Chapter 1 of 8

「八、花は散り際つて言ふが、人出の少くなつた向島を、花吹雪を浴びて歩くのも惡くねえな」

錢形平次は如何にも好い心持さうでした。

「惡いとは言ひませんがね、親分」

「何だ、文句があるのかえ」

「斯う、金龍山の鐘が陰に籠つてボーンと鳴ると、五臟六腑へ沁み渡りますぜ」

「怪談噺てえ道具立てぢやないよ。見ろ、もう月が出るぢやないか」

「へツ、へツ、眞つ直ぐに申上げると、腹が減つたんで」

ガラツ八の八五郎は、長い顎を撫でました。涎を揉み上げると言つた恰好です。

「もう食ふ話か、先刻あんなに詰め込んだ團子は何處へ入つたんだ」

「それが解らないから不思議で、――何しろ竹屋の渡しから水神まで三遍半歩いちや、大概の團子腹がたまりませんよ」

「泣くなよ八、風流氣のない野郎だ」

錢形の平次と子分の八五郎は、こんな無駄を言ひ乍ら、向島の土手を歩いて居りました。

晝のうちは、落花を惜む人の群で、相當以上に賑ひますが、日が暮れると、グツと疎らになつて、平次と八五郎の太平樂を紡げる醉つ拂ひもありません。

丁度牛の御前のあたりへ來た時。

バタバタと後から足音がして、除け損ねた八五郎の身體へドンと突き當りました。

「危ねえ、後から突き當る奴もねえものだ。何をあわてるんだ」

「御免下さいまし」

振り返つたガラツ八の袖の下を掻潜り樣、ト、ト、トと前へ、物に驚いた美しい鳥のやうに驅け拔けたのは、紛れもなく若い女です。

「どつこい、待ちねえ。胡亂な奴だ」

後ろから伸びた八五郎の手は、その帶際を無手と掴みました。

「急ぐ者で御座います。お許しを願ひます」

女は花見衣の袖に顏を埋めて、堤の夕闇に消えも入りさうでした。

「懷中物の無事な顏を見ないうちは、うつかり勘辨するものか」

八五郎は遊んで居る片手を働かせて、内懷から腹掛の丼から、犢鼻褌の三つまで搜つて居ります。女巾着切と思込んだのです。

「八、何てえ事をするんだ。見れば御武家方に御奉公して居る御女中のやうだ。無禮があつてはなるまい」

平次は見兼ねて肩を叩きました。

「へエ、巾着切ぢやありませんかえ。花時の向島土手で、不意に後ろから突當るのは、巾着切と決つたやうなものだが」

ガラツ八は漸く手を放します。

「飛んでもねえ野郎だ。――お女中、勘辨してやつて下さい。こんな解らねえ野郎でも、役目があるもんだから」

「ハイ、イエ」

女はひどく恐縮して、二人へ辯解をするともなく、顏の袖を取りました。堤の掛行燈は少し遠過ぎますが、丁度田圃の上へ出た月が、その素晴らしい容貌を、惜みなく照し出します。

「お急ぎのやうだ、構はず行きなさるが宜い。まだ花見の往來があるから、物騷なことはあるまい」

「有難う存じます。船がツイ竹屋の渡の手前に待つて居りますから」

「それぢや、ほんの一と丁場だ、――送つて上げるのも氣障だ。醉つ拂ひか何かに絡み付かれたら、大きな聲を出しなさるが宜い」

平次は月明りのまだよく屆かない橋の下陰を透し乍ら、行屆いた注意を與へて居ります。

「錢形平次親分といふ荒神樣が附いて居るんだ、――とな」

「餘計な事を言ふな、馬鹿野郎」

「へエ」

ガラツ八の凹む顏を見て、女は始めて微笑みましたが、其儘物優しく小腰を屈めると、踵を返して竹屋の渡しの方へ急ぎます。

土手の人足は至つて疎らですが、川面は夜櫻見物の船が隙もなく往來し、絃歌と歡聲が春の波を湧き立たせるばかりです。

「何か間違があつたらしいな」

平次は三圍の前に來た時、堤の下を覗きました。其處に繋いだ一艘の屋根船の中には、上を下への大騷動が始まつて居るのです。堤の上からは若い武家が一人、それを覗いて居るのを見逃す平次ではありません。

「行つて見ませうか、親分」

ガラツ八の職業意識は燃え上りました。

「放つて置くが宜い、武家の遊山船だ。――町方の岡つ引が口を出す場所ぢやねえ。第一後がうるさいよ。それよりは堤の上から一生懸命、船の樣子を見て居る、若い武家の人相を覺えて置くが宜い」

平次は其儘そつぽを向いて通り過ぎます。

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