Chapter 1 of 1

久生十蘭

角地争い

六月十五日の四ツ半(夜の十一時)ごろ、浅草柳橋二丁目の京屋吉兵衛の家から火が出、京屋を全焼して六ツ(十二時)過ぎにようやくおさまった。

隣家は『大清』というこのごろ売りだしの大きな湯治場料理屋だが、この日はさいわいに風のない晩だったのと水の手が早かったのとで、塀を焼いただけで助かったが、京屋のほうは思いのほかに火のまわりが早かったと見えて、吉兵衛は逃げだす間がなくて焼死してしまった。

京屋吉兵衛は代々の紺屋で、三代前の吉兵衛は京都へ行って友禅染の染方をならって来てこれに工夫をくわえ、型紙をつかって細かい模様を描くことを思いつき、豆描友禅という名で売りだしたが、これが大変に流行し江戸友禅という名でよばれるほどになった。

だんだん繁昌するようになって、神田の店が手狭になってきたので柳橋二丁目のこの角地を買い、張場をひろくとって職人も二十人もつかい手びろく商売をやっていた。

親父の代まではひきつづいて繁昌したが、親父の吉兵衛が死んでいまの吉兵衛の代になったころには江戸友禅ももうあかれ、それに、吉兵衛は才覚にとぼしい男で、これぞという新しい工夫もなかったから、だんだん左前になって職人もひとり出、ふたり出、親父の代から住みこんでいる三人ばかりの下染と家内のおもんを相手に張りあいのない様子で商売をつづけていた。

吉兵衛の腑甲斐なさばかりではなく、染物屋などにとっては運の悪い時世で、天保十三年の水野の改革で着物の新織新型、羽二重、縮緬、友禅染などはいっさい着ることをならんということになったので、いよいよもって上ったりになった。

もうひとついけないことには、やはり天保の改革で、深川辰巳の岡場所が取りはらわれることになり、深川を追われた茶屋、料理屋、船宿などが川を渡ったこちら岸の柳橋にドッと移って来て、にわかに近所に家が建てこむようになった。

吉兵衛のとなりへ越して来たのは『大清』の藤五郎という男で、もとは浅草奥山の興行師。それまでは深川仲町で小料理屋をやっていたが、そのあいだにだいぶ溜めこんだと見え、ご改革を機会に京屋のとなりの長野屋という旅籠屋を買いとり、その地面へ総檜二階建のたいそうもない普請をし、茶屋風呂の元祖深川の『平清』の真似をして贅沢な風呂場をこしらえて湯治場料理屋をはじめた。

台所には石室をつくり、魚河岸から生きた魚を、雑魚場から小魚を仕入れてここへ活かしておく。酒は新川の鹿島や雷門前の四方から取り、椀は宗哲の真塗り、向付けは唐津の片口といったふうな凝り方なので、辰巳ふうの新鮮な小魚料理とともに通人の評判になって馬鹿馬鹿しいような繁昌のしかた。夕方の七ツ半にはもう売り切れになるという有様なので、建てたばかりのやつをまた建増ししなければならなくなった。

ところが『大清』の南は濠で建増そうにもひろげようにもどうすることも出来ない。そこで、眼をつけたのが北どなりの京屋の地面。ここを買いつぶしてひろげると、こっちは角店になるわけで、いっそう店の格がつく。

商売もあんまり繁昌していないふうだし、大したいざこざを言わずに承知するだろうと多寡をくくって話を持ちかけて見ると、それが案外の強腰で、いくら金を積んでもこの地面は譲られぬという挨拶。

坪二両に立退料三百両というところまで競りあげたが、それでも頭を竪には振らない。

気の小さなくせに偏屈なところがあって、商売がうまくゆかないせいもあろうが、家内のおもんにもめったに笑い顔も見せない。陰気な顔をして一日じゅう藍甕のまわりでうろうろしている。

こちらは火が消えたようになっているのに引きかえ、となりは豪勢な繁昌ぶり、これが癇にさわるので、うんと言わないのは、ひとつはそのせいもある。

『大清』の藤五郎のほうでは、いよいよ金ずくではいけないと見てとると、こんどは戦法を変えて巧妙な追出しにかかった。

京屋のひろい張場の裏の地面を買いとって、そこへ三階建の普請をして母屋と鍵の手につないでしまった。

今までの南がわだけでもたくさんだったのに、こんなふうに東がわの地ざかいへ見あげるような三階建をつくられたので、東と南をふさがれることになり、京屋の張場はいちにちじゅう陽が当らない。

紺屋は張場だけで持っているようなものだから、ここへ陽が当らなかったらまるっきり商売にならない。

折れてくるか怒鳴りこんで来るかと待ちかまえていたが、膿んだとも潰れたとも、なんの音沙汰もない。藤五郎のほうでは拍子ぬけがして呆気にとられる始末だった。

どうするだろうと様子をうかがっていると、三四人残っていた職人をみな出してしまい、ガランとした大きな家でかみさんとふたりっきりで、むかし流行った友禅扇を細々とつくりはじめた。こんなことまでしても腰をすえようとするそのしかたがあまり依怙地なので、『大清』のほうでも癪にさわったが、さりとてどうすることも出来ない。

こんなふうに睨みあったまま、一年ばかりたった。

吉兵衛の家内のおもんは、もとは仲町の羽織芸者で、吉兵衛と好きあって一緒になった仲だが、なんにしても吉兵衛の甲斐性ないのと陰気くさいのにすっかり愛想をつかし、急にむかしの生活が恋しくなってきた。

となりのさんざめきを聴きながら、毎日、愚痴ばかりこぼしていたが、そのうちにとうとう我慢ならなくなったと見えて、ある日、唐突に『大清』のところへ来て、仲働きにでもつかってもらいたいと言い出した。

『大清』もおどろいたが、なんといってもむかし仲町で鳴らしたからだ、老けたといっても取って二十五。愛嬌のある明るい顔立ちで婀娜めいたところも残っている。頼んでも来てもらいたいようなキッパリとした女っぷり。

藤五郎も喉から手が出るほどだったが、なんといっても他人の家内なんだから、当人がいいなり次第にそれではと言うわけにはゆかない。ご主人の判でもあったらお引きうけしましょうと言って帰すと、おもんははっきりしたもので、判どころではない、吉兵衛の三下り半を持って引っかえして来て、これならば文句はありますまい、と言った。

むかし、あれほど入れあげた吉兵衛が、よくまア素直にこんなものを書いたもンだと、藤五郎が言うと、おもんは、となりへ仲働きに行くでは、どうせすったもんだでこんなものを書くわけはないから、『大清』の藤五郎さんのところへ後添いに行くつもりだから、きっぱりと縁を切ってくれと言いますと、吉兵衛は、しばらくわたしの顔を眺めていましたが、お前はどうせ島育ち、死ぬまで野暮ったく暮せるはずはない。いずれそんなことになるのだろうと覚悟していた。『大清』ならば、いわば水に芦。これが紙問屋へ行くの呉服屋へ行くのと言うんなら決して承知はしないが、水商売ならお前の性にあう。いかにも承知してやろう。それにつけても、お前の持病は癪。調子にのってあまり無理にからだはつかわないように気をつけるがいいと、大変なわかりよう。もっとも、あんな気の弱い男だから、そのくらいのことしか言えるはずはないンですが、女房から別れ話を持ちだされて、こんなメソメソしたことしか言えないのかと思うと、あんまりな意気地のなさに無性に腹が立って、なることなら突きとばしてやりたいような気がしました。『大清』も、あまり馬鹿々々しいので笑い出し、世の中にはずいぶん尻腰のない男もあるもんだ、と言った。

『大清』は三年前に女房をなくしたが、忙しいにまぎれて不自由なことも忘れていたが、おもんの言葉で味な気になり、とうとう瓢箪から駒が出ておもんを後添いにしてしまった。

この経緯がパッと町内にひろがったので吉兵衛はいい物笑い。裏どなりの担ぎ呉服の長十郎というのが、ひとごとながら腹をたてて、風呂でひょっくりあった時に、お前は阿呆だとばかし思っていたが、女房を寝とられてそんなふうに落着いていられるところなんざアこりゃア大した器量人だ、と皮肉を言うと、吉兵衛は、妙な含み笑いをして、俺が落着いていられるのには訳があるンだ。『大清』が奥山にいるときの悪事のしっぽを俺ににぎられているンだから、きいたふうの真似をしても、その実、生涯、俺に頭のあがりっこはねえんだ。それに、おもんだってどんなつもりで進んで『大清』の後添いになったか、その裏の事情がお前なんぞにわかるはずはねえ。なにも知りもしねえくせにきいたふうのことを言うと口が風邪をひくぜ、気をつけろい、と、いつにない巻舌でやり返したということだった。

三階の窓

浅草橋の番屋で。

今日もまた暑くなるのだと見えて、ようやく白んだばかりなのに、燦くような陽の色。

ずっと陽照りつづきで檐下の忍草までグッタリと首を垂れている。

北町奉行所のお手先、神田鍋町の御用聞、神田屋松五郎。まるで蚊とんぼのように痩せているので、ひょろ松ともいう。

江戸一の捕物の名人、仙波阿古十郎の下についてタップリと腕をみがき、このごろではもう押しもおされもしないいい顔。

腕組みをして釣忍を見あげながら、下ッ引の話を聴いていたが、檐から眼を離すと軽くうなずいて、

「いや、よくわかった。……京屋が担ぎ呉服に言ったセリフが気にかかるの。……それで、藤五郎の身もとはもう洗って見たか」

下ッ引の十吉は、切れッぱなれよくうなずいて、

「藤五郎は左腕に気障な腕守をしていて、いつもこいつを放したことはない。どうせその下には入墨があるってことはわかっている。……ところで、町内でたったひとり、その下を見たやつがあるンです。……左衛門町の棒手振の金蔵というのが、藤五郎が生洲へ手を入れているところへ行きあわした。どういうはずみだったか、そのとき銀の腕守の留金がはずれて生洲の中へ落っこちた。それで見る気もなく見たンですが、たしかに甲府入墨を焼切った痕のようだったというンです。金蔵はヒョイと見て、こいつはいけないと思ったもンだから、あわててわきをむいてすっ恍けていたンですが、横目で様子をうかがうと、藤五郎は水に濡れたまま大急ぎで、左手を懐へつっこんでしまったンだそうです。……これはつい一刻ほど前に訊きこんだんですが、早いほうがいいと思いましたから、亀のやつをすぐ甲府まで飛ばせてやりました」

「おお、そうか、そりゃア手廻しがよかったな。……訊くことはこれでおおかた訊いてしまったわけだが、吉兵衛というやつは、そのほかになにか人から恨まれるような筋でもねえのか」

「なにしろ、いま申しあげたような意気地なしですから、あまり人づきあいもなく、吉兵衛のほうで恨みを買うようなことはなかったようです。……裏どなりを克明に訊きこんで歩きますと、この半年というものはまるっきり家にひっこんでいて、たまに外へ出ると、菩提寺へ出かけて行って墓の草むしりばかりしている。それが楽しみだというンだから、よッぽど変った奴にちがいないンです」

裸の膝っ小僧へにぎりっ拳をおいて、

「ときに、お見こみはいかがです。やはり……」

ひょろ松は、むずかしい顔をして、

「そんなことがわかるもんか。吉兵衛の口だけできめてかかれるもンじゃねえ。強がって与太っぱちを言ったのかも知れねえからの」

「でも、入墨の痕が……」

「それだって、その棒手振がなにをどう感違いしたのかわかったもんじゃねえ。あわてると仕損じる。まアまア手がたくゆくこッた」

と言いながら、帷子の襟をしめ、

「じゃ、ひとつとっくり焼跡を見ることにしようか。念を押すまでもねえが、昨夜のままになっているンだろうな」

「そのご念にはおよびません。非常止めにして、火消人足さえ入れないことにしてあります」

「京屋の間取りはわかっているか」

「ここへ図取りがしてございます」

「おお、そうか、よしよし。じゃ、出かけるとしよう」

浅草橋からは、わずかな道のり。

手扇で陽ざしをよけながら、二丁目の角まで来ると、その角から河岸っぷちまで止め繩を張りめぐらして番衆が六尺棒を持って立番をしている。

ひょろ松は、番衆にちょっと声をかけておいて、十吉とふたりで焼跡へ入って行く。

京屋の塀が五間ばかり焼けのこっただけで、よくまあこう見事に焼けたものだと思われるほど。

家が古いのに、よく乾き切っていたと見え、梁も桁もかたちがなくまっ黒に焼けきった焼棒杭と灰の上に屋根伏せなりに瓦がドカリと落ちつんで、すこし谷のように窪んだところにまっ黒に焦げた吉兵衛の死骸が俯伏せになっている。

ひょろ松は、一間ほど離れたところに突っ立ってジロジロと眺めていたが、十吉のほうへ振りかえると、だしぬけに、

「おい、十吉、この死骸はどうしたんだ」

「どうした、とおっしゃると」

「誰か手をつけたのか、掘出したのか」

十吉は、首をふって、

「そんなことはしませんです、昨晩からこうなっているンで」

「それは、確かなことなンだろうな」

「確かも確かも。番所で油を売っていまして、ジャンと鳴ると火消改と一緒にまっさきに飛んで来たのはこのあっしなんで。……それから焼落ちて水手が引きあげるまで、ずっとここを離れなかったンです」

「すると、お前が見たときから、このありようは変っていないわけだな」

「へえ、そうなンでございます」

ひょろ松は、顎を撫でながら、なにか思案していたが、

「するとなんだな、十吉。これは焼死んだのじゃなくって、殺されてから火の中へ投げこまれたのだな」

「えっ、それはまたどういうわけで?」

「だって、そうじゃないか。つもっても見ろ、焼け死んだのなら、死骸は瓦の下になっているはずだろう。ところが、こうして瓦の上にある。言うまでもなく、これは殺されてから火の中へ投げこまれた証拠だ」

「なるほど、こいつア理屈だ」

「なア、十吉、お前が駈けつけて来たときにはもうだいぶ火の手があがっていたか」

「火の手どころじゃありません。すっかり火がまわって、駈けつけたときにはもう焼落ちるばかり。手のつけようがねえもンですから、こっちは放っておいて『大清』の塀へばかり水をかけていたンで」

「それでよくウマがあう。……見る通り、西と北は大通り。火の手があがって火消や弥次馬が来てからじゃ、ひと目があってこんな芸当は出来ねえはず」

と言いながら、すぐ鼻っさきの南がわに聳え立っている『大清』の三階のほうを顎でしゃくりながら、

「おい、あそこを見ろ。三階の座敷の窓が張出しになっている。あのへんからだとやれそうだな」

十吉は、頭をそらして目測りをしていたが、

「なるほど、やってやれないこともありますまいが、すこし間尺がちがいますね。なんといったって死んだ人間の身体はひどく重量のあるものだから、どうはずみをつけて放りだしたって、こんなところまで飛ばせるわけがねえ。もっと塀ぎわへ落ちるでしょう」

ひょろ松は、ニヤリと笑って、

「三階の櫓下に非常梯子が吊ってあるだろう。あれが、手品のからくりだ」

十吉は、膝をうって、

「考えやがった。……すると、つまり、梯子のはしへ死骸をのせて……」

「こっちへヒョイと突きだせば、否でも応でも死骸がひとりでにこのへんまで辷り出してくる。だいたいそのへんのところだろう」

十吉はうなずいていたが、急に怪訝そうな顔つきになって、

「たしかにそれにはちがいない。それはよくわかりましたが、それにしても、なんのためにそんな手間のかかることをやったンでしょう。わざわざあんな高いところまで死骸を引きあげて火の中へ放りこむような廻りくどいことをしなくとも、殺しておいて火をつけりゃそれですむことじゃありませんか」

「それはなア、火をつけた奴と吉兵衛を殺した奴と人がちがう。つまり、放火と殺人はふたりの人間の手で別々にやった仕事だからだ」

「そりゃまた、どういうわけで?」

「三階から火はつけられねえ。ところで、死骸は三階からでないとここまで届かねえ。殺しておいて火をつけたほうが簡単なのに、それをしなかったのは、火をつけてしまってから、そのあとで急に、吉兵衛を殺さなければならねえ事情が出来たからだ」

「そう聞けば、いかにももっとも。でも、……ふたりの手で別々に、とはどういうんです」

「だってそうじゃないか。火の手のあがったのが四ツ半だということだったが、藤五郎は夜の五ツ半(九時)ごろ、芝浦へ小鰡の夜網を打ちに行って『大清』にはいなかったんだから、三階からこんな芸当することは出来ない。……ところで、おもんのほうは昨日いちんち家から外へ出なかったということだから、このほうは隣りへ火をつけるわけにはゆかねえ。まず、こういう訳だ」

十吉は、うるさくうなずいて、

「よくわかりました。すると、火をつけたのが藤五郎で、吉兵衛を殺したのはおもん……」

ひょろ松は、手をふって、

「おいおい、早まっちゃいけねえ。誰もそんなことを言ってやしねえ。それを、これから調べようというんだ。あまり頭からきめてかからねえこった」

と言いながら、吉兵衛の死体のそばへ寄って行って焼瓦の上にひきおこし、懐中から鼻紙を取りだして太い観世撚をつくって、それで吉兵衛の鼻孔の中をかきまわしていたが、やがてそれを抜きだしてためつすがめつしたのち、十吉のほうへ観世撚のさきを突きつけ、

「ほら見ねえ、自分で火を出して煙に巻かれて焼け死んだのなら、鼻孔の中へ媒や火の粉を吸いこんでるはずだが、こうやって見るとまるっきりそんなものがなくてこの通り綺麗だ。やっぱり殺されたんだぜ」

そう言ってるところへ、焼瓦を踏みながら飛んで来たのが、昨晩からずっと『大清』へつめさせてあったこれも下ッ引の孫太郎。息せき切りながら二人のそばへやって来て、

「親方、おもんが土蔵の中で血を吐いて死んでいます。……どうも殺されたような様子なんで……」

ひょろ松は、十吉と眼を見あわせて、

「この朝がけからご厄介なこった。今日も暑くなるぜ。しょうがねえ、ひと汗かきに行くとするか」

と言って、もう一度、三階のほうを見あげ、

「前後の模様から推すと、おもんは別れてからも、藤五郎の留守にチョクチョク吉兵衛をひっぱりこんでいたんだと見えるな」

十吉はうなずいて、

「まず、そのへんの見当で。……これじゃ話がもつれるのが当然だ。じゃア、お伴いたしやしょう」

ようやく六ツになったばかり。磨きあげたような夏の朝空。

薬包紙

膳椀の箱やら金屏風やらあわててゴタゴタと運びこんだ土蔵の中に蒲団を敷いて、おもんは、その上で血を吐いて死んでいる。

よほど苦しかったと見え、船底枕を粉々に握りつぶしている。血の痕を辿って見ると、いちど土蔵の扉のところまで這って行って土扉に手をかけたが、力つきてまた蒲団のところまで戻ってきてここで縡れたのらしい。

ひょろ松は、藤五郎のほうへグイと膝を進め、帷子の袂から珊瑚の緒止めのついた梨地の印籠を取りだして、藤五郎の眼の前へそれを突きつけ、

「……こんなものが土蔵の庇あわいのところに落ちていたが、藤五郎さん、これは、お前の印籠だろうね」

「へえ、さようでございます」

ひょろ松は、別な袂から揉みくしゃになった赤い薬の包み紙を取りだし、

「ところで、こんなものがそこの屏風箱のかげに落ちていた。この通り印籠の中に残っている薬の包み紙と同じなんだが、こりゃいったいどうしたわけのもンだろう」

悪相というのではないが、ひと癖ありそうな面がまえ。ズングリと肥って腹が突き出し、奥山の高物小屋で呼込みでもしたら似あいそうな風体。

藤五郎は、きかぬ気らしく太い眉をピクリと動かして、

「それがどうしたとおっしゃるんです」

「どうしたもこうしたもねえ。俺が訊いてるんじゃねえか。それに返事をすりゃアいいんだ。この包み紙はこの印籠から出たものだろうと、そう訊ねているんだ」

「それはあっしが申しあげるより、あなたがごらんになったほうが早いでしょう」

「返事をしたくなかったらしなくてもいい。じゃア、別なことを訊ねるが、こんなところに印籠が落ちているのはどういうわけなんだ」

「存じませんです」

「印籠に足が生えて、ひとりでここまで歩いて来たか」

「ご冗談。……それはおもんが持ちだしたので、それでこんなところにあるんだろうと思います。もう充分お調べがあがってることでしょうから、多分ご存じのことと思いますが、おもんはきつい癪持ちで、そのたびに難儀をいたしますから、羽黒山の千里丸をいつも切らさずにこの印籠へ入れておくんです。……昨晩の火事さわぎで無理にからだをつかったと見え、七ツごろあっしが夜網から帰って来ますと、また癪でも起しそうな妙な顔していますので、ここはゴタゴタして大変だから土蔵へ行って静かに寝ていたらいいだろうと言いますと、じゃそうします、と言って土蔵へ寝に行きました。……あっしは内所へ床を敷かせて寝ましたが、疲れていたもンでついさっき叩きおこされるまで、なにも知らずにグッスリと眠っていたんですが、おもんは土蔵へ行ってから急に差しこんで来たので内所まで印籠を取りに来たのだと思います。……なにかほかにまだお訊ねの筋がございますか」

「そういちいち先くぐりをするな。もちろん、こんなこっちゃすみやしない。順々に訊くから、訊いたことに返事をすりゃいいんだ」

藤五郎は、キッと顔をあげて、

「お言葉のようすですと、なにかあっしに疑いでもかけておいでのように思われますが、あっしがおもんを殺したとでもお考えになっていらしゃるんでしょうか」

「藤五郎さん、お前さん妙なことを言うじゃないか。なんといったってお前さんの家で人が死んでいるんだ。家内に当りをつけるぐらいのことは当然だろうじゃないか。それとも、なにか憶えでもあるというのか」

ジロリと藤五郎の顔を眺めて、

「けさ七ツごろ、お前さんが夜網から帰って来ると、おもんとなにか大変な口争いをしているのを女中が聴いたそうだが、いったい、どんなもつれだったんだね」

藤五郎は、グイと肩をひいて、

「そんなことまで申しあげなくちゃならねえんですか」

「まア、そうだ。役儀のおもてで訊いているんだから、ひとつ言って貰おうじゃないか」

藤五郎は、ちょっと顔を伏せていたが、すぐ顔をあげて、

「あまり言いたくない話ですが、役儀とおっしゃるならやむを得ない、洗いざらい申しあげますが、実は、このごろ、おもんがあっしの留守に、チョクチョク吉兵衛と話しこんでいるらしいンです。……実は、きのうの夜、夜網の出がけに京屋へ出かけて行ったのもそのためで、吉兵衛にあって人の口にかかると外聞が悪いから、そんなみっともないことはよしてくれとそれを言いに行ったわけだったんです。ところが、あっしが夜網から帰って来ると、お仲という女中が、旦那、昨晩もまた京屋さんが来ておかみさんと三階の出窓の部屋で話をしていたようです、と耳打ちをしたンで、さすがのあっしもおさまらなくなり、相手はもう仏になった人ですが、念を押して出て行ったすぐその後で、そんな舐めた真似をするおもんの白ばっくれように腹が立って、すぐおもんのところへ行って……」

「ずいぶんひどく殴ったりたたいたりしたそうだな。それで、殺す気になったのか」

藤五郎は顔色を変えて、

「あっしが、おもんを……」

ひょろ松は、十吉のほうへチラと眼くばせをしてから、

「藤五郎さん、もう証拠はあがった。……吉兵衛の家へ火をつけ、おもんに吉兵衛を殺させておいて、そのおもんをまた盛殺したのは、藤五郎さん、お前さんだろう」

藤五郎は、唇を震わせて、

「どういう証拠で、そんなことをおっしゃるンです」

「ひと口には言えないから、順々に言ってやる。……なア、藤五郎さん、さっき、内所で起されるまでグッスリと寝こんでいてなにも知らなかったと言ったが、七ツ半近くお前さんが土蔵の扉前でウロウロしているのを雪隠の窓から見かけたものがあるというんだが、それはどうしたわけなんだ」

それを聞くと、藤五郎は見る見る額に汗を滲ませて顔をうつむけてしまった。

ひょろ松はうなずいて、

「なるほど、この返事はしにくかろうから、わたしが代って言ってあげよう。……つまり、こういうわけだったんだな。千里丸と見せかけて毒の薬包みを印籠の中へ入れておいた。おもんはそんなことは知らないから、いつもの持薬だと思って嚥んだンだ。お前さんはちょっと様子を見たくなってそっと内所をぬけだして土蔵の扉前まで行くと、おもんが血だらけになって這いだして石段のところで倒れている。ひょっと見ると、土扉の白壁に血で『とうごらう』と書いてある。……おもんはお前さんに毒を盛られたと知って恨みをいいに土蔵から這いだしたんだが、とても内所まで行けそうもないので、恨みの一分を晴らすために、指へ血をつけてそんなものを書きつけたんだ。……お前さんはおどろいて、おもんの死体をひきずって寝床まで運んで行って土扉をしめ、石段の上にこぼれていた血を草履で踏みけし、鍵のさきで自分の名前の書いてあるところを削ってしまった。これにちがいなかろう。それともなにか言い分があるなら聴こうじゃないか」

「…………」

「お前さんはじゅうぶん踏み消したつもりだったろうが、水石というものは、ご存じの通り目の荒いもンだから窪みに血が溜ったところがいくつも残っている。……ねえ、そうだろう。おもんが自分のたらした血を気にして草履で踏みけすはずもなし、そういう苦しい中でわざわざ土扉をしめるようなそんな丁寧なことをするわけもない。これはどうも言いのがれする道はなさそうだ。……ねえ、藤五郎さん、お前さんは名の書いてあったのは土扉の白壁だけだと思っていたろうが、もう一カ所ほかにもあったんだ。……土蔵の額縁の黒壁にもやはり同じことが書いてあったんだが、このほうは暗くて気がつかなかった。……おもんもなかなか抜け目がない。白壁のほうだけだとこっそり削られてしまうかも知れないと思ったので、それでそんなことをしておいたンだ。それもただのところじゃない。朝陽があたるとその字が光って見えるように東むきのがわへ書いておいた」

そう言って、懐中から『とうごらう』と赤く滲んだ半紙を取りだし、

「土蔵へ入ろうとして、ヒョイと見ると、黒壁になにか字が書いてあるがはっきりわからない。それで半紙を濡らしてその上へ貼りつけて見ると、こういう奇妙なものが滲み出したんだ」

藤五郎が切迫つまった眼つきでなにか言いかけるのを、ひょろ松は押えて、

「おもんに吉兵衛を殺させたというのは、どういう筋から推すかというと、お前さんとおもんが同腹だったという証拠があるからなンだ。殺しておいて火をつけると、すぐ自分に疑いがかかるから自分が夜網を打ちに行った後で、吉兵衛がたしかに生きていたということを誰かに見せておく必要がある。それで、自分が船宿に着いたころに、おもんに吉兵衛を引きこませ、わざと女中に見られるように仕組んでおいた。……お前さんが吉兵衛の家へ出かけて行っていい加減な話をし、帰ると見せかけて染場の暗闇に隠れ、吉兵衛が出て行ったのを見すましてそこから這いだし、押入れや納屋にタップリと火繩を伏せて、なに喰わぬ顔で夜網を打ちに行った。……お前さんとおもんと同腹だった証拠はまだほかにもある。吉兵衛の死骸は、火がまわったところを見すまして梯子で三階の出窓から火の中へ跳ねとばしたんだが、あれほど大きな梯子を櫓から外してまた櫓へかけるようなことは、おもんには出来る芸当じゃねえからな」

「神田屋さん、そりゃア……」

「まア、黙っていなせえ。言うことがあったら番屋で聴こう。まだ続きがあるんだから邪魔をしちゃいけない。……最後に、京屋へ火をつけたのはお前さんだというのは、どういうすじかと言うと、これには二つの証拠がある。だいいちは、この印籠の下げ緒についている藍。これはお前さんが染場の藍甕のそばでしゃがんでいたという証拠なンだ。訊けば、お前さンが京屋へ出かけて行ったのは昨夜が始めてだそうだが、吉兵衛と話をするのに、なにをそんなところまで這いこむことはいらなかろう。湿ってこそいないが、この藍の色はつい昨日きょう染まったもの。お前さんも知っていなさろうが、藍甕は地面から五寸出るぐらいにして深くいけてあるもんだが、印籠の下げ緒が小半分染まっているところを見ただけでお前さんが藍甕のそばでどんなようすをしていたか、はっきりとわかるんだ。落したもんなら下げ緒ぜんたいがスッポリと染まる。しゃがんだはずみに腰に下げた印籠が半分ばかり藍甕の藍に浸かったのをお前さんは気がつかなかった。もうひとつの証拠というのは火繩と火口。……お前さんの網道具の小函の抽斗に火繩の屑と火口が入っていた。これなんざア、まず、のっぴきならねえ証拠というほかない」

十吉と孫太郎が左右から藤五郎の手をとって、

「おい、大清、一緒に番屋まで来てくれ」

グイと引立てた。

十五日

駕籠屋さん。もとは江戸一の捕物の名人。冬瓜のお化け、顎十郎こと仙波阿古十郎。

息杖によりかかってひょろ松の話を聴いていたが、ひと切がつくと、眉をしかめて、

「おい、ひょろ松、そいつはいけねえなア。ひょっとすると、そりゃア藤五郎がやったんじゃねえぜ」

と言って、相棒のとど助のほうへ振りかえり、

「ねえ、とど助さん、チト妙な節があるじゃありませんか。恨むすじは吉兵衛のほうにあるが、藤五郎のほうにはない。そうまでおとなしくしているものを、おもんが吉兵衛とどうのこうのぐらいのことで、殺して家へ火をつけるなんてことをするものでしょうか」

とど助はうなずいて、

「手前もさっきから訝しく思っていたのでごわす。なんとしてもその点が腑に落ちません」

「そうですよ、殺すにしろ火をつけるにしろ、もっと手軽な方法がいくらでもある。わざわざ難儀して手のかかることばかりやっているとしか思われてならない。つまりね、なんとなく不自由で、不必要に企みすぎたというような気がしませんか」

「します、します。……それに、どんな方法でやったところが、京屋と『大清』がそんな関係であって見れば、かならず藤五郎に疑いがかかる。これは逃れっこがないんだから、ちょっと悧巧な男なら、これはけっして殺りません」

「そうですとも、殺らないほうが本当なんです」

ひょろ松は、たまりかねたように割って入って、

「ですから、甲府でなにか悪いことをしたそのしっぽを吉兵衛が……」

顎十郎は笑いだして、

「大清が京屋のとなりへ移って来たのは昨日や今日じゃあるまい。どんなしっぽをつかまれたか知らないが、いつ言い出されるかわからないのに便々と二年も放っておくわけがない。どうでも殺さなければならないのなら、もっと以前にやっているはずだ。また、吉兵衛のほうにしたってそれだけの弱味を握ってるなら、おもんを引きあげられたときに口惜しまぎれにひと言ぐらい喋らなければならねえ場合だ。俺の考えるところでは、そりゃアたぶん吉兵衛が出鱈目だな。……俺にすりゃア、そんなことより吉兵衛の寺通いのほうが気にかかる。墓いじりばかりしていたなンていうのは、自分の死ぬ日が近くなったのを知ったためではなかったろうか。……おい、ひょろ松、お前、吉兵衛の菩提寺というのへ行って見たのか。どんなことをしていやがったのか洗って来たのか」

ひょろ松は、額へ手をやって、

「どうも、そこまでは……」

「それをやらなきゃ話にならねえ。……吉兵衛の菩提寺というのは、いったいどこだ」

「浅草御蔵前の長延寺だということです」

「そんならわけはねえ。ここからひと跨ぎだ。これからすぐ行って見よう。さあ、乗んねえ、乗んねえ、かついで行ってやる」

嫌がるひょろ松を駕籠へのせ、ホイホイという間もなく長延寺。

住持にあってようすを訊くと、

「いつもひどく沈んだようすをしていて、墓石を洗いながらブツブツひとりごとを言ったり、墓にもたれてぼんやり考えこんでいたりするので、わたくしも気にしていたンですが、このあいだ来たときなどは、永代経をたのみますと言って二十両つつんで来ました」

顎十郎は、妙な顔をして、

「永代経というのは自分が江戸を離れて生涯帰ってこられねえとか、死目が近くなって、それに跡目がいねえなどというときに、忌日々々に先祖の供養をしてもらうことなんだが、ピンピンしている吉兵衛がそんな真似をするのはチト妙じゃなかろうか」

永代経料の包み紙がまだ本堂の壁に貼ってあるというから三人でよってそれを見ると、永代経料、と書いて、その傍に『六月十五日』と日づけが入れてある。顎十郎は、手をうって、

「これですっかりタネがあがった。おい、ひょろ松、とど助さん。吉兵衛は、どうでも藤五郎とおもんに疑いがかかるように仕組んでおいて自分で家に火をつけて死んだんですぜ」

ひょろ松は、えっとおどろいて、

「ど、どうしてそういうことが……」

「そうだろうじゃないか。だいいち、永代経がものを言う。それに、この日づけを見ろ。これをあげに来たのは十一日だったというのに、ここには『六月十五日』と書いてある。十五日というのは吉兵衛が死んだ昨日のこと。十五日に死ぬ、十五日に死ぬと、そればっかり考えているもンだから、ついなんの気もなしにその日づけを書いてしまったンだ」

ひょろ松は、腑に落ちぬ顔で、

「それはともかく、どういうわけで十五日なんていう日を選んだのでしょう」

「六月十五日は小鰡の切網ゆるしの日で、かならず藤五郎が留守にするとわかっているから、それで、この日を選んだンだ。して見るとこりゃア長いあいだかかって企んだものなんだな。……これで見ると、吉兵衛というやつはよっぽど執念ぶかい奴にちがいない。三階から死骸を投げ落したように見せかけるために自分でわざわざ屋根の物干場へあがって焼け死に、おもんか藤五郎でなければやれないというふうに拵えたところなンか実にどうも天晴れなもンだ」

三人で番屋へ来て、藤五郎の印籠を手にとって眺めていたが、顎十郎は、フイと口を切って、

「ねえ、藤五郎さん、あなたが吉兵衛のところへ行ったとき、吉兵衛は粗相して藍壺をひっくり返し、あなたの着物の腰のあたりを藍で汚しましたろう」

「はい、その通りでございます」

「吉兵衛は、あわてて、こりゃア飛んだ粗相をしました。すぐ汚点抜きをしますから、と言ってあなたを裸にしましたろう」

「はい、その通りでございます」

顎十郎は、ひょろ松のほうへむいて

「……印籠の薬を毒とすりかえたのは、そのあいだに吉兵衛がやった仕業なンだ」

と言って、小馬鹿にしたような顔で、ひょろ松のほうへニヤリと笑って見せた。

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