Chapter 1 of 6

呪われた名曲

「どうなさいました、貴方」

若い美しい夫人の貴美子は、夫棚橋讃之助の後を追って帝劇の廊下に出ました。フランスから来た某という名洋琴家の演奏が、今始まったばかりと云う時です。

「とても我慢が出来ない、あの曲は俺に取ってはヒドク不吉なんだ」

「マア――」

ショパンの「葬送行進曲ソナタ」を第一楽章だけ聴いて飛出すのは、随分乱暴な態度だとは思いましたが、美しい夫人は別に逆らおうともせず、玄関前の大きい丸椅子の上へ夫と並んで深々と身体を埋めました。

「あの曲を聴くと碌な事は無いんだ、一応プログラムを見て来るとこんな馬鹿な目に逢う筈は無いが、まさか初日のプログラムに、あんな曲目を出す筈が無いと思ったのが仰々の間違さ」

棚橋讃之助は葉巻へライターを鳴らして、享楽的に紫の煙を吐き乍ら、夫人を相手に、それでも心持声を潜めます。

三十七八の、実業家らしく脂の乗って来た風采ですが、年にも風采にも紛らせない、坊ちゃんらしいところのあるのは、苦労知らずに先代の仕事を承け継いで、伝統と暖簾と忠実な支配人のお蔭で、素晴らしい儲けを黙って受取って居られる身分のせいもあったでしょう。

充分に若くてハイカラで、妖艶な感じのする夫人は、良人の頑固な態度が心憎いと思う様子で、クッションの上を摺り寄って、男の丸々と肥った膝に、華奢な片手を掛けました。

「あらそんな、大きい声をなさると、中へ聞えますワ」

「併しそんな事を言うのも、決して根拠の無いことでは無いんだ、知っての通り、仏滅も鬼門も担がない俺だが、何うしたものかあの葬送行進曲だけは恐ろしいよ」

「どんな事がありましたの?」

気味も悪くもあるが、充分好奇心を動かされたらしく、良人の顔を仰いで、いつも物強請をする時のように、大きい眼を細めて少し受け口の唇を歪めます。

「笑っちゃいけないよ――」

讃之助は、もう葬送行進曲を了えて華やかな第四楽章のプレストに入ったらしい音を遠音に聞き乍ら、場所柄を超越した呑気さで話し出しました。

「俺の学生時代には、レコードに入って居るパッハマンの弾いたあの曲は不吉だと言われたものだ。俺の経験から言っても、あのレコードを買った翌る日の晩母に死なれたのを手始めに、あの曲のレコードを掛けて聴く毎に、何んかしら不吉な事が一つずつ起るんだ、全く不思議だったよ」

其処まで言って讃之助は、フッと言葉を切りました。

「まア」

「最後に――之は話して宜いか悪いか分らないが、隆の母――話に聞いたろうが之はピアノをよく弾いた――それが生きて居る時好んで弾いたのはあの曲だったよ、それからまだある――」

話は思いの外真剣になったので、貴美子夫人も美しい眉をひそめて、寒々と良人の側に寄りました。二十四五とも見えますが、何んとなく華奢な体質で、地味ではあるが贅沢な総模様を縫った羽織が、ソロリと肩を滑り落ちそう、何んか紙人形のような感じのする弱々しさです。

「もう沢山――怖いワ」

「あと、たった一つだ――五六年前、家へ大勢の客をした時、その客の中に交って居たピアニストの石井と言うのが、一曲所望されて弾いたのがあの曲だった。その時は何んとも思わなかったが、翌る日父が心臓麻痺を起して死んだ」

「厭ですわねえ」

「だから俺はあの曲が恐ろしいと言うんだよ。あんな美しい曲は無いが、何うも凝っとして聞いては居られない」

そんな話をして居るところへ、第一部が済んだらしく、猛烈な拍手に追い出されるように、八方の入口から聴衆の大量が廊下へ流れ出して来ました。

「何うしたんだ。途中から抜け出したりなんかして」

遠くの方から二人を見付けて、揉み合う盛装の男女の間を摺り抜けるように近づいたのは、讃之助と同年配の美しい髭のある男、貴美子夫人の兄で、酒巻四郎というドクトルです。

「あの曲は不吉で嫌いなんですって――」

先走る貴美子夫人の口を押えるように、

「そんな人聞きの悪い事を言っちゃいけない――昨夜遅くまで麻雀を付き合って、寝が不足のせいだろう、頭痛がして敵わないんだ」

「それは惜かったネ、素晴らしい葬送行進曲だったよ。山北さんなんか、ポロポロ泣いて居た――」

「あら先生、泣いたんでは御座いません。眼が痛かったんで御座いますよ」

家庭教師の山北道子は、十二三になる弱そうな少年――讃之助の先妻の子で、たった一粒種の隆――と一緒に其後から人混みを抜けて近づきました。

山北というのは、三十二三の未亡人らしい淋しい婦人で、悲しみの為か人造人間のような硬い表情をして居りますが、そのくせ、包んでも包んでも、包み切れないと言った、妙に魅惑的な、ぞんざいに扱った宝石のような感じのする女です。併し刻みの深い顔はお面のように冷たく、額が少し抜け上って、軽い跛を引く恰好などは、何う譲歩して考えても、決して美人ではありません。

「山北さんは眼なんか悪いんじゃない、矢張り泣いてたんだよ」

「まア、お坊ちゃま」

賢こそうな少年を抱え込んで、父親の側へ割り込ませ乍ら、家庭教師はさすがに顔を赤らめます。

「ピアノで泣くのは珍らしい――義太夫を聞くと、山北さんなんか眼をまわす方ですねハッハッハッ」

「まア」

良人の無遠慮な高笑いを取りなすように貴美子はやさしく家庭教師の方を振り向きました。黒装束の淋しい姿、少し肩の曲った醜い恰好などを見ると、顔に何んか魅惑らしいものが残って居るにしても、神経質な夫人に嫉妬らしいものを感じさせる点は微塵もありませんでした。

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