開けて貰はう。エヘン/\/\、寒いのは我慢するが、年寄に煙は大禁物だ」

「何うしませう、ちよつと、お持ち下さい。燃え草を持つて參りますから」

若い嫁は、風呂場の障子を一パイに開けたまゝ、面喰らつて物置の方へ飛んで行つて了ひました。

底冷のする梅二月、宵と言つても身を切られるやうな風が又左衞門の裸身を吹きますが、すつかり煙に咽せ入つた又左衞門は、流しに踞まつたまゝ、大汗を掻いて咳入つて居ります。

その時でした。

何處からともなく飛んで來た一本の吹矢、咳き込むはずみに、少し前屈みになつた又左衞門の二の腕へ深々と突つ立つたのです。

「あツ」

心得のない人ではありませんが、全く闇の礫です。思はず悲鳴をあげると、

「何うした何うした、大旦那の聲のやうだが」

店からも奧からも、一ぺんに風呂場に雪崩込みます。

見ると、裸體のまゝ、流しに突つ起つた主人又左衞門の左の腕に、白々と立つたのは、羽ごと六寸もあらうと思ふ一本の吹矢、引拔くと油で痛めた竹の根は、鋼鐵の如く光つて、美濃紙を卷いた羽を染めたのは、斑々たる血潮です。

「俺は構はねえ、外を見ろ、誰が一體こんな事をしあがつた」

豪氣な又左衞門に勵まされるともなく、二三人バラバラと外へ飛出すと、庭先に呆然立つて居るのは、埃除けの手拭を吹流しに冠つて、燃え草の木片を抱へた嫁のお冬、美しい顏を硬張らせて、宵闇の中に何處ともなく見詰めて居ります。

「御新造樣、何うなさいました」

「あ、誰か彼方へ逃げて行つたよ。追つ驅けて御覽」

と言ひますが、庭にも、木戸にも、往來にも人影らしいものは見當りません。

「こんな物が落ちて居ます」

丁稚の三吉がお冬の足元から拾ひ上げたのは、四尺あまりの本式の吹矢筒、竹の節を拔いて狂ひを止めた上に、磨きをかけたものですが、鐵砲の不自由な時代には、これでも立派な飛道具で、江戸の初期には武士もたしなんだと言はれる位、後には子供の玩具や町人の遊び道具になりましたが、この時分はまだ/\、吹矢も相當に幅を利かせた頃です。

餘事はさておき――、

引拔いたあとは、つまらない瘡藥か何かを塗つて、其儘にして置きましたが、其晩から大熱を發して、枕も上がらぬ騷ぎ、曉方かけて又左衞門の腕は樽のやうに腫れ上がつて了ひました。

麹町から名高い外科を呼んで診て貰ふと、

「これは大變だ。併し破傷風にしてもこんなに早く毒が廻る筈はない――吹矢を拜見」

仔細らしく坊主頭を振ります。

昨夜の吹矢を、後で詮索をする積りで、ほんの暫らく風呂場の棚の上へ置いたのを、誰の仕業か知りませんが、瞬くうちになくなつて了つたのです。

「誰だ、吹矢を捨てたのは」

と言つたところで、もう後の祭り、故意か過ちか、兎に角、又左衞門に大怪我をさした當人が、後の祟りを恐れて、隱して了つたことだけは確かです。

「それは惜しいことをした。ことによると、その吹矢の根に、毒が塗つてあつたかも知れぬて」

「え、そんな事があるでせうか」

又左衞門の伜又次郎、これは次男に生れて家督を相續した手堅い一方の若者、今では田代屋の用心棒と言つていゝ程の男です。

「さうでもなければ、こんなに膨れるわけがない。この毒が胴に廻つては、お氣の毒だが命が六づかしい。今のうちに、腕を切り落す外はあるまいと思ふが、如何でせうな」

斯う言はれると、又次郎はすつかり蒼くなりましたが、父の又左衞門は、武士の出といふだけあつて思ひの外驚きません。

「それは何でもないことだ。右の腕一本あれば不自由はしない、サア」

千貫目の錘を掛けられたやうな腕を差出して、苦痛に歪む頬に、我慢の微笑を浮べます。

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