7
お高は、そっけなく、わきを向いた。
「いやでございますよ。お前さんというお人にはこりごりしていますからね、またどこに、どんなわるだくみがあるか、知れたものじゃあありません。お断わりしますよ」
磯五は、そういうだろうと思っていたというようにおだやかに笑った。
「いや、話せば長いことだが、いい手づるがあってなわたしに、衣裳の流行に眼があるというんで、友だちやなんか、いろいろ骨を折ってくれる人があってな、金を工面して、この磯五をそっくり買いとってくれたのだよ。まあ、金主がついて買ったようなものだが、わたしの店は私の店なのだ。だから、力の入れがいも、あろうというものだ」
お高は、つと磯五を見た。
「もう何も知りたいとは思いませんが、きくことだけは聞きますよ」
「何だな、あらたまって」
「わたしがこの磯五の店から買い物していたことは、お前さまよく知っていなすったろうに」
「うん。いろいろ買っておったことは知っていたが、借りがあるとは知らなかった。お前の金で、払ったのだろうと思っていた」
「その私のお金を、あなたが持って行ってしまったのではありませんか。どうして払えるものですか」
「まあ、そんなこというな。あの金は、いまでも返すよ」
「いりませんよ、あんなお金――」
「そうけんけんいうな。それより、おれはこの店全体をお前と二人でやって行こうといっているのだ」
「何のことですの、それは」
「つまり、よりを戻そうというのだ――なあ高音、おれは、お前に会いたかったよ」
お高は、眼を伏せた。肩が、大きく浪を打っていた。磯五は、そのようすを見て、ひそかにほほえんだようだった。
「高音――」と、彼は、声を沈めて、いざりよった。お高も、男のほうへ、一、二寸引かれたようだった。
「なあ、またいっしょに住もうじゃないか。これだけの大店が、みんなお前のものなんだ。おれも、昔のままのおれではないつもりだ。な、高音、もとどおり、おれんとこへ帰って来てくれよ」
猫のような磯五の声が、お高の耳に熱く感じられた。お高は、思わず、彼の膝へ手を置こうとしていた。
廊下にあし音がして、小僧が顔を出した。問屋の使いが、至急の用で、ちょっと会いたいといって待っているというのだ。磯五は、すぐ帰ってくるとお高にいって、あたふたと部屋を出て行った。
ひとりになると、お高のこころは、また金剛寺坂へ飛んでいた。惣七のことが、すうと入れかわりに、彼女のあたまを占めだした。
そのとき、音もなく縁から人がはいって来た。金のかかったなりをした、四十あまりの大年増だ。
それが、お高の前に丁寧に指をついて、こう挨拶をはじめた。
「いらっしゃいまし。旦那のお妹さんでいらっしゃいますか。おうわさはしじゅう伺っております。わたくしは、磯屋の家内でございます――」
妹
一
おせい様が、わたしは磯屋の家内でございますと挨拶すると、客の若い女はひどくおどろいたようすなので、おせい様はあわてていい直した。
「いえ、まだ、家内――ではございませんが、近いうちにこちらへ参ることになっております。五兵衛さまといっしょになるはずになっておりますのでございます」
女房だといい切ったのを、いい過ぎたと思ったらしく、おせい様は赧い顔をして自分のことばに笑いながら「こちら様は五兵衛さまのお妹さんでございましょう?」
お高は、びっくりした。三年前に自分をすてた良人だ。それが突然、江戸有数の太物商磯五の旦那として現われたのみか、たった今自分に、すべてを忘れてもとの鞘にかえってくれ、そうして内儀として、当家の帳場へすわってくれと、あんなに面に実を見せていい寄ったばかりなのに、いまこの女が出て来て、近く磯五の女房としてここへ迎えられるはずだというのは、どういうことであろうか。
それに、五兵衛の妹というのは? ついぞ聞いたことはないが、あの人に妹があったかしら? とっさのことで、お高はさっぱり判断がつかなかった。
磯五が、すぐ来るからといって出て行ったあとだ。お高は、この人はまあいつのまに、そしてどんな途を通ってこんな大店のあるじとまで出世をしたのであろう? いぶかしく思いながら、何からなにまで珍しい心持ちでそこらを見まわしていた。
瞬間だったが、金剛寺坂の静かな生活が、こころにひらめいて、ひとり残して来た若松屋惣七を、なつかしいと思った。若松屋惣七の長いこわい顔が、眼のまえを走り過ぎた。黙って磯五にぶたれていなすったようすが、いたましく思い出された。日ごろの惣七の気性を知っているので、あのことから何か恐ろしいことになりそうな気がして、ぞっとした。そこへ、いきなり人影がさして、おせい様がはいって来たのだ。
おせい様は自分の家のように誰にも案内されないで、すべるようにこの部屋へはいって来てすわったのだ。おせい様は三十五、六のしとやかな女だ。美しい人で、にこにこしている。おせい様は鼠小紋の重ねを着て、どこか大家の後家ふうだった。小さくまとまった顔にくちびるが、若いひとのように紅いのだ。
おせい様は、磯五といっしょになる約束のできていることを、誇らずにはいられないのだろう。そんなようすに見えた。磯五のことをいうときは、さざなみのような小皺の寄っている眼のまわりに、桜いろのはじらいがのぼるのだ。うれしさを隠そうともしないのだ。
「ほんとに五兵衛さまは、お立派な方でいらっしゃいますよねえ。何から何まで気のつく、いい方でいらっしゃいますよね。よく妹さんのお噂をしていらっしゃいますでございますよ。あなたといういいお妹さんがあるから、商売のほうもちょくちょくからだを抜くことができて、たいへん楽だと口ぐせのようにおっしゃってございますよ」
「何かのお間違いでございましょう。わたくしはあの人の妹ではございません」
「あら、お妹さんでないとおっしゃると、すると――」
「ちょっと識り合いの者でございます」
おせい様は、にっこり笑った。
「ああわかりましたわ。このお店を切り盛りしていらっしゃる妹さんのお友だちの方でございましょう」
五兵衛に妹があってその妹がこの磯屋を経営しているとは、お高ははじめて聞いた。お高は不思議な気がしてきた。
「妹さんのことは存じません。わたくしはここの親類の者でございますが、しばらく交際が絶えておりましたので、このごろのことはいっこうに存じません」
おせい様は、お人好しで話好きなのだ。問わず語りにいろいろなことを話し出した。どうしても呉服の鑑識にはその方面に肥えた女の眼が必要だ。この磯屋も五兵衛の妹が中心になってやっているので、五兵衛はおもてに立って仕事を片づけているに過ぎない。五兵衛もなかなか流行の色や柄を考案することにかけては妙を得ていて、このごろでは、江戸の女物のはやりはすべてこの式部小路から出るといわれているほどである。
自分は、良人に死なれてから、大きな財産をひとりで守ってきたが、あの五兵衛のような人なら、二度の夫に持ってもいい。そのうちに磯五の内儀となって立派に披露もし、財産もみんなこの磯屋の商売へつぎこむつもりでいる。五兵衛さんも進んでいるが、わたしも進んでいる。ふたりは恋仲でございますといわんばかりに、おせい様は、あけすけに何でも話すのだ。
二
お高は、何にもいえなかった。弱々しいおせい様が、あまりにうれしそうに輝いてみえるのだ。そういうおせい様は、まるで十七、八の花嫁さまのように美しいのだ。お高は不思議なものに憑かれたような気がして、このおせい様の前に、自分がすでに磯五の妻であるとはどうしてもいえなかった。
男が家出してから今まで三年のあいだ別居してきはしたものの、そしていくら音信不通だったとしても、磯五自身が若松屋惣七にいったように、去り状というものをもらっていない以上、じぶんはやっぱり磯五の女房であることに変わりはない。現に磯五も、それをいい立てて自分を金剛寺坂からここへつれて来て、たったいま、もとどおりになってくれと頼んでいる最中に、ちょっと中座したばかりではないか。
それなのに、この女は、どこからか、ひょっこり現われて、夫婦約束をかわしたとか何とか、もうあの人を良人扱いにしている――お高は、夢をみているような心持ちがして、これは何かのまちがいであろう。今にもあの人が帰って来ればわかることだと思いつづけた。
お高にはわからないのだ。が、これが若松屋惣七なら、おせい様を一瞥見ただけで、すべてがわかるはずだ。磯五としては、やりそうなことなのだ。
すこし苦味の加わったくどき上手の色男が、この茶道あがりの磯屋五兵衛である。女盛りに良人に先立たれて、子供もなく、小判の番人をしているだけで、こころのやり場がなかったのがおせい様だ。ことに、この年までほんとに愛したことも、愛されたこともないおせい様だ。磯五に会ってはじめて、男を想うことを知ったといってもいいのであろう。
この人のいいおせい様を、女たらしの磯五が巧みにくどいて、夫婦約束までして、色仕掛けで金を絞ろうとしているこんたんや、その脂っこいくどきの場面が、まるで浄瑠璃にかけるように、眼に見えるような気がするのだ。
もちろん磯五は、恋というものを餌に、おせい様のまごころをあやつって、金を吐き出させようとしているだけのことなのだ。中年女の激しい恋だ。金が眼当ての磯五の色細工などには気がつかずに、おせい様は、一すじに磯五を思って、要求するものは何でも与えようとあせっているのである。
おせい様が大家の人であることは、身なりを見てもわかる。よくある質のわるいやり方で、この磯五の店を買いとった金も、おおかたおせい様から出ているのであろう。磯五が女殺しであることは、顔や風体や弁舌だけでもわかるが、彼はこうして、女の生き血を吸って生きているのだ。世間知らずの単純なおせい様のこころは、もうすっかり磯五にしてやられて、ほんとにいっしょになる気でいる。いっしょになって、自分の財産の全部を、男の愛のために、よろこんでほうり出す気である。
今のおせい様には、何とかして磯五をよろこばせるほか、何の目的もないのだということが、世の中のうらおもてを見てきている若松屋惣七には、たとえ眼は不自由でも、磯五という人物の解釈から、瞬間にして看破することができたであろうが、お高は女で、年も若いし、それになんばなんでも磯五がそんな悪辣なことをしようとは思わない。
自分をすてて逃げたのだし、自分もいまもとの関係へかえろうとは思っていないが、それにしたところで、ほかに夫婦約束ができるわけのものではない。そう思った。うつむいて、黙っていた。
話し相手を見つけたうれしまぎれが、おせい様をひとりでしゃべらせていた。
「去年わたしがお伊勢さまへお詣りしましてね、大阪へ遊びに寄って、あの人に会ったのでございます。あの人は堺で大わずらいをして、そのときわたしが看病をしました。おや、あの人はどこへ行ったのでございましょう。此室にいると小僧さんがしらせてくれましたので、おどろかしてあげようと思ってこっそり来たのでございますがねえ」
「ほんとにねえ。今までここに話しておりましたのでございますが、どうしたのでございましょう。ちょっとわたくしが見て参りましょう」
お高は、ゆらりと起ち上がった。
三
お高は、ここでおせい様と話しているところへ、磯五に帰って来られてはたまらないような気がした。どうしたらいいかわからないと思った。おせい様は磯五という人間を、神様や仏さまのように考えているらしい。そのおせい様のまえに、ぎっくりしてまごまごしている磯五を見せることは、おせい様にすまないとお高は思った。
縁へ出ると自分のはきものがあった。それを突っかけてはいって来た横丁づたいにおもての往来へ出た。
「まあまあ、そのうち見えますでございましょうよ。わざわざあなた様に呼びにいらしっていただかなくてもよろしいんでございますよ」
うしろで、少女のように邪気のない、おせい様のほがらかな声がしていた。ああいう人をだますなんて、空恐ろしいとは思わないかしらとお高は思った。