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汽船が太平洋を横断するまで
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汽船が太平洋を横断するまで
服部之総
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 7

五 「和親」条約

旧市場の拡張と新市場の獲得とが問題のいっさいだった産業資本主義発展期の当年にあって、かりそめにも、「和親」はするが貿易はおことわりだといった種類の条約が、足掛五年も続いたというのはどうしたことか! 結婚はあきらめましょう。兄妹としていつまでも愛して頂戴などという類のたわごとが、三十代の壮年資本主義国に適用するはずがない。

ペリーとハリスことにハリスを、幕府が頑なな処女のように貿易だけはというのを、脅したりすかしたりで結局物にしたその道の名外交官扱いにするのは勝手であるが、しかし「和親条約」はそれだけで立派な存在理由をもっていた。

「亜墨利加船、薪水、食糧、石炭、欠乏の品を、日本人にて調へ候丈は給し候為、渡来の儀差し許し候」――サンフランシスコと上海をつなぐうえに不可欠な Port of Call――ことに石炭のための寄港地として、ヨコハマがぜがひでも当年のアメリカに必要だったのである。

新市場候補地としての日本は、シナ市場のつぎに来るべきものとして、すでに三〇年代から米国の予算にはいっていた。一八三二年のアジア修好使エドムンド・ロバーツにたいしても、シャムその他の後にするも可なりという但書付で、日本訪問が指令されていた。一八四五年には下院議員ブラットの対日朝通商建議案が提出されて、ビッドルが浦賀へやってきたがまことに穏やかな交渉振で、五〇年代にはいってから、「日本人に対し寛大に失せるの嫌あり」と、あとから叱られている。

ビッドルに罪はないので、カリフォルニアの黄金狂時代が線を画した五〇年代が、アメリカの対日態度を一変させたのである。従前の新市場候補地としての日本に加えて、旧市場しかも久しく英国との競争下にあるシナ市場において決定的な勝利を一挙に奪取するための必要不可欠な前提条件としての日本――横断太平洋汽船のための寄港地としての日本――が新しく認識されたのである。

まず、「ボムベンおよび焼玉を放発して」も日本を開港させずにはおかぬという凄文句の手紙で五〇年代があける――

「……アメリカ通商のためその湊港を開き、かつサンフランシスコより、上海広東に通路すべき蒸汽船のため、松前、対馬、琉球の地に、石炭場を設る趣向を促し、もしその談判を将軍の方および執政が拒むにおいては、日本政府承服に及ぶまで、その都府にボムベンおよび焼玉を放発して、国中の湊港を閉塞し、恨を日本国に晴さん、この意頻りに止ざる所なり云々」(一八五〇年、元ニューヨーク州外事局長A・H・パーマーより、長崎オランダ商館長レフィーソンに送った私信、実質は非公式の外交文書である)。

つぎは五一年六月十日付の海軍中佐ジェームス・グリンの建議案。彼はブレブル艦長として四九年に長崎へ乗込み、ラゴダ号事件に関して強硬な態度をとっている。やはりカリフォルニア・シナ間の汽船定期航路を開始するためには米日間に通商条約を締結する必要があるゆえんを陳べ、「この手段早晩必ず着手を要するものにして、もし平和的手段によりて成功を見ざる時は、兵力に訴うるも必ず成就せしめざるべからず」と力説している。

同年、いよいよ正式に日本問題を解決すべく、米国東インド艦隊司令長官オーリックを特使に任じたときの公式対日要求条項は、五〇年以前のもっぱらなる要求だった米捕鯨船遭難者の救助と自由貿易の二項目にあわせて、最後に五〇年代の新たな項目たる米支間横断汽船用の貯炭所問題が掲げられている。

持前の癇癖にたたられて中途で免職になったオーリックに代って、いよいよペリーの幕だ。五二年十一月のペリーにたいする訓示中、左の箇条書の部分を、マルクス前掲文と参照すると興味がある。

「(一) 近時汽力による太平洋横断航路開かれし事(開かれんとするの誤か? 事実まだ開けてはいないのだ。田保橋氏『外国関係史』を参照)

(二) 合衆国が太平洋沿岸に広大なる植民地を獲得せし事

(三) 該植民地に金鉱の発見せられし事

(四) パナマ地峡の交通頻繁となりたる事、は、東洋諸国と合衆国との関係を著しく密接ならしめたり云々」。

で、日本への要求条項は、オーリックの場合と同じ三項目である。第二項が例の一件で「合衆国船舶が薪水食料を補給し、また海難の際にはその航海を継続するに必要なる修理を加えんがために、日本国内の一港もしくは数港に入る承諾をうること。日本国沿岸の一港もしくは少くもその近海に散在せる無人島の一に、貯炭所を設置するの権を獲得する事」とある。

ペリーの使命をもって「帝国主義的」などと記す者があるに至っては言語道断だが、英国との間の見境もなく、たんに通商第一主義とのみ見るのも不充分であるゆえんは、すでにあきらかだと思う。第一、彼の大艦隊自身が、寄港地のない不安な太平洋路を採る代りに、マデイラ、セントヘレナ、ケープタウン、コロンボ、シンガポール、香港、上海、那覇とたどってそこからいよいよ江戸湾へ乗入れる前に、まず小笠原群島父島へ立寄って、殖民代表米人某から貯炭所用地百六十五エーカーを買入れている。

これが五三年、そして「和親」条約が五四年。で、この年までは横断太平洋汽船航路が開けなかったにしても、この年以後はいつでも開ける手はずができたわけである。ところが太平洋を横断する貨物船航路は、この年を待たずすでに五一年から開けていた。五〇年正月のマルクスの眼に映じていなかった一現象――海の黄金狂時代が太平洋郵船ラインとともに生み出したいま一つのヒロイン――たるカリフォルニアン・クリッパーについて語らねばならぬ。

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