二 肥後守容保
京都守護職松平容保は純情一徹の青年政治家である。公武合体=尊王攘夷のたてまえに――この、本来過渡的な、折衷的な政治綱領を過渡的折衷的なそれとせず、純一むくにこれに終始せんとした珍しく生一本な政治家だった。官許「浪士組」に馳せ参じた諸浪士たちはこの松平容保のなかに、そのいみで自己の同一物を見出すことができたであろう。
非常時京都の警視総監として何よりも検索しなければならぬ「浪士」のなかに、松平容保は他のあらゆるものを――たとえば身分制度にたいする、言語壅蔽にたいする、外夷跳梁にたいする、物価暴騰世路困難にたいする彼らの不満を。またたとえば彼らの背後にある時は「長州」を。のちには「薩州」を――認識することができたが、ただ一つ、これらの基底にあって、これらすべてを「歴史」の爆薬に転ずる一筋の黄色な導線にだけは、最後まで気がつくことができなかった。
守護職松平肥後守は、「浪士」を無下に弾圧する代りに、これを理解し、善導することを念願した。清河と一緒に「寺田屋」派から分離しのち天誅組の謀主となって斃れた藤本鉄石らまで、一時は黒谷の肥後守を訪れることがあった。
「攘夷御一決のこの節、御改革仰せ出され候に付ては、旧弊一新、人心協和候様これなく候ては相成らざる義に候ところ、近来輦轂の下、私に殺害等の儀これあり、畢竟言語壅蔽諸司不行届の致す所と深く恐れ入り候次第に付、上下の情実貫通し皇国の御為御不為に係り候儀は勿論、内外大小事となく善悪とも隠匿致し居り候事ども、聊憚りなく、筋々へ申し出づべく候。但し忌諱を憚り候儀もこれあり候はゞ、封書にて直様差出し申すべく、また(肥後守)自身聞き届け候儀も之有る可く候」(文久二年二月)
と布告してもみた。浪士の暴状にたまりかねた将軍後見職一橋慶喜が一網打尽的弾圧政策を肥後守に強要したのにたいして、職けんを賭してあくまで反対し、ついに反対し切ったのもその頃だった。「浪士組」が関東から上洛してきたとき、松平肥後守の手文庫のなかには、べつに藤本鉄石以下の「京都方浪士人別」というのが秘められていた。要は「浪士」の要求を聞き、公武一和して尊攘にまい進すれば、文久非常時を立直すことができると、かたく彼は信じていたのだ。
だが、はたして「尊攘」はすべての矛盾を解決する鍵たりえたか? それどころか、討幕派にとって「尊攘」は矛盾をいよいよ発展させるための合言葉としてとりあげられていたのではないか。尊攘挺身隊をもって自任する合法「浪士組」と、同じく尊攘挺身隊をもって自任する「京都方浪士人別」とをすら、わが肥後守はもう握手させることができなかったではないか。それどころか、合法「浪士組」と非合法浪士派とは、京都で顔を合わせた瞬間からもう挑みあい、掴みあい、警視総監としての肥後守をいっそう多忙ならせたではないか。
そこで「浪士組」は滞京わずか二十日ほどで再び江戸へ帰された。公式の理由は、折から切迫した英幕危機に備えて、関東で攘夷先頭を承われというにあった。だが彼らが肥後守と京都を後にした瞬間から、江戸幕府にとっては、ただまっとうに「攘夷」の素志があるというだけですでに厄介な代物だった。英幕危機が高潮に達し、同時に英幕講和が極秘裡に画策されつつあった四月中旬に、清河以下「浪士組」領袖が、長州でも肥後守でもなく幕閣の秘密命令で一網打尽にされるには、必らずしも清河らの討幕陰謀を必要としまい。領袖を奪われて改組された「浪士組」――「新徴組」は、もうただ従順な幕府の番犬だった。
とすれば、「浪士組」東下に際して、特に「尽忠報国有志の輩」として、総員二百二十一名のうちから二十名足らず、京都にふみとどまって組織した「新撰組」は、どんなものであろうか。