Chapter 1 of 7

「八、大層ソワ/\してゐるぢやないか」

錢形平次は煙草盆を引寄せて、食後の一服を樂しみ乍ら、柱に凭れたまゝ、入口の障子を開けて、眞つ暗な路地ばかり眺めてゐる、八五郎に聲を掛けました。

「今撞つた鐘は、戌刻(八時)でせう」

八五郎はでつかい指を、不器用に折り乍ら、相變らず外ばかり氣にして居るのです。

「それが何うしたんだ」

「五つまでには、來なきやならないんだが」

「誰が來るんだ、借金取か、叔母さんか」

「そんな氣のきかねえ代物ぢやありませんよ」

「叔母さんまで氣のきかねえ代物にされたのか、それぢや新造か年増か、どうせ宵の口から化けて出るエテ物だらう」

平次はからかひ面でした。物騷な江戸の町を、たとへ親分平次の家で落合ふことにしたにしても、若い女の夜の出歩きは、堅氣の者でないことは、餘りにも明かです。

「ところで、今晩は姐さんの姿が見えないやうですね」

八五郎は、キナ臭い鼻の穴を、ひつそりしたお勝手の方へ向けました。其處には、どんな時でも愼ましやかに仕事をしてゐる、平次の女房お靜の、何時までも若々しい姿が見えなかつたのです。

「お袋のところへ手傳ひにやつたよ」

「へエ? 滅多に無いことですね、あの達者なお母さんが身體でも惡いんですか」

「いや、相變らず元氣で、臍繰の溜まるのばかり樂しみにして居るよ」

洗ひ張と仕立物で、樂々と暮して居るお靜の母親は、平次夫婦に、これつぽつちの迷惑を掛けるのも、いさぎよしとしない肌合の女でした。

「それぢや、父さんの年回でも?」

「いや、親父の命日は秋だよ、――實を言ふと、俺はたつた一と晩で宜いから、獨りで暮して見たくなつたのさ、たまには獨り者の昔がなつかしくなるよ」

「へエ、物好き過ぎますね」

獨り者の八五郎には、一と晩でも戀女房に別れて居たいといふ、平次の氣持はわかりません。

「久し振りに、明日の朝は飯といふものを炊いて見ようと思つて居るよ、一粒々々に芯のある飯を炊くのは、骨が折れるぜ、八」

「呆れたものだ、あつしを泊めて置いて、まさかその芯のある飯を喰はせる氣ぢやないでせうね」

「安心しろよ、お前には俺が燒いた乾物で、一杯呑ましてやるから、まだ酒が少しは殘つて居る筈だ」

平次はお勝手へ行つて、眞つ暗な中で徳利と乾物を搜して來ると、不器用な手つきで膳の上へ並べ、徳利の尻を銅壺に突つ込みました。

「ところで、八」

「へエ」

「入口ばかり氣にするなよ、――俺は近頃手相に凝つて居るんだが、酒の燗のつくまで、ちよいとお前の手相を見てやらうか」

「へエ? 妙なものに凝つたんですね、――手相を見て貰ふのは構はねえが、まさか見料を取るとは言はないでせうね」

「お前のことだから、見料位は立引くよ、先づ手を出しな、――汚ねえ手だ、地が汚れて居るから筋がよく見えねえよ、――こんな手で握られると、あの娘は膽をつぶすぜ、――あツ、唾で拭く奴があるものか、猫ぢやあるめえし」

平次は八五郎の手を握り乍ら、文句ばかり言つて居るのです。

「へツ、小言が多過ぎますね、手相の方はどうしたんで?」

「これから見るよ、――おや、おや/\」

「何がおや/\です?」

「お前は天下を取るよ、天下線といふのがある、太閤樣と同じだ」

「脅かしちやいけません、それは引つ掻きの跡ですよ、叔母の家は建付けが惡いから、無理に雨戸を開けようとして、釘で引つ掻いたんで」

「何んだつまらねえ、――天下線はぺてんか、だが、生命線は長いな、二の腕まで通つて居るぢやないか、百二三十迄は生きるぜ」

「そんなに生きては困りますよ」

「その代り智能線と運命線は無いも同樣だ」

「すると、どういふことになります」

「金と智惠には縁が無いといふことになるよ、氣の毒だが」

「そんなものは欲しかありませんよ、女の子に持てゝ、百二三十迄生きさへすれば」

「良い心掛だ、ところで今度は俺の手相を見てくれ」

平次は少し膝行つて、行燈の前に左手を出すのです。

「それ位の手相なら、あつしだつてわかりますよ、どれ」

などと、平次の手を取つた八五郎、灯り先にそれを差出させて、ハツと驚きました。平次の掌には、墨黒々と、

――そつと窓を見ろ、聲を立てるな――

と八五郎が讀めるやうに、假名で書いてあるのです。恐らく先刻乾物と酒の仕度に立つた時、お勝手で書いて來たのでせう。

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