Chapter 1 of 9

綱渡りの源吉が不思議な使い

「姐御」

「シッ、そんな乱暴な口を利いてはいけない」

「成程、今じゃ三千石取のお旗本のお部屋様だっけ、昔の積りじゃ罰が当らア」

芸人風の若い男は、ツイと庭木戸を押し開けて植込の闇の中へ中腰に潜り込みました。

迎えたのは、二十一二の不思議な美しい女です。

武家風にしては、少し派手な明石縮の浴衣、洗い髪を無造作に束ねて、右手の団扇をバタバタと、蚊を追うともなく、話し声を紛らせます。不思議に美しい――と言ったのは、決して無責任な形容詞ではありません。月の光と、縁に吊した灯籠と、右左から照らされたこの女の顔は、全く、想像も及ばぬ不思議な美しさだったのです。首筋に束ねた髪は燃え立つように赤い上、大きく波打って、二つの瞳は碧海を切り取ったように碧く、上丈は五尺二三寸、肌の色は、桃色真珠に血を通わせたような、言いようの無い美しさに匂うのでした。

この一風変った美しさを、人によっては、不気味と見る人もあるでしょうが、この邸の主人、安城郷太郎は、又なきものに寵愛して、本妻の亡き後は、一にもお鳥、二にもお鳥、お鳥でなければ、夜も日も明けぬ有様だったのも無理のないことです。

「そんな嫌な事を言っておくれでない――、それはそうと、あれほど此邸の側へも寄らないようにと言って置くのに、何うして潜り込んで来たのだえ、源吉」

お鳥はたしなめるように、斯う言い乍らも、幾年振りかで逢った、一座の弟太夫、あの綱渡りのうまい源吉を、世にもなつかしく眺めるのでした。

「姐御、すまねえ、俺だってこんな、泥棒猫見たいな恰好までして、人の家へ忍び込み度くはねえが、二年振りで江戸へ帰って来ると、矢も楯もたまらず姉御に逢い度くなったんだよ」

源吉は、この二つばかり年上の美女を物悲しく見上げました。小さい時から一座に育って、恋というにしてはあまりに親し過ぎる二人は、手を取り合って心ゆくばかり話すか、それとも、二匹の犬っころのように、存分に喧嘩でもし度いような、悩ましい衝動をどうすることも出来ませんでした。

「皆んな丈夫かい」

お鳥もツイ一足踏み出しました。張子の球にも鞦韆にも、手を組んで乗った源吉が、今でも親身の弟のように思えてならなかったのです。

「あ、親方も、お神さんも、一座の者は皆んな丈夫だよ。姐御が抜けてから、碌に目は出ないが、それでもまア、その日に困るようなことは無い。――ところで、三千石のお旗本のお部屋様になった姐御は幸せかい。親方は晩酌の度に、そればかり心配して居るよ」

「有難う、まア、此通り暮して居るから、仕合せと言うものだろうよ、不足を言えば限りの無いことだから――」

「そうかね、その言葉の様子じゃ、あまり香ばしい事も無さ相だ、まア、辛抱しねえ」

「お前に意見を言われるようになったのかねえ」

「ヘッ、其辺は矢張り昔の姐御だ、――尤もお月様の光じゃ、はっきり判らねえが、美しいことも昔の通りらしいネ」

「何をつまらない」

「ところで姐御、ツイ二三日前、両国の小屋へ、変な人が訪ねて来た」

「…………」

「五年越し、俺達の一座を尋ねて、日本国中を遍歴ったと言う若い浪人者だ。尤も、そう言ったところで、親の讐を討つわけでも、俺の綱渡りが見度いわけでも無い。手っ取り早く言えば姐御に逢って、話し度いことがあるんだとさ」

「…………」

「おッ、ひどい蚊だ、すまねえが、庭石の上に腰を下して貰って、その浪人者の話てえのを受売り乍ら、一席やらかそう」

源吉は七三にからげた裾をおろして、脛から踵を包むように庭石の上に腰をかけました。その前にこれも中腰になったお鳥、縁側の光から、源吉の姿を庇うように、団扇を動かして、無意識に蚊を追い払って居ります。

「ね、源吉、そんな浪人の話より、私は皆んなと一と眼逢い度いんだが、何んとかならないものかねえ」

「おっと、そんな贅沢を言っちゃいけねえ。一座とはすっかり手を切った筈の姐御だ。よしんば今日の物に困るたって、のめのめ顔を持って来る親方じゃねえ、――それよりは今の浪人者だ、何うしても姐御に逢わずに居られないから、ここ十日の間に、折を見て、雑司ヶ谷の鬼子母神様へお詣りをして貰い度い。小日向と雑司ヶ谷なら、遠いところでは無いし、御寵愛の籠の鳥でも、子宝を授けて貰い度さのお詣りとか何んとか、口実はどうでも出来るだろう、と斯う言うのさ」

「――――」

「――それでも疑念があるなら、斯う言って貰い度い、そのお鳥殿とやらの、世にも不思議な素性が解った――と、斯う言うんだ、大分変ってるじゃ無いか」

「それは、何んとかして出られない事はないが、何んな武家なんだい」

「嘘も偽も、悪巧みもあるような人柄じゃねえ、名前は萩江鞍馬、絵に描いたような好い男だよ」

「萩江――鞍馬――知らないねえ」

二人は近々と、何時の間にやら囁やき合う姿勢になります。

「不義者ッ」

不意に、恐ろしい一喝、縁側から怪鳥のように跳び降りたものがあります。

「あれッ、殿様」

「えッ、離せッ」

縋り付くお鳥を蹴飛ばして、源吉を追って、庭木戸の外へ。

相憎の月夜、五六間先へ、一散に逃げて行く源吉の後姿を隠す物の隈もありません。

Chapter 1 of 9