一
江戸八百八丁が、たつた四半刻のうちに洗ひ流されるのではあるまいか――と思ふほどの大夕立でした。
「わツ、たまらねえ。何處かかう小鬢のあたりが焦げちやゐませんか、見て下さいよ」
一陣の腥さい風と一緒に、飛沫をあげて八五郎が飛び込んで來たのです。
「あツ、待ちなよ。そのなりで家の中へ入られちやたまらない――大丈夫、鬢の毛も顎の先も別條はねえ。雷鳴だつて見境があらアな、お前なんかに落ちてやるものか」
平次は乾いた手拭を持つて來て、ザツと八五郎の身體を拭かせ、お靜が待つて來た單衣と、手早く着換へをさせるのでした。
全く焦げつきさうな大雷鳴でした。さうしてゐるうちにも、縱横に街々を斷ち割る稻光り、後から後からと、雷鳴の波状攻撃は、あらゆる地上の物を粉々に打ち碎いて、大地の底に叩き込むやうな凄まじさでした。
「驚きましたよ。あつしはもうやられるものと思ひ込んで、四つん這ひになつて此處へ辿り着くのが精一杯――どうも腹の締りが變な氣持ですが、臍が何うかなりやしませんか知ら――」
「間拔けだからな、自分の臍を覗いて見る恰好なんてものは、色氣のある圖ぢやないぜ。第一お前の出臍なんか拔いたつて、使ひ物にならないとよ。味噌がきゝ過ぎてゐるから」
掛け合ひ話の馬鹿々々しさに、お靜はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱へて笑ひを殺してゐます。
よいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるやうな雨だけが、未練がましく町の屋並を掃いて去るのでした。
「それにしても大變なことでしたね。御存じの通り、あつしは雷鳴樣は嫌ひでせう」
「――雷鳴は鳴る時だけ樣をつけ――とね、雷鳴を好きだといふ旋毛曲りも少ないが、お前のやうに、四つん這ひになつて逃げ出すのも滅多にないよ。あの恰好を新造衆に見せたかつたな」
「散々見られましたよ。何しろ明日は神田祭だ、宵宮の今晩から、華々しくやるつもりの踊り舞臺にポツリポツリと降つて來た夕立のはしりを避けてゐると、あの江戸開府以來といふ大雷鳴でせう」
「江戸開府以來の雷鳴といふ奴があるかえ」
「兎も角も、そのでつかいのが、グワラグワラドシンと來ると、舞臺にゐた六七人の踊り子が、――ワツ怖いツ――てんで、皆んなあつしの首つ玉にブラ下がつたんだから大したもので、あんな役得があるんだから大かい雷鳴も滿更惡くありませんね」
「罰の當つた野郎だ」
「そのまゝ鳴り續けてくれたら、あつしは三年も我慢する氣でゐましたよ、――ところが續いてあの大夕立でせう。ブチまけるやうにどつと來ると、女の子はあつしの首つ玉より自分の衣裳の方が大事だから、チリヂリバラバラになつて近所の家へ飛び込んでしまひましたよ。一人くらゐはあつしと一緒に濡れる覺悟のがあつてもよいと思ひますがね」
「呆れた野郎だ」
「空つぽの舞臺で、大の男が濡れ鼠になるのも氣がきかねえから、川越へをする氣分で、雨の中を掻きわけ/\、四つん這ひになつて此處まで辿りつきましたよ」
「何が面白くて、空模樣に構はず、手踊りの舞臺にねばつてゐたんだ」
「六七人の女の子が、いきなりあつしの首つ玉にかじりつきさうな空合ひでしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があつたんですよ、――女と女の大鞘當、名古屋のお三に不破のお伴」
「それは手踊り番組か」
「なアに、實は小唄の師匠のお園と、踊の師匠のお組の掴み合ひで、いやその激しいといふことは、親分にも見せたいくらゐのものでしたよ。あつしも女と女の命がけの喧嘩といふのを、生れて始めて見たが――」
「そいつも江戸開府以來ぢやないのか」
「飛んでもない、あんなのは神武以來ですよ。最初はネチネチといや味の言ひ合ひから、だんだん昂じて甲高な口喧嘩。それから觸つたり、打つたり、引つ掻いたり、とう/\髮のむしり合ひから、左四つに組んで水が入る騷ぎ――」
「何んだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ。天道樣だつて、あんなキナ臭い喧嘩は見ちやゐられませんよ」
八五郎の説明は、面白可笑しく手振りが入るのです。
「そんな大喧嘩を始めるには、深いワケがあるだらう。言葉の行き違ひと言つた、手輕なことぢやあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ。食物の怨や酒の上ぢや、あんなにまで耻も外聞も忘れて、引つ掻いたり噛みついたり、命がけで揉み合へるものぢやありません」
「男のことか」
「圖星、さすがは錢形の親分」
「馬鹿にしちやいけねえ」
「情事となると、恐ろしくカンの惡い親分が、今度は當りましたよ。鞘當の目當ては、金澤町の平野屋の若旦那金之助――口惜しいがあつしぢやありません」
「で?」
八五郎の話術に引入れられて、平次も少しばかり興が動いたやうです。
「それからグワラグワラドンの、六七人あつしの首つ玉にかじりついて匂はせの、大夕立と來たわけで、敵も味方も何處へ散つたか。あとは四つん這ひの、借着の單衣の、お先煙草の――ああ、熱い茶が一杯呑みてえ」
こんな調子で筋を語る八五郎でした。