Chapter 1 of 5

その頃の不忍の池は、月雪花の名所で、江戸の一角の別天地として知られました。池の端に軒を連ねた出逢茶屋は戯作、川柳にその繁昌を傳へる江戸人の情痴の舞臺ですが、池のほとりを少し西へ取つて茅町一丁目、二丁目へかけては一流の大町人、大藩の留守居など、金を石つころほどにも思はぬ人達の寮や妾宅など、不氣味な靜けさと、目に餘る贅澤さで、町家に立ちまじつて五軒十軒と數へられます。

その寮の中でも、湯島寄りに建つてゐるひときは目立つた構へは、横山町の金物問屋鹿野屋文五郎の控家で、そこに主人の文五郎は、女房のお八尾、その弟の駒吉の外に、二人の妾お關、お吉とともに、同じ屋根の下に、豪勢で、不倫で、贅澤で、惧るゝことを知らぬ暮しをしてゐるのでした。

その妾の一人、お關といふのが、自分の部屋、――池に面した二階の六疊で、自分の喉笛を掻き切つて死んでゐたのです。

時は八月十六日の夜、主人の文五郎は、横山町の店へいつてその日は歸らず、若い番頭の源助といふのが、店から主人の言傳を持つて夜遲くやつて來ましたが、丁度、二人の妾お關とお吉の、深刻極まるり合ひの仲裁をして、用心棒代りに泊り込んだ晩の出來事だつたのです。

翌る十七日の朝、下女のお兼が、階下の部屋の掃除をして、

「あツ血!」

天井から漏れて、斑々と疊を染めてゐる赤黒い血溜りに膽を潰したのも無理のないことでした。

「何んだ、騷々しいぢやないか」

眞つ先に廊下から顏をだしたのは、内儀の弟の駒吉でした。もう三十に手の屆く立派な男ですが、立派過ぎて世間に通用せず、姉の厄介になつて、良い若い者の癖に、この寮の用心棒代りに飼はれてをります。

といふのは、智慧も辯舌も人並以上にできてをり、顏立もそんなに醜くはありませんが、生れながらの頑固で、酒も呑まず煙草も喫はず、女遊びは言ふまでもなく、物見遊山にも行つたことのないといふ變り者で、朝から晩まで一と間にこもつて、古聖賢の有難い經書史書から、黄表紙、好色本、小唄、淨瑠璃本までを渉りつくし、智慧と理窟が内訌して、滅多に俗人とは口もきかないといふ恐ろしい偏屈人になつてしまつてゐるのでした。

「あつ、二階ぢやないか」

後ろから首を出した、若い番頭の源助は、早くも事情を察して、梯子段を二つづつ踏んで、二階へ飛び上がります。

これは駒吉より三つ四つ年上ですが、商賣で叩き上げてゐるので、理窟よりは行動の方が早く、駒吉が首を捻つてゐる間に、その血の滴り落ちたもと――二階のお關の部屋に事ありと見たのでせう。

「わツ、大變。お關さんが」

唐紙を開けて、敷居際へ突つ立つたまゝ、源助は怒鳴りました。六疊の小意氣な部屋で、寢具の贅も眼を驚かしますが、中はまさに血の海、妾のお關はその中に、自分の布團の上にあふむけに倒れ、あられもない姿でこときれてゐるのです。

騷ぎを聞いて、一と間置いて隣りの部屋にゐるもう一人の妾のお吉と、階下にゐる本妻のお八尾、それに下男の半次まで飛んで來ましたが、お關の死體の凄まじさに近寄り兼ねたものか、それとも、日頃の憎しみがさうさせたのか、一人として進んで介抱する者もなく、しばらくは眞つ蒼な顏を見合せて、默りこくつて、相手の出やうを見るばかりです。

やがて、氣を取直したらしい下女のお兼は、年嵩らしく眞つ先に入つて行つて、床の上に血塗れの死體を抱き起しました。傷は左の喉笛に一ヶ所だけ、血潮に汚れてはをりますが、死顏は思ひのほか穩やかで、身扮は晝のまゝ、あふむけになつて足を投げ出してゐるほかには、大した崩れもありません。

Chapter 1 of 5