返回
うつせみ
Table of Contents
うつせみ
樋口一葉
Reading Settings
字体大小
18px
主题
浅色
深色
棕褐色
护眼模式
行距
阅读模式
译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 5

五

雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も一昨日も、三月の以前も其前もさらに異る事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、學校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、戀しき君、さる詞をば次第なく並べて、身は此處に心はもぬけの殼になりたれば、人の言へるは聞分くるよしも無く、樂しげに笑ふは無心の昔を夢みてなるべく、胸を抱きて苦悶するは遣る方なかりし當時のさまの再び現にあらはるゝなるべし。

おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで孃さまに罪ありとはいさゝかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷にお根がけは櫻色を重ねたる白の丈長、平打の銀簪一つ淡泊と遊ばして學校がよひのお姿今も目に殘りて、何時舊のやうに御平癒遊ばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、學問はえらからうとも何うで此方のお孃さまが對にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、それはお前が知らぬから其樣な憎ていな事も言へるものゝ三日交際をしたら植村樣のあと追ふて三途の川まで行きたくならう、番町の若旦那を惡いと言ふではなけれど、彼方とは質が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村樣が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お孃さまの身になつては辛からうではないか、私やお前のやうなおつと來いならば事は無いけれど、不斷つゝしんでお出遊ばすだけ身にしみる事も深からう、あの親切な優しい方を斯う言ふては惡いけれど若旦那さへ無かつたらお孃さまも御病氣になるほどの心配は遊ばすまいに、左樣いへば植村樣が無かつたら天下泰平に治まつたものを、あゝ浮世はつらいものだね、何事も明すけに言ふて退ける事が出來ぬからとて、お倉はつく/″\まゝならぬを痛みぬ。つとめある身なれば正雄は日毎に訪ふ事もならで、三日おき、二日おきの夜な/\車を柳のもとに乘りすてぬ、雪子は喜んで迎へる時あり、泣いて辭す時あり、稚兒のやうになりて正雄の膝を枕にして寐る時あり、誰が給仕にても箸をば取らずと我儘をいへれど、正雄に叱られて同じ膳の上に粥の湯をすゝる事もあり、癒つて呉れるか。癒りまする。今日癒つて呉れ。今日癒りまする、癒つて兄樣のお袴を仕立て上げまする、お召も縫ふて上げまする、それは辱し早く癒つて縫ふて呉れと言へば、左樣しましたらば植村樣を呼んで下さるか、植村樣に遇はして下さるか、むゝ遇はして遣る、呼んでも來る、はやく癒つて御兩親に安心させて呉れ、宜いかと言へば、あゝ明日は癒りますると憚りもなく言ひけり。

正しく言ひしを心頼みに有るまじき事とは思へども明日は日暮も待たず車を飛ばせ來るに、容躰こと/″\く變りて何を言へどもいや/\とて人の顏をば見るを厭ひ、父母をも兄をも女子どもをも寄せつけず、知りませぬ、知りませぬ、私は何も知りませぬとて打泣くばかり、家の中をば廣き野原と見て行く方なき歎きに人の袖をもしぼらせぬ。

俄かに暑氣つよくなりし八月の中旬より狂亂いたく募りて人をも物をも見分ちがたく、泣く聲は晝夜に絶えず、眠るといふ事ふつに無ければ落入たる眼に形相すさまじく此世の人とも覺えずなりぬ、看護の人も勞れぬ、雪子の身も弱りぬ、きのふも植村に遇ひしと言ひ、今日も植村に遇ひたりと言ふ、川一つ隔てゝ姿を見るばかり、霧の立おほふて朧氣なれども明日は明日はと言ひて又そのほかに物いはず。

いつぞは正氣に復りて夢のさめたる如く、父樣母樣といふ折のありもやすると覺束なくも一日二日と待たれぬ、空蝉はからを見つゝもなぐさめつ、あはれ門なる柳に秋風のおと聞こえずもがな。

●図書カード

Chapter 5 of 5
|