Chapter 1 of 1

久生十蘭

青い波のうねりに、初島がポッカリと浮んでいる。

英国種の芝生が、絨氈を敷いたようにひろがって、そのうえに、暖い陽ざしがさんさんとふりそそいでいる。

一月だというのに桃葉珊瑚の緑が眼にしみるよう。椿の花が口紅のように赤い。

正月も半ばすぎなので、暮から三ガ日へかけたほどの混雑はないが、それでも、この川奈の国際観光ホテルには、ここを冬の社交場にする贅沢なひとたちが二十人ほど、ゴルフをしたり、ダンスをしたり、しごくのん気に暮らしている。

時節柄、外国人の顔はあまり見えず、三階の南側のバルコンのついた部屋に母娘のフランス人がひと組だけ滞在している。

巴里の有名な貿易商、山田和市氏の夫人と令嬢で、どちらも相当に日本語を話す。

夫人はジャンヌさん、娘はイヴォンヌさんといって、今年十七歳になる。朝露をうけた白薔薇といった感じで、剛子はたいへんこのお嬢さんが好きだ。

もしや、露台の揺り椅子にでも出ていはしまいかと、そのほうを見あげたが、窓には薄地のカアテンがすんなりとたれさがっているばかりで、そのひとのすがたは見えない。

めったに社交室へも顔を出さずに、いつも母娘二人だけで楽しそうに話しあっている。なんて淑やかに暮らしているんだろうとおもって、うらやましくなる。

それにひきかえて、『社交室』の連中は、いったい、どうしたというのだろう。

ゴルフの話、競馬の話、流行の話、映画の話、……浜の砂と話題はつきないが、なにより好きなのは他人のあらさがしで、よく飽きないものだと思われるほど、男も女もひがなまいにち人の噂ばかりして暮らしている。

このホテルに泊っているひとびとの噂や品評がおもで、社交室にい合わせないひとたちが片っ端から槍玉にあげられる。誰れかちょっと座を立ってゆくと、すぐそのひとの品評にうつり、今までひとの噂をしていたそのひとが、こんどはさんざんにやっつけられる。まるで、このホテルのほかに世界がないように、互いに鵜の目鷹の目で他人を見張っている。

巧妙なあてこすりもあれば、洗練された皮肉もある。ちょっと聞くと、たいへん褒めているようで、そのじつ、ちゃんと毒のある中傷になっているのだから油断も隙もあったものじゃない。この連中にかかったら、どんなに隠しておきたいことでも、遠慮会釈なくあかるみへひき出され、なん倍かに引きのばされ、拡声機にかけてホテルの隅々にまで吹聴されてしまう。

剛子がこのホテルへきてから、今日でちょうど半月になる。こんな贅沢なホテルでぶらぶらしていられる身分でもなければ、また、たいして好きでもない。叔母の沼間夫人がしつこくすすめるのでしょうことなしにやってきた。

だいいち、それが妙でしょうがない。日ごろは、こんな親切な叔母ではないのである。むしろ、意地悪だといった方が早いだろう。それも相当渋いもので、眼にたつ意地悪をするのではない。思いもかけぬようなところでピリッと辛いのである。こういう複雑なやりかたもあるものかと、そのつど、剛子はあっけにとられる。

なにしろ、打算にたけた叔母のことだから、どうせ、なにか相当の理由がなくてはならぬはずだ。なかなか、二人の娘のひきたて役ぐらいのところではなかろうとおもわれる。

考えてもわかりそうもないことだし、生れつき屈託のないたちだから、あまり深いせんさくはしないことにしている。なにか自分の信念に反するようなことでもおしつけられたら、その時はそれに相当した態度をとればいい。つつましくは暮らしてきたが、そういう場合にとるべき態度だけはちゃんと教えられている。

剛子は、もう一時間もこうしてひとりでサン・ルームの竜舌蘭のそばにかけている。

ここへはだれもやってこないし、窓からは陽がさしこむし、居心地の悪いことはないのだが、どうにも退屈でやりきれなくなってきた。なにもしないでいるというのは、なんという厄介なことだろう。

もっとも、これは今日に始まったことではない。ここへきてもう二日目にすっかり退屈してしまった。それで、暮からしかけになっていた編物をとりだしてせっせとやっていると、叔母が忍び足でやってきて、小さな声でしかりつけた。

「あんまり、みっともないことは、しないでちょうだい」

編物をするのが、なぜみっともないのか剛子にはわからなかったが、素直に叔母の意見に服従した。しかし、どうにもてもちぶさたでしようがないので、図書室からメリメの『コロンバ』を持ちだし、主人公のネヴィール嬢に興味を感じて、すこし熱くなって夢中になって読んでいると、またいつの間にか叔母がうしろへきて、たいへん優雅なしかたで、剛子の手のなかから本をとりあげてしまった。

「どうして、あなたは、そう、こせこせするんでしょう。お嬢さまらしくおっとりしていることはできないの。育ちの悪いのを、あまり、ひとに見られないようにしてちょうだい。あたしたちに恥をかかせたくないと思ったら」

剛子は、これにも素直にうなずいた。読書をするのがなぜお嬢さんらしくないんですか、などとききかえしはしなかった。たぶん、皮肉にきこえるだろうと思ったから……。相手が叔母でなくとも、こんなちいさなことで争う気にはなれないのである。

叔母が図書室を出てゆくと、剛子は、ひくい声で自分にいってきかせた。

「ほんとに、あたし、お嬢さんでなくてよかったわ」

剛子は立ちあがって窓から首をつきだす。樹墻を越えてその向うに、川奈ゴルフ・リンクのフェア・ウェイがひろびろとひらけ、ゴルファーが歩きまわっているが指のさきほどに小さく見える。剛子は田園嫌いではないが、どうも、これはすこし退屈な風景である。

心そこから閉口して、ひとつ、伸びをすると、

「死にそうだわ」

と、つぶやいた。

のびのびと発育した、キッチリと肉のしまった五尺四寸の若々しい肉体が、クッキリと床のうえに影をおとす。胴はほっそりとしているとはいいがたいが、しかし、ミロのヴィーナスのあの健康な腰だ。灰色の単純なデザインのワンピースが、身体にそっていかにも自然な線を描きながら垂れさがってる、顔はいつも艶々と光っていて、元気のいい子供のような新鮮な印象をあたえる。口が少し大きすぎる。その大きすぎる口をあいてよく笑う。とりわけそういうとき、剛子は単純で快活に見える。

ところで、沼間夫人は、剛子が大口をあいて笑うのをあまり好いていない。

「笑うのは下等よ。もっとも、あなたのは特別だけど。……口をしめなさい奥歯が風邪をひく」

剛子は、奥歯が風邪をひかぬように、あわてて掌で口をおさえる。

剛子は退役陸軍少将石井長六閣下の末娘で、今年十九になる。しかし、笑ったり跳ねたりしているときは、十七ぐらいにしか見えない。

剛子とは妙な名前だが、これは剛情の剛ではない。質実剛健の剛である。長六閣下は、これからの女性は男のいいなりになるようなヘナヘナではいかん。竹のようにしなやかで、かつ、剛健な意志をもたねばならぬという意見で、それで剛子と名づけた。剛子は父の望みを嘱されているのである。

剛子が自分の名をいうと、相手は、かならず聞き違えて、

「ああ、露子さんですか」

という。すると、剛子は、

「つゆではありません、剛よ」

と、丁寧に訂正する。父の希望のこもった大切な名を間違われるのはいやだからだ。つゆ子なんて名は、なにか病み細って、蒼い顔をしてうつむいている女の姿を連想させる。剛子はそんななよなよした女性は嫌いなのである。

剛子には、もうひとつ、「キャラ子さん」という名前がある。

「キャラコ」のキャラは、白檀、沈香、伽羅の、あのキャラではない。キャラ子はキャラコ、金巾のキャラコのことである。

剛子がキャラコの下着をきているのを従姉妹たちに発見され、それ以来、剛子はキャラ子さんと呼ばれるようになった。

ある日、社交室の満座のなかで、槇子がキャラコの由来を披露したので、みなが腹をかかえて笑い、思いつきのいいのに感服した。

すこし手ざわりの荒い、しゃちこばった、この貧乏な娘にいかにもふさわしい愛称だと思われたからである。それで、だれもかれもがこの愛称で剛子を呼ぶようになった。

剛子はこういう愛称でよばれるのをかくべつ不服には思わない。キャラコの下着をきていることを別に恥だとかんがえないからである。垢じみた絹の下着をひきずりまわすよりは、サッパリとして、清潔なキャラコを着ている方がよっぽどましだと思っている。そして、これがまた父の意見でもあったのである。

長六閣下は、いつも、こういう。

「絹ではいかんな。木綿のような女でなくてはいかん」

剛子の一家は、父の光栄ある恩給だけでたいへんつつましく暮らしているが、剛子がキャラコの下着をきているのは、それには関係がなく、もっと深い感情のこもったことなのである。

槇子が、胸のうえに手を組みあわせ、グレース・ムーアのように気取りながら唄い終ると、

「おお、美事です!」

と、感にたえたような声をあげたのが、越智氏である。

越智男爵の三男で、このホテル中でだいいちの洒落者といわれるだけあって、さすがにすきのない身ごしらえだ。生地はウーステッドのストライプもの。ラベルをロング・ターンにし、よくこれで息ができると思われるくらい胴をしぼってあるので、うしろから見ると、蜂のような腰つきに見える。

三十を三つも越しているのに、なにをするでもなくのらくらとこんなところで日を送っている。もっとも、越智氏にとっては、これがだいじな仕事だともいえる。できるだけ社交界にしゃしゃり出て、金持の養子のくちにありつこうとしているのである。努力のかいあって、いままで二つ三つそういう口があったが、いつの間にかたち消えになってしまったのは、たぶん汚い腹を見抜かれたか、財産の点で折れ合いがつかなかったからであろう。

なんだかしら、最近目だって沼間氏の家族は愛想をよくする。『社交室』では、姉の方だろうか妹の方だろうかと、たいへん気をもんでいる。越智氏は姉娘の槇子の方にも妹娘の麻耶子の方にも等分に愛嬌をふりまくので、どうにも掴まえどころがないのである。

だれもあいづちをうってくれないので、越智氏は間のびのした薄手な顔を隣りへふりむけて、

「じつにもって、たいした才能です」

これでもか、というような大きな声でくりかえした。

越智氏の隣りに坐っているのは猪股氏である。もうそろそろ初老の年輩だ。粋ではないが、このホテルの滞在客中でだいいちの金持である。この節、もっともあてた軍需工場の持主で、すくなくとも五六百万は動くまいという社交室の測定である。教養のない実業家のタイプにありがちな、粗野で、ずぶとそうな印象を与えるのは、あぐらをかいたような鼻と獅子噛んだ厚い唇からくるので、内実は、臆病なほど気が優しいのだと取沙汰されている。

猪股氏は、不意をつかれてヘドモドしていたが、つぶやくような声で、

「いや、まったく……。まるで、オペラですな」

と、意味のないことをいった。せいいっぱいの智慧をしぼったところである。

猪股氏はこのごろのモダーン・タイプのお嬢さんが大好きだ。後妻にはぜひともそういうピチピチしたお嬢さんをもらいたいつもりなのだ、そういうお嬢さんたちに気にいるようなしゃれたことをいってみたいのである。

槇子は気どったポーズをつくりながら、つづいて、『あたしはあなたに夢中なの』というジャズ・ソングを唄いだそうとしていたが、猪股氏の讃辞をきくと、

「うへえ、いけねえ。……オペラだっていいやがる」

と、いまいましそうに叫ぶと、ツイとピアノを離れ、揺椅子のなかへ乱暴に仰向けにひっくりかえって、不機嫌そうに黙りこんでしまった。

槇子は今年二十三だ。眼も鼻も大きくて、なるほど器量はいいが、あまりととのいすぎてとっつきにくい顔だちである。髪をウェーヴぬきのロング・カットにしている。パーマネントの流行と逆にいったところが味噌なのだが、それにしても、濡れた着物のようにピッタリと皮膚にまといついた、ジュニヤ好みのプリンセス型のドレスとよくうつって、なかなか凄艶な感じに見せる。

槇子は揺椅子のうえでうるさく身体を揺すりながら、じろじろと猪股氏を見すえていたが、だしぬけに、

「猪股さん、あなた、お昼寝はどう? もう、そんな時間じゃないこと?」

と、いじめにかかる。待ってましたというように、一座がどっと笑いだす。

剛子が、そっと猪股氏の方へふりかえって見ると、猪股氏は熟したトマトのようにまっ赤になって、身のおきどころもないように恐縮している。気の毒になってなにかいってやりたいと思ったが、それをするとまた大騒動になるにきまっているので、いままで伴奏をしていたピアノの椅子から立ちあがって、社交室のずっと隅のほうへひきさがってしまった。

午後の陽ざしが窓からいっぱいに流れこみ、派手な絨氈や気どった家具をあかるくうきたたせる。煖房でほどよく暖められた社交室のなかは、うっとりするほど暖かい。窓べには冬薔薇やカーネーションが大きな花をひらき、ここばかりは、常春のようななごやかさである。

この社交室に、いま十人ほどの顔が見える。土曜日になると、泊りがけのゴルファーがきて、新しい顔が加わるが、今日は土曜日でも日曜日でもないので、ここにいるのは見なれた顔ばかりだ。それぞれ勝手なところへ椅子をもちだし、それぞれ自由な恰好でかけている。

いま紹介したひとたちのほかに、剛子の従兄の秋作氏がすっかりこちらへ背中をみせ、窓のそばで新聞を読んでいる。槇子の隣りの揺椅子には、妹の麻耶子が、いつもするとおり斜めに腰をかけ、左手を顔にあてて傾けながら、小指は気どったようすで唇の方へまげている。

姉の槇子よりは二つしたの二十一で、姉ほど美しくはないが、そのかわり、もっと底意地のわるい顔をしている。年よりは老けた沈んだ色のウールのブラウスをきて、まるでこの場の空気になんの関係もないといったような冷淡な態度をとっている。じろじろ観察するだけで、めったに自分の意見を出さないのがこの娘の癖なのである。

ピアノの横の方には、槇子たちの取巻きの一団、――パイプをくゆらしているワニ君。顎のニキビをひねくっているポン君。長い脛をもちあつかって足を組んだりほぐしたりしているアシ君。こういった連中がひとかたまりになっている。いずれも金持ののらくら息子。ダンスとゴルフとドライヴ、この三つのヴァライエティだけが生活の全部で、槇子姉妹に奴隷のように頤使されるのをたいへん光栄に存じている。ところで、この社交室に欠かしたことのない沼間夫人の顔が見えないのは、たぶんお散歩の時間にあたるからであろう。

こんなとこにまごまごしていないで、はやく逃げ出せばいいのにと、剛子がやきもきしているのに、猪股氏のほうは立ちあがることも忘れたように、見るもあわれにしおれかえっている。

いつまでたっても猪股氏が動かないので、槇子はすっかりじれてしまい、いきなり揺椅子から飛び起きると、

「じゃァ、こっちが逃げだそうッと……。あたしは、これから着がえをするから、見たい奴はついておいで」

ワニ君と、ポン君と、アシ君が先を争って立ちあがる。

「僕」

「ぼくもゆく」

「ぼく」

越智氏が中腰になって、あわててひきとめる。

「散歩なんぞいいじゃありませんか。なにか、もうひとつうたってくださいよ」

槇子は、いましがた社交室へはいってきた老人を露骨に指さしながら、

「あなただけでもうんざりなのに、ほら、また、あのきたないやつがはいってきた。……ごめんだわ。おもしろくもねえから、クラブ・ハウスにでも騒ぎに行くんだ」

と、みな一緒にどやどやと出て行ってしまった。

それは、みすぼらしいほどの粗末な服をきた、六十ぐらいの大柄な老人で、髪はまだ半白だが、顔には八重の皺の波がより、意地の悪そうな陰気な眼つきをし、薄い唇のはしにいつも皮肉な微笑をうかべている。

三階の隅の陽あたりのわるい小さな室にひとりで住んでいて、食事のほかにはめったに降りて来ない。だれも名を知らず、どういう素性の老人なのか、それもまるっきりわからない。

とにかく、不思議な老人である。『社交室』ではこの老人がしばしば問題になった。たぶんホテルの持主の親類かなにかだろう。さもなければ、あんな乞食のような老人をのさばらしておくはずはない。それにしても眼ざわりでしようがないから、支配人にかけあって追っぱらってしまおうということに意見が一致したが、先にたって交渉にゆくものもなく、うやむやになってしまったが、だれもいやがって、この老人が入ってくると、きこえよがしに舌うちしたり、おおげさに眉をしかめたりする。

ところで、剛子は、その老人をみすぼらしいとも思わないし、かくべつ気味がわるいとも思わない。どうしてみながそんなにいやがるのかそのわけがわからない。

剛子には、この老人がなにかたいへんな不幸にあったひとのように考えられ、自分のできることならどんなことでもして慰めてあげたいと思って、老人がサン・ルームの片隅などで淋しそうに坐っているのを見るとやさしく言葉をかけたり、ダームの相手になってやったりした。

すこし陰気だが、話してみると、教養のある奥ゆかしいところがあって、剛子にすれば、社交室のとりとめのない男たちとよりは、この老人と一緒にいるほうがむしろ楽しいくらいだった。

こんなことで、この老人に、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』というひとのわるい綽名がつけられるようになった。

槇子たちの組がおお騒ぎをしながら出て行ったあと、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』も猪股氏もいなくなって、広い社交室の中にキャラコと従兄の秋作氏の二人だけがポツンと残されることになった。

部屋のなかは急にヒッソリとなって、今まできこえなかった小鳥の声がのどかにひびいてくる。

秋作氏は窓ぎわの椅子にかけ、いぜんとしてこちらへ背中を向けたまま、塑像のように微動もしない。キャラコさんは秋作氏のたくましい肩をながめながら、よくあんなに動かないでいられるもんだと思って、急におかしくなって、もうすこしで笑いだすところだった。

(小供が意地っ張りをしているような恰好ね。なにをあんなに考え込んでいるのかしら。……たぶん『黒いお嬢さん』と喧嘩でもしたんだわ)

秋作氏は長六閣下末弟の子で、従って槇子たち同様、キャラコにとっても従兄にあたる。早くから両親をなくして、苦労しながら絵の勉強をしている。沼間夫人いうところの『乞食画かき』である。

秋作氏は、銀行家の沼間氏も、虚栄坊の夫人も二人ながらだいきらいで、沼間夫妻をいつもあいつらという代名詞で呼んでいる。しかし、槇子だけは好きだったとみえ、昨年の秋ごろ、槇子をもらいたいとたいへん熱心にたのみこんだが、アッサリとはねつけられてしまった。それまではずいぶん仲よくしていた槇子だが、その話になると、手のひらをかえすように、

「あなた、貧乏だから、いや」

と、はっきりしすぎるくらいはっきりと断わった。

秋作氏が知っていた槇子は、すくなくとも、こんな了見の狭い娘ではなかったはずだったが、論より証拠で、やはり自分の計量ちがいだったと思うよりほかはなかった。

しかし、あまりな返事なので秋作氏も不愉快になり、槇子に、貴様はクソみたいなやつだぞ、とひどいことをいったということを、あとでキャラコさんがきいた。

秋作氏はそれっきり沼間氏の一族と交渉を絶ってしまった。腹を立て、飲んだくれて歩いているという評判もあったが、その秋作氏が、つい二日前、卅二三の、すこし薹のたったお嬢さんと二人でフラリとこのホテルへやって来て沼間夫人を驚かした。

そのお嬢さんは、へんに煤黒い、ひどい斜視の、棒を嚥んだようなヌーッとした感じのひとで、眉目秀麗な秋作氏と並ぶと、一種、対照の妙を示すのだった。『社交室』の特報によれば、たいへんな持参金がついているので、名古屋の上流では誰ひとり知らぬものもない有名なお嬢さんだということだった。

秋作さんが、この『黒いお嬢さん』と二人で食堂へはいってきたとき、沼間の一族もそこにいた。しかし、槇子は、この二人づれを見てもなんの反応も示さなかったし、秋作氏のほうもチラリと見かえったきりで、一向顔色も動かさずにずんずん奥のテーブルのほうへ行ってしまった。二人ながらあまりさっぱりしているので、キャラコのほうがかえって驚いたくらいだった。

秋作氏は、もう四五年、長六閣下のところへやって来ないが、毎年クリスマスになると、かならず、とぼけた玩具や小さな人形をキャラコさんに送ってよこした。みな粗末なものだったけれども、キャラコさんはうれしかった。長六閣下も、あまり気立てが優しすぎる、しょせん、軍人にはなれんやつじゃ、といっている。その秋作氏としては、ちと、どうかと思うやりかたなのである。

秋作氏が、やっと身動きする。のびをして、もの臭そうに椅子から立ちあがった。

静かにしていたので、ここにキャラコがいることに気がつかなかったらしい。びっくりしたように、遠くからまじまじと眺めてから、大股で歩いて来てキャラコさんの前に突ったった。

(秋作氏は美しいな)

下から仰ぎながら、キャラコさんは、そう思う。

秋作氏は今年三十三になる。スラリとした美しいフォルム。喰いつきたいほど形のいい腰。切れの長い鋭い眼。顔は浅黒くひきしまっていて、いかにも理智的な、俊敏な風貌だ。

「おい、どうしてこんなところにいる」

「あたし、ひとりのほうがいい」

「妙なやつだな。みなお茶を飲みに行ったぞ」

「お茶なんか、飲みたくない。……誰もいなくなったら、ひとりでピアノをひいて遊ぶつもりなの」

「ふうん、では、おれの出て行くのを待ってたのか」

キャラコさんは、正直なところを、いう。

「ええ、そうなの」

秋作氏は、てらい気のない、素直なこの従妹がだいすきだった。小さい時から、親切で、謙譲で、誰からでも愛される不思議な徳を持っていた。ほかの子供なら、ずいぶん憎らしくきこえそうなことでも、この娘がいうと妙に愛嬌になるのだった。

誰をも好き、誰にでも愛想がいいが、そのくせ、粗忽に知己をつくらぬしっかりしたところがあり、理解力と感受性が豊かで、どんな物事に対しても妥当な判断を誤まらず、何に対しても極めて穏健な意見をはいた。女学校時代には『常識さん』という綽名をつけられ、学校中での寵児だった。

ちょっと例のないほど寛大な心をもっていて、どんな意地悪をされてもニコニコ笑っているので、意地悪をするほうでつい兜をぬいでしまう。容易に感情を動かさず、たいへん忍耐強いので、ちょいと見ると内気なだけの娘のようだが、さすが長六閣下の血統だけあって、そうとう骨が硬く甘く見ていいかげんのことをすると、ギリギリのところでひどい目にあわなくてはならない。

四五年見ないうちに、すっかり立派なお嬢さんになってしまったが、率直なところだけは、一向子供のときと変らないとおもって、秋作氏はほほえましくなる。

秋作氏は、長六閣下の一家が、つましく暮らしていることをうすうす知っているので、ホテルのロビイでキャラコさんを見かけた時は、たぶん人ちがいなのだと思った。キャラコさんの説明で、沼間夫人が無理に誘ってきたことがわかったが、意外の感じは一向に減らなかった。沼間夫人が親戚に優しくするなどということは、奇蹟でも起こらなければ有りえぬことだからである。

秋作氏が見ると、キャラコさんはたいへんな質素な服を着ている。質素なことには異存ないが、これでは槇子たちの小間使いぐらいにしか見えまい。無理にこんなところへ連れだしておいて、こんななりをさせて置く沼間夫人も沼間夫人だと腹がたってきた。なにしろ年ごろなのだから、こんな素直な娘でも、心の中ではやはり情けなく感じているだろうと思うと、秋作氏は急にキャラコさんが可哀想になってきた。このふうでは小遣いなんかも持ってないにちがいない。

秋作氏はキャラコさんの本当の気持を知らないものだから、槇子たちの組からはずれて、ここでしょんぼりしているのは、お小遣いがないせいなのだと曲解した。

「おい、お前、お小遣いがないんだね。それで、みなからはずれているんだろう。本当のことをいいなさい」

この質問は、キャラコさんを驚かす。

「あら、お金なら持っていますわ。お父さまからいただいてきましたから……」

秋作氏は、疑わしそうな顔つきで、

「ふうん、いくら?」

キャラコさんが誇らしそうにこたえた。

「三円!」

こんどは秋作氏のほうがあっけにとられる。この贅沢なホテルで半月も暮らそうというのに、たった三円のお小遣い。

秋作氏は、思わず大きな声をだす。

「三円!」

秋作氏がなぜそんなに驚くのか、キャラコさんにはわからない。

「それも、まだ手つかずですわ。叔母さまのお伴だから、お金なんかちっともいらないの」

「では、あいつ、小遣いもくれるのか」

「いいえ。……だって、あたし、持っていますもの」

「お菓子を喰べにゆくとき、誰れが払うの」

「お菓子なんか、喰べに行きませんわ」

秋作氏は、あきれてキャラコさんを見つめる。

「ここへ来てから、まだ一度も?」

「和爾さんたちに招待されたとき、たった一度」

「それで?」

「それで、って?」

「何かほしいものがある時はどうするんだ」

「ほしいものなんか、何もありませんわ」

「ふむ、それで、その三円がいままでちゃんと残っているんだね」

「ええ、そうよ。……自分のたのしみに使うのに、三円なんてお小遣いをいただいたのはこれが始めてなの。だから、どう使っていいかわからないの」

長六閣下の子女教育がこんなに行き届いたものだとは、さすがに今日まで知らなかった。きまった恩給だけでやってゆくにはこういう方針をとるのもやむを得ぬことなのであろう。今となってみれば、一年に一度のクリスマスに、あんな役にも立たぬとぼけた贈物をしたことが悔まれる。こうと知っていたら、お小遣いをやって喜ばせることもできたのに。

秋作氏は、また誤解した。長六閣下がやろうといっても、キャラコさんは受け取らない。楽しみのための金の使い方というものを、キャラコさんはまるっきり知らないのである。

秋作氏は、財布から三十円だけぬきだしながら、

「そうだ、その三円は使わずにとって置くほうがいい。そのかわり、秋作がこれだけやるから、これで、みなと一緒に遊びなさい」

(秋作氏は、あたしがけちなんだと思っている)

キャラコさんは、すこし真面目な顔つきになる。

「有難う。……でも、それいらないの。欲しい時があったらくださいっていいますわ。きっといいますから、今日はいらないの。……じゃ、本当のことをいいますけど、あたし、なぜマキちゃんたちの組と一緒にお茶を飲みに行かないかといえば、お菓子なんかにお金を使うのはいやだし、親でも兄弟でもないひとに払わせるってこともあまり気にいらないからなの。……わかるでしょう? マキちゃんたら、いつもワニさんや越智さんやアシ君に払わせるの。いちどだって自分で払ったことないの。だから、あたし、行かないのよ」

秋作氏は、妙な咳ばらいをした。秋作氏は、親類でも奥さんでもないお嬢さんに、すっかり払わせて、このホテルに滞在しているのである。

たった一人きりになると、キャラコさんは走るようにピアノのそばへゆき、鍵盤に指を触れるが早いか、自分の弾く曲に夢中になってしまった。

正式に先生についたことはないが、ピアノは自己流でかなり達者に弾き、よく響く中音で上手に唄う。たいていありふれた平俗な曲がおもだが、時には即興で出まかせに唄うこともある。しかし、そのつまらぬ曲もキャラコさんがうたうと、まるで趣きのちがった味の深いものになってしまう。

大勢の前で唄ったことなど一度もないので、誰もそんなことは知らない。キャラコさん自身もてんで気がついていない。

ただ、長六閣下だけは、ぼんやりとその才能に感づいて、

「お前の唄には、なにか精神のごたるもんがある」

と、批評した。

ただの一度も音楽家になろうなどと考えたこともなければ、ひとに聴かしてほめられたいなどと考えたこともない。キャラコさんの場合、唱歌は一種の迸出作用で、小鳥における囀のようなものだといえよう。

三時ごろに、給仕が新聞をとりに入ってきただけで、ここのキャラコさんは完全に孤独だった。キャラコさんは誰に聴かれることなく、たれに妨げられることもなしに、知っているだけの唄をみな唄った。

自分の家へ帰ったような気がして夢中になって唄いつづけているうちに、ふと、うしろで人のけはいがするので振りかえってみると、入口に近い椅子に『キャラコさんの恋人』が遠慮深く掛けていた。

今日はいつもより顔の色が悪く、レース編みのきたない襟飾を紐のように顎の下へたらし、何を詰め込んだのか、すり切れた上着のポケットを、みっともなく膨らましている。

キャラコさんがうしろをふり向いたのを見ると、『恋人』は悲しげに見えるほどな慇懃な顔つきで、

「こんな汚いやつが、ここにいては、お目ざわりでしょうか」

といった。

あまり、『恋人』のようすが気の毒なので、キャラコさんは胸がいっぱいになってきて、ピアノから離れて、『恋人』のそばへいってすわった。

「あら、どうしてでしょう。あたし、あなたを汚いなどと思ったことありませんことよ。また、ダームでもして遊びましょうか。……もし、おいやでなかったら」

『恋人』は手の甲のうえへ垂れさがってくる長すぎる袖を、しょっちゅう気にしてたくしあげながら、

「……わたくしを、汚いやつだの、乞食だのといわないのは、ほんとうにあなただけです。わたくしは、いやしめられることには馴れていますから、なんといわれたって格別気にも止めません。しかし、あなたのご親切は……」

急に眼を伏せて、口ごもり、

「ありがたく思っています。……生涯、忘れませんでしょう」

といって、すこしうるんだ、感謝にみちた眼差しでキャラコさんをみつめた。

キャラコさんは、こんなふうに丁寧な挨拶をされたので、すっかり面くらって、

「あら、あんなことが親切なんでしょうか。……おはよう、ってご挨拶をしたり、二度ばかりダームをしただけでしょう」

「それが親切なのです。……とりわけ、わたくしのようなものにしてくださるときは」

キャラコさんが、笑いだす。

「そんなのが親切なら、いつでも!」

『恋人』は、しばらく沈黙したのち、とつぜん、こんなことをいう。

「ご親切にあまえるようですが、ひとつ、おねがいがあります」

キャラコさんはすこしかんがえてから、キッと口を結んで決意のほどを示しながら、強くうなずいた。

「あたしにできることでしたら、どんな事でも!」

キャラコさんのひどくきまじめな顔を見ると、『恋人』は皮肉とも見える微笑をうかべながら、

「いや、そんなむずかしいことではありません。……わたくしに歌を唄ってきかせていただきたいのです」

「あら、そんなことでしたの。……でも、あたし、まずいのよ。まだ、いちども本式に習ったことがないんですから。……自己流のでたらめなの」

『恋人』は、首をふって、

「どうして!……いま、あそこでうかがっていましたが、あなたのような見事な中音は、日本ではそうざらに聴けるものではありません。……最初は、自分の耳が信じられなかったくらいでした」

キャラコさんは、自分の唄がひとにほめられたことなどはいちどもなかったので、真赤になってしまった。

「おやおや、たいへんだ」

『恋人』は強くうなずいて、

「いえ、ほんとうのことです。実際、めずらしい声をもっていられる」

「では、唄いますわ。その、見事な『中音』で! ……でも、あたしの知っている歌でなくては困るのよ。……どんな歌? ごく新しいタイプの歌?」

「いや、わたくしはモダーン・タイプはきらいです。……もしか、あなたは、小学唱歌の『冬の円居』というのをご存じでしょうか」

長六閣下が知っている唱歌というのは『冬の円居』と『黄海の海戦』の二つだけなので、キャラコさんは子守唄のかわりに『冬の円居』を聴いて育ったようなものだった。

「ええ、知っていますわ」

『恋人』は眼を輝かせて、

「やっぱり!……あなたなら、きっと知っていらっしゃるだろうと思った。……では、どうぞ唄ってきかせてください」

キャラコさんは『恋人』の手をひいてピアノのそばへすわらせ、自分が伴奏を弾きながら美しい声で『冬の円居』を唄いだした。

『恋人』は両手で顔をおおって熱心にきいていたが、キャラコさんが唄い終ると、顔をあげて低い声でつぶやいた。

「なつかしい唄だ!」

しなびた頬に血の色がさし、青年のような生き生きとした顔つきになっていた。『恋人』は、丁寧に頭をさげて、

「これで満足です。どうも、ありがとう。……もうご勉強のお邪魔をいたしますまい。……それはそうと、あなたはまだずっとこのホテルにおいでですか」

キャラコさんは、あわてて首をふる。

「いいえ、もう四五日で帰ります。……こんなところにいるより、家にいるほうがずっと楽しいわ。ホテル住まいだの、贅沢な暮らしなんか、あたしの趣味ではありませんの」

『恋人』は、妙な眼つきでキャラコさんをみつめながら、

「ほう、どんなのが、あなたの趣味?」

「さあ、どういったらいいかしら、……うまくいえませんけど普通の、きちんとした生活では、同じ時間に、同じことをしますわね。古い、同じ友達にあったり……」

「それは、どういう意味です。……よくわかりませんが……」

「困ったわね……」

キャラコさんは、かんがえながら、綿密に話す。

「あたし、じぶんの家ではこんなふうにやっていますの。……きちんとした時間割をつくって、その中でお仕事をしたり、考えたり、本を読んだり。……それから、きまった日に仲のいいわずかばかりのお友達と訪ねあったり……。ところが、ここへ来てからは何もかもすっかり変ってしまいました。ここでは、ひとりで散歩をしたり、自分だけの考えにふけったりしてはいけないんです。編物をすることも、本を読むことも、あまり大きな声で笑うこともできないの。……何もせずに、膝に手を置いて、こんな顔をしてほほえんでいなくてはなりませんの。……それも、あまりそんな顔をばかりしていると馬鹿だと思われるから、時々、何か気のきいたことをいわなくてはならないことになっていますの。……ずいぶん、たいへんでしょう? あなた、これについて、どうお考えになって?……すくなくとも、あまり楽でないことだけはおわかりになるでしょう?」

『恋人』は、いくどもうなずいてから、だしぬけに質問した。

「あなたは、結婚についてどんな考えを持っていられますか。結婚なさりたいですか」

キャラコさんは、顔を輝かせて、

「ええ、結婚したいわ。……なぜって、あたし、子供がだいすきなんですもの。立派な子供を産むのがあたしの理想なのよ」

窓の外で、剛子、と呼ぶ声がする。沼間夫人だ。沼間夫人は社交室に『キャラコさんの恋人』がいるので、嫌がってはいってこないのだ。

キャラコさんはあわてて出ていった。

窓のそとで、沼間夫人が、キャラコさんが槇子たちのお伴をして行かなかったことと、汚いやつと話していることをくどくどと叱りつけている。小さな声でいっているつもりなのだろうが、沼間夫人の声は甲声だから、つつぬけに社交室までとどくのである。

キャラコさんがもどって来ると、『恋人』が、いった。

「叱られましたね」

キャラコさんは、首をふって、

「いいえ、叔母はあたしを叱ったりしませんわ。たいへん親切よ」

『恋人』は、底意地の悪い笑い方をしながら、

「ほほう」

キャラコさんは、優しく抗議する。

「なぜ、ほほう、なんておっしゃるの。叔母はすこし口やかましいけど、でも、嫁入りざかりの娘が三人もいたら、優しくばかりはしていられませんわ」

「なるほど。……何だか、わたくしの話も出たようでしたね」

キャラコさんが、正直にいう。

「じぶんの名を隠しているようなひとと親しくしてはいけないと、いいましたの」

『恋人』はうつむいていたが、急に顔をあげると、ぶっきら棒な口調で、いった。

「そんなことなら、わけはない。……叔母さんに、わたくしは山本というものだといって下さい」

「ご商売は?」

『恋人』は、考えてから、陰気な声でこたえた。

「手相術師……、手相を見ます」

次の日、晩餐の時間になっても、槇子がなかなか帰って来ない。時計は、もう、七時をうちかけている。

キャラコさんは、食卓の上のナプキンを眺めながら坐っていたが、すこし心配になってきた。

沼間夫人は、剃り込んだ細い眉の間に立皺をよせて、いらいらと食堂の入口の方へふりかえりながら、平気な顔で食事を始めている麻耶子に、

「あなた、槇子どこへ行ったか、ほんとに知らないの」

と、また同じことをたずねる。

マヤ子は、つんとして、

「いやアね、いくど同じことをきくの。だから、知らないといってるじゃないか」

「じゃ、槇さんといつどこで別れたの」

「伊東のトバ口ンところで。……潮吹岩へ行こうってボクを誘ったけど、ボク、つまんないからいやだと断ってひとりで帰ってきたんだ」

「お連れは、どなたと、どなただったの」

「知らないよ、ボク」

「知らないわけはないでしょう」

「別れるときはひとりだったよ。別れてからのマキの連れなんか、ボク知るものか、千里眼じゃあるまいし」

「じゃ、ひとりだったのね」

マヤ子は鼻で笑って、

「ふン、どうだか」

「なんです、ちゃんとおっしゃい」

「だから、どうだか、っていってるじゃないか、しつっこい!」

何をきいても、もう返事をしない。澄ました顔で肉の小間切れをいくつもつくっている。

沼間夫人は食堂の電気時計と自分の腕時計をたがいちがいに見くらべながら、

「いやだ……。ほんとうに、なにかあったんじゃないかしら」

キャラコさんは中腰になって、

「あたし、行って見ましょうか」

夫人は、白眼をキラリと光らせて、

「行くって、どこへ?」

「そのへんまで」

氷のような冷たい声で、沼間夫人がいう。

「よしてくださいね。あまり目立つようなことは、あなたにたのまなくても、いくらでも探す方法はあります」

キャラコさんは素直にあやまる。

「ごめんなさい」

そこへ、槇子が帰って来た。ひどく赤い顔をしているので、キャラコさんは槇子が風邪でもひいたのかと思った。

ひょろひょろしながら三人の食卓の方へやってくると、不機嫌な顔で椅子にかけてナプキンをとりあげた。

沼間夫人は安心と腹立ちがいっしょになったような声で、

「もっと、ちゃんとしてくださいね。いままでどこにいたの」

「傷病兵の慰問に行っていたんです」

マヤ子は意地の悪い上眼づかいで、ジロジロと槇子の顔を眺めていたが、

「おい、酒くさいぞ」

と、すっぱぬいた。

「なにおォ」

「つまり、いままで傷病兵と祝盃をあげていたというわけか。ヘッ、こいつァいいや」

キャラコさんはおかしくなって、思わず、ぷッと噴き出した。

槇子は、きッとキャラコさんの方へふりむくと、

「おやッ、笑ったナ」

蒼くなって、眼をすえてキャラコさんをにらみつけていたが、突然、

「生意気だよッ、貧乏人」

と、叫ぶと、いま、ボーイが置いて行ったばかしの熱いポタアジュのはいった皿を取りあげてキャラコさんの顔へ投げつけた。

身をかわすひまもなく、皿はまともにキャラコさんの胸にあたって、顎から胸へかけてどっぷりとポタアジュを浴びてしまった。青豆のはいったどろどろのポタアジュが、衿から胸の中へ流れ込んで、飛びあがるほど熱いのを、そっと奥歯をかんでこらえた。

広い食堂の中には、まだ六、七組の客が残っていて、あっけにとられたような顔でこちらを眺めている。

キャラコさんは、長六閣下に、小さなことに見苦しく動ずるなと教えられている。キャラコさんにとってこれは大切な服だけれど、すぐホテルのランドリイへ出せばそんなにひどくなるはずはないし、もともと自分が笑ったのがいけないんだから、と、すぐ考えついて、素直に槇子にあやまった。

「マキちゃん、ごめんなさい。あたしが笑ったのが悪かったの」

槇子はそっぽを向いて返事もしない。麻耶子は痛快そうに、眼の隅からジロジロとキャラコさんの顔を眺め、沼間夫人は眉も動かさずに、ご自慢の白い手で静かにスプーンを使っている。

キャラコさんは、早く洗濯屋へ駆けつけたいのだが、中座していいものかどうかと迷っていると、いつの間にかうしろに秋作氏が来ていて、腕をとって椅子から立たしてくれた。

槇子はそれを見ると、いまにも痙攣けそうな物凄い顔になって、

「秋作、馬鹿ッ、馬鹿ッ」

と、叫びながら、二人を目がけて手当りまかせに食卓の上のものを投げつけ、投げるものがなくなると、こんどは自分の服をピリピリとひき裂き始めた。

「みんなで、あたしひとりをいじめるッ。……よゥし、死んでやる、死んでやるから」

二人が食堂を出てしばらく行ってからも、キンキンと槇子の声がひびいていた。

服を着換えて社交室へおりてゆくと、社交室にはワニ君の一団と沼間夫人と越智氏と猪股氏がいる入口に近いいつもの椅子で、『キャラコさんの恋人』が静かに新聞を読んでいた。

キャラコさんが入っていっても、誰ひとり口をきかない。ひどい目にあいましたね、と、ひとこというものもない。みな顔をそむけて知らん顔をしている。沼間夫人が、つい今までみなに自分の悪口をいっていたのだとすぐ気がついたが、そんな女々しい想像をしないのが自分の値打ちだと思って、気にしないことにした。

イヴォンヌさんが、気の毒そうにそばへ寄ってきて、

「熱かって?」

と、ささやいた。

キャラコさんは、笑いながら、そっとイヴォンヌさんの手を握って感謝の意を伝えた。

キャラコさんが、イヴォンヌさんに、いった。

「この部屋に手相見の名人がいるのよ。あなた、そういうことに興味がおありになって」

イヴォンヌさんは、面白がって、

「みなさん、この部屋の中に世界一の手相見の名人がいるんです。みなさん、ご存知?」

と、大きな声で披露した。そして、キャラコさんのほうへふりかえって、

「どなたが、そうなの」

キャラコさんは『恋人』の方をさししめしながら、

「あそこにいる、あの、山本さんて方」

イヴォンヌさんは、すぐ『恋人』のそばへ飛んで行って、

「あなた、世界一の手相見ですって、本当?」

『恋人』は静かにこたえた。

「先生がまだ生きていますから、私は世界で二番目です」

イヴォンヌさんは手を打ちあわして、

「あら、そうなら、そんなところにひっ込んでいないで、こっちへ出て来てちょうだい。見ていただきたいひとがたくさんいますわ」

といって『恋人』の手をとって社交室の真ん中へ連れ出した。

『恋人』はいつものようなおどおどしたようすはすこしもなく、手をひかれながら部屋の真ん中まで出てくると、はっきりした声でいった。

「どなたでも、どうぞ。……お望みなら、お亡くなりになる年月日まで申しあげましょう」

『社交室』の一同はゾックリしたように、互いにチラチラと眼を見合わせた。山本氏の声の調子の中になにか、そんなふうな、ひとを竦みあがらせるようなものがあった。

みな尻込みして、私、といい出るものもない。

キャラコさんが、進み出た。

「わたしをみてください」

キャラコさんと山本氏を真ん中にいれて、一同がそのまわりに輪をつくったとき、槇子が蒼い顔をしてはいって来た。

「いったい、何がはじまろうってえの」

まるで女王さまからご下問でも受けたように、四方八方から異口同音にこたえる。

「世界一の手相見が、これからキャラコさんの未来を占うところなんです」

マキ子は舌打ちをして、

「ちえッ、くだらねえ。……そんなところにいないで、みンな、こっちへ来いよう」

しかし、誰も輪を離れてゆくものがない。

山本氏はキャラコさんの掌を眺めていたが、何か異常な発見でもしたように、おお、と低い感嘆の声をもらし、キラキラ光る眼で一同の顔を見廻したのち、低い声で語りだした。

「これは、実に非凡な手です。何十万のうちに、稀にたった一つこのような手に出っくわす。……順序よく申します。まず、だいいちに、この方はたいへんに勇敢な気性だ」

越智氏が、馬鹿にしたような口調でいった。

「みな尻込みしているうちに、最っ先に出てゆくんだから、そりゃア勇気があるほうでしょうな」

みな、どっと笑いだす。

山本氏は耳もかさずに、

「あなたは非常に健康で、これは、晩年までつづきます。聡明で沈着で、たいへんに忍耐強い」

ワニ君が口を出す。

「それは、僕も認めます」

シッ、シッ、という声が起こる。

「……卑猥にも不潔にもなじむことがない。あなたは生まれてからまだ一度も嘘をいったことがない。あなたは、この世で最も堅実で道義心の強いどの男性よりも、もっと堅実で道徳的です。実に稀な手ですね。……それから、この線! なんでもないこのちっぽけな皺の中に、わたくしは異例な運命を発見しました。この線を見ると、あなたにはたいへんな幸運と、一口にいえないほどの莫大な財産が備わっていることがわかる」

みな、わあッと笑い出す。なかでも、槇子の嘲笑がひときわ高くひびいた。

山本氏は憫むような眼ざしで一同を眺めまわたしながら、

「その財産をいま持っていられるとはいっていません。しかし、わたくしは誓って申します。思いもかけぬような事情によって、このお嬢さんがその幸運をうけるのです。……みなさんはお笑いになるが、ご自分たちの未来について何を知っているというのです。自分が明日死ぬことさえご存知ないくせに。……私の見るところでは、この中に、そういう運命の方が一人います」

もう、声を出すものもない。

槇子が、揺椅子から離れて山本氏の前に坐ると、だまって掌を差しだした。

山本氏はその掌をじっと眺めていたが、ゆっくりと顔をあげると、異様に光る眼差しで槇子の眼を瞶めながら、

「この掌は、いまあなたに非常な危険が迫っていることを物語っている。……この掌の中に表われていることを、みなさんの前ですっかり申してもよろしいか」

槇子は、サッと血の気をなくして、いそいで手をひっこめると、低い声で、

「いいえ、よく、わかってます」

と、いうと、逃げるように社交室を出ていった。

夜中から吹き出した強い冬の風は、夜があけてもおとろえずに、はげしい勢いで海の上を吼え廻っていた。

午過ぎになると、低く垂れさがった雨雲の間から薄陽がもれはじめ、嵐はおいおいおさまったが海面はまだいち面に物凄く泡だち、寄せかえす怒濤は轟くような音をたてて岸を噛んでいた。

しかし、嵐は海のうえにばかり吹いたのではなくて、ホテルのこの『社交室』も、今朝から一種の突風のようなものに襲われていた。

沼間氏について、想像だにもしなかった意外な事実が、あるひとの口からもらされたのである。

沼間氏の経営する第九十九銀行は、最も信用ある個人銀行の一つに数えられ、沼間氏自身は百万長者のひとりだった。ところで、金融関係も預金者側もだれひとり知らぬうちに、沼間氏はいつの間にか一文なしになり、銀行の経済状態までが危殆に瀕していたのである。

沼間氏が、沼間銀行を通じて莫大な投資をしていた『択捉漁業』は、昨年秋の漁区不許可問題にひっかかって破産し、沼間氏は資本の回収不能に陥って、銀行の金庫に、全財産を投げ出してもまだ数十万円の足が出るような大穴をあけてしまった。これは沼間氏一個人の大思惑で、他人の名儀でひそかに投資していたものだから、損害の補填がつかぬうちにこの事実が暴露すると、沼間氏は、当然、背任横領の罪に問われなければならない。

こういう内実を糊塗するために、贅沢なホテル住居をし、ことさら、無闇に金を浪費している沼間夫人とその二人の娘は、その内幕へ入ると、じつは、どの人間よりも不幸で、どの人間よりも貧乏なのであった。

この情報を『社交室』にもたらしたのはワニ君で、その噂の出どころは、昨日の夕方このホテルへやって来たイヴォンヌさんの父親の山田氏だった。

山田氏はホテルの食堂で、日ごろ尊敬する石井長六閣下の愛嬢に対する、沼間一族の高慢無礼な仕打ちに腹を立て、義憤のあまり、報酬的に沼間家の裏の事情をワニ君にすっぱぬいた。それくらいの目にあわしてやってもいいと思ったのである。

それと、もう一つは、槇子と猪股氏の婚約成立の報知だった。これは、ホクホクと笑み崩れた猪股氏自身の口から披露された。

この二つの情報をつづくり合せると、沼間夫人がどういう目的でこのホテルへやって来たか誰にもすぐ了解された。銀行の金庫を補填するために、二人の娘をここへ競売に来たのである。

この報知をきいて、最も打撃を受けたのは越智氏だ。系図と伊達を売り物にして、纒まった持参金にありつこうと日夜骨を折った甲斐もなく、その相手は空手形だった。

ワニ君が、慰め顔にいった。

「越智氏、まア、そんなに嘆くな。見損ったのは君ばかりじゃない。ひとの分まで落胆してくれなくてもいいよ」

ポン君が、いった。

「それにしても、いい商売をしやがったな。いったい、四十万だろうか、五十万だろうか」

……社交室のピアノのうしろでキャラコさんがきいたのは、大体このようなことだった。

キャラコさんが入ってきた時には、この部屋には誰もいなかった。キャラコさんは冗談に、『休憩室』と呼んでいるピアノのうしろの狭い三角形の隙間へはいり込んで、いつものように『コロンバ』のつづきを読んでいると、ワニ君の一団がドヤドヤと飛び込んで来て、いきなり話をはじめたので、いまさら出ることもできず、息をひそめて竦んでいるほかはなかった。

沼間家が一文なしになったことも、沼間夫人の遠謀も、猪股氏と槇子の婚約も、みな、意外なことばかりだったが、そうとなると、叔母が、なぜ自分を無理にこんなホテルへ誘って来たか、その目的がはじめてはっきりと了解できた。この競売を一層効果的にするために、時局柄、光栄ある石井長六閣下の愛嬢を、近親として手元にひきつけておく必要があったのだ。

キャラコさんはまだ一度も槇子たちの身分をうらやんだことはない。反対に、不幸だとさえ思っていたが、その不幸は、キャラコさんが考えていたよりも、もっとひどいものだった。

しかし、槇子のほうは、愛情より真実より金の方が大切な娘なのだから、こういう身売りを格別不幸だとも思っていまい。

キャラコさんは、ためいきをつきながら、そっと呟く。

「マキちゃんは、貧乏では一日も暮らせないひとなんだから、いちがいに責めるわけにはゆかないわ。そんなふうにばかり育てられてきたのだから。……あたしとは、わけがちがう」

戸外で騒がしい声がするので、キャラコさんは、ふと、われにかえった。

五六人のひとが、きれぎれに叫びながら、海岸の方へ駆けてゆく。ワニ君たちは窓から首をつき出して、駆けてゆくひとになにか問いかけていたが、すぐ、

「大変だ、大変だ」

と、わめきながら、あと先になって社交室から飛び出していってしまった。

キャラコさんは庭へ出て、海岸へおりる石段の上まで行って見たが、波打ち際で走り廻っている大勢のひとの姿が見えるばかりで、何がおこったのかわからない。

石段を駆け降りて、ギッシリと浜辺に立ちならんでいる人垣のうしろまで行くと、その向うから、何かききとりにくいことを、繰りかえし繰りかえし叫んでいる甲高い女の叫び声がきこえてきた。叔母の声だ。

すぐ前に、アシ君が蒼くなって、眼をすえて海のほうを睨んでいる。

キャラコさんがしっかりした声でたずねる。

「葦田さん、なにがあったの」

アシ君は、ふりかえると、肩越しに、喰ってかかるような口調でこたえた。

「マキちゃんが、潮吹岩までボートで行って見せるってがんばるんだ。いくらとめても、どうしてもきかないで、とうとうひとりで行っちゃったんだって」

キャラコさんは、のび上って沖のほうを見たが、ボートらしいものも見えない。

「ボートなんか、どこにも、見えないわ」

「馬鹿ァ、ボートがでんぐりかえって、溺れかけてるんだア」

午すぎに、ちょっとさしかけた薄陽は、また雨雲にとざされ、墨色の荒天の下に、冬の海が白い浪の穂を散らして逆巻いている。見上げるような高い波が、折り重なって岸へ押しよせては、大砲のような音をたてて崩れ落ちる。

五町ほど沖合に、芥子の花のような薄赤い色が浮き沈みしている。波にゆりあげられてチラと見えたと思うと、すぐ次の波のしたに沈んでしまうのだった。

もう、何も見る気がしなかった。あの美しい槇子が自分のすぐ眼の前で死んでゆく。

「マキちゃん、……ああ、どうしよう、マキちゃん」

自分でも、何をいっているのかわからなかった。

キャラコさんは、槇子の意地悪も我儘もみな忘れてしまった。

「どうか、助かってちょうだい」

この瞬間、キャラコさんは、父よりも、母よりも、兄弟よりも、槇子の方が好きだったような気がした。

人々は、埓もなく、

「早く、舟を出せ」

「ホテルのモーター・ボートはどうした」

などと叫びながら、ウロウロと渚を走り廻るばかりで、とっさに、どうしようかんがえも浮んで来ないのだった。

なにしろ、一月のことだから、ホテルのモーター・ボートは格納庫の中に納われていて、ちょっとやそっとで引きだすわけにはゆかない。この上は漁船を出すよりほかはないので、ホテルの庭番がそっちへ駈けだしていったが、ここからいちばん近い漁師の家まで約十五町もある。

人垣の向うで、何か劇しくいいあう声がするので、キャラコさんがそのほうをふり返って見ると、『恋人』が、いま大急ぎで服を脱ごうとしているところだった。ガヤガヤはそれを必死に押し止めようとする人々の声だった。

この荒れ狂う海の中へ、このよぼけた老人が躍り込もうというのは、たしかに、正気の沙汰ではなかった。

息をつめているうちに、『恋人』は素早く服をかなぐり捨て、ひきとめる人々の手をふり切って飛沫をあげて海の中へ躍り込んだが、最初の高波が、『恋人』を岸へ叩きつけてしまった。

岸に立ちならんでいる人々の口から、一斉に、

「ああ」

と、叫びとも呻きともつかぬ声がもれた。

キャラコさんは、思わず両手で顔を蔽ってしまった。

すぐ耳のそばで、

「ああ、頭を出した、頭を出した」

と、いう声がする。

顔をあげて見ると、波にうたれて沈んでしまったと思った『恋人』が、波の下をくぐりくぐり、沈着なようすで沖のほうへ泳いでゆく。

『恋人』の体は、たちまち押し上げられ、押し沈められ、また浮き上がる。揉み立てられ、揺すられ、薙ぎ倒されながら瘠せさらばえた初老のひとが、二十代の青年のような精力と不撓の努力でジリジリと槇子の方へ迫ってゆく。自然の暴威と格闘する最も果敢な人間の姿だった。

しかし、槇子の浮き沈みしているところはまだ遠かった。『恋人』のいるところからまだ三、四町も沖合だった。

早く行き着いてくれ。それにしても、無事に行きつけるであろうか。ひとりとして正視するものもない。

「しッかり、たのむぞオ」

だれかが絶叫する。ほとんど泣いているような声だった。

「元気をだしてくれえ」

キャラコさんは、大声で声援しようと思うのだが、なにか咽喉につまってどうしても声が出なかった。

永久無限とも思われる長い時間だった。

『恋人』は、ようやくあと十間ほどのところへ迫ってゆきつつあった。

「早く、早く!」

キャラコさんは夢中になってあしずりした。こんな辛い思いをするのは生まれてからこれが初めてだった。

ワニ君が躍り上って叫んだ。

「つかまえたア!」

越智氏が、金切り声を上げた。

「マキちゃんが、水の上へ頭を出した。……大丈夫! まだ生きてる!」

ようやく、この時になって岬の鼻から漁船が漕ぎ出してきた。しかし、漁船と二人の間は十四、五町もへだたっている。

『恋人』は、槇子を水の上へ押しあげながらいっしんに泳いでいるが、もう力がつきはてたらしく、時々波のしたへ、がぶっと沈んでしまう。

望遠鏡を持ってキャラコさんのうしろに立っていた山田氏が、身もだえしながら叫んだ。

「いま船が行かなければ、沈んでしまう」

漁船は、見るも歯痒いような船足でのろのろと近づいてゆく。

『恋人』の姿は、やや長い間海面の下に沈み込んでいたが、最後の勇気をふるい起こしたのだろう、槇子を抱えながら漁船へ向って泳ぎ出した。

見るさえ苦痛な十分間だった。……しかし、漁船はとうとう『恋人』のそばまで漕ぎ寄った。

岸の一同は、期せずして、

「万歳!」

と、叫んだ。

船の上の漁夫たちは、槇子と『恋人』の手をつかんで船にひきあげた。

キャラコさんは足がガクガクして立っていられなくなって、そこへしゃがみ込んでしまった。そして、はじめて涙を流した。

望遠鏡で熱心に漁船の中をのぞき込んでいた山田氏がワニ君にたずねた。

「あの人は誰だか、知っていますか」

「ホテルに泊っている山本というひとです」

これをきくと、山田氏が飛び上った。そして、呻くようにいった。

「やはり、そうだった。……あれは、ジョージ・ヤマだぜ。君、知ってたかね?」

こんどは、ワニ君が飛び上った。

「ジョージ・ヤマ!……亜米利加で成功した千万長者!……小供の時に、新聞で評伝を読んだことがあります。しかし、ずいぶん昔のことですよ」

「そう。……すべての事業から手をひいて欧州へ行ってしまったのは、ざっと十五年ほど前のことだ。それ以来、すこしも評判を聞かぬようになったが、欧羅巴で生きていることだけはたしかだった。時々、自分の名で思い切った寄附をするのでね。……これは意外だ! ジョージ・ヤマが伊豆にいるとは!」

キャラコさんは、つぎの朝まで槇子の枕元を離れなかった。

虚栄と冷淡と利己心のかたまりのような沼間夫人も、この出来事にはさすがにたましいをひっくりかえされたと見え、甲斐がいしく槇子の汗を拭いてやったり、布団の裾をおさえたり、よのつねの母らしいそぶりをみせるのだった。

麻耶子は高い窓枠に腰をかけ、心配そうに唇をへの字に曲げながら足をブランブランさせていた。今日ばかりは、さすがに意地悪をしなかった。

沼間夫人がなにかいいつけると、

「ハイ」

と、兵隊のような返事をして駆け出すのだった。

槇子はおどろくほど沢山水を飲み、そのうえ、冷たい水の中に長い間つかっていたので、岸にあげられた時はもう瀕死の状態だった。『恋人』の行きつくのがもう十分もおそかったら、槇子はもうこの世のものではなかったろうということは、誰の眼にも明らかだった。

漁船の中ですばやく水を吐かせた『恋人』の処置がよかったのと、すぐ医者が駆けつけて熱い辛子の湿布をしてくれたので、ようやく命だけはとりとめ、肺炎にもならずにすんだが、ひどい疲労と高熱で意識不明のまま昏々と眠りつづけ、その眠りのうちに、悲しそうに身をきながら、

「秋作さん、秋作さん」

と、絶えず囈言をいう。すると、そのたびに、沼間夫人はハンカチを絞るほどの涙を流し、

「ゆるしてね、ゆるしてちょうだい」

と、身も世もないように嘆くのである。

キャラコさんは槇子がかあいそうで、どうしていいかわからなくなる。

『社交室』でのワニ君たちの話や猪股氏との婚約と、この囈言を思い合わせると、今まで少しも気がつかなかったいろいろ複雑な事情がすこしずつのみこめてくる。

キャラコさんは、思わず、ためいきをつく。

「マキちゃんは、やっぱり秋作氏を愛していたんだわ」

秋作氏が『黒いお嬢さん』と二人でこのホテルへやって来てから、急に猪股氏に辛くあたり出したことも、酔って帰って来た夜の食堂での狂態も、さもあるべきいちいちの意味がよくわかる。昨年の秋、秋作氏の求婚にたいして、あなた、貧乏だから、いや、と、にべもない返事をしたのは、決して本心ではなかったのだ。何もかもあきらめて、進んで自分を『糶』に出したのにちがいない。

自分本意で、骨の髄まで浅薄な娘だとばかり思っていた槇子の胸に、こんなしおらしいたましいがひそんでいたということは、キャラコさんにとっては意外だった。意地っぱりで、一旦こうと決心したら容易く自己を表わさない冷静な槇子が、自分の心をのぞかれるようなあんな狂態を演じたのを見ても、槇子がどんなに苦しんでいたかよくわかる。それを察してあげることができなかったのは、やはり、じぶんが未熟だからに相違ない。キャラコさんは、心のうちで詫びた。

「マキちゃん、ゆるして、ちょうだい」

それにしても、秋作氏は槇子のこの美しい心根を知っているかしら。

夜の十時ごろになって、秋作さんが飛んで来た。

槇子が溺れかけたことより、自分の部屋の扉の下にすべり込ませてあったものを見て、驚いて飛んで来たのである。それは、西洋封筒に入れた一枚の紅葉で、封筒の表にはきれいな字で日附が書いてあった。秋作氏と二人きりで高尾山へ行った日の日附である。

『社交室』では、また新しい話題でわきかえっていた。

ワニ君連を代表して、花束を持ってお見舞いに来たアシ君が、槇子の(秋作さん、秋作さん)を聞いてしまって、これを『社交室』へ急報した。

ポン君が、いった。

「おかしいと思ったよ。いくら槇子が気紛れだって、あんな時化にボートを漕ぎ出すなんてのは、ちとムイミだからな。秋作さんへの心中立てに、初めから自殺するつもりだったんだ」

「なるほど、そういうわけか」

と、ワニ君がためいきをついた。

「どうも、時世が変って来たな」

ところへ、ホテルの支配人がやって来て、山本氏に召集状が来、明朝応召されるので、山田氏の発起でホテルと共同の歓送晩餐会を催すことになったから奮ってご出席願いたいといった。

さすがに、一人も欠けるものがなかった。槇子だけはまだ床を離れられないのでその席に連らならなかった。

一同が席について待っていると、すこし遅れて山本氏が入って来た。いままでのみすぼらしい服をぬぎすててチェビアットの瀟洒たる服を着、無精髯を剃り落として、髪を綺麗に撫でつけ、頬を艶々と光らしているところを見ると、これがよぼよぼした昨日までの老人だとは、どうしても思われない。ホテル第一の伊達者の越智氏も、その前へ出ると、急に影がうすくなったような工合だった。

山田氏が一同を代表して祝辞を述べると、山本氏が起立して挨拶をかえした。

「私はこの四十五年の半生の大部分を外国で暮らし、何ひとつとりたてて日本のために尽すことができませんでしたが、幸い、このたび召集され、私の一身を日本へ捧げ、最も崇高な方法で自分の生涯を完結させる機会にめぐまれたことを心から歓喜しております。……この喜悦の情はどれだけ深いものか、長らく日本を離れていた私のようなものでなければ、恐らくおわかりになることはできまいと存じます。

……私のご挨拶はこれで終りますが、この席を利用して、ちょっと一言申し述べさせていただきたい事がございます。……私は応召して戦場へまいります以上、もとより生還を期してはおりません……ご存知の方もありましょうが、私は親戚も身寄りも持っておりませんので、私の全財産、……千二百万弗、すなわち、四千万円を、この席におられる方でこれを最も有意義にお使いくださるであろうと思われる人格に御相続願うことにしました」

山本氏が、こういった時の、一座の恐慌といったらなかった。

越智氏は気が遠くなるような眼つきをし、葦君はその細い長い脚をブルブルと震わせた。

山本氏はそんなことには頓着なく、ほのかな口調で、

「私は十六の年にアメリカへ渡り、あらゆる職業に従って黒人のように働きつづけましたが、どんな仕事にも成功しませんでした。……しかし、その後、ある奇縁によって発奮し、カルフォルニアで香水原料の花卉栽培に従事し、飽き飽きするほどの財産をつくりました。……私の今日をなさしめた奇縁というのはどのようなものだったかと申しますと、私が失意落胆してサンタ・フェの田舎を放浪していますとき、私に貯金の二十弗をめぐみ、『冬の円居』という日本の小学唱歌を唄って元気をつけてくれた、十九歳の日本の一少女の親切だったのです」

山本氏は、感慨を催したらしく、ちょっと沈黙したのち、

「……私が多少の成功をいたしました時、早速、サンタ・フェにまいりまして、その少女をたずねましたが、少女は既に結婚して夫と欧州へ行ったあとでした。私は及ぶかぎりの方法をもって捜索させましたがわかりませぬ。

……今から十五年前、私があらゆる事業から手をひいて欧羅巴へ渡りましたのも、畢竟、私の生涯をかけてその少女の所在をたずねようためでした。……それから七年目、つまり昨年の春、ふとした手がかりで、その少女がアントワープにいることをつきとめましたが、私がまいりました時は既にこの世のひとではなかったのです。

……そういうわけで、私は私の相続人を探すために日本へ帰ってまいりました。……私は自分の相続人の条件をこんな風にきめました。……年は十九から廿歳までの、心から私に親切にしてくれる少女……。必ずしも、いい趣味とはもうされませんが、私の気持だけは、たぶんおわかりくださるでしょう。

……ところで、日本へ帰って来て見ますと、日本の変り方はたいへんなものでした。ことに、少女の性情の変り方は、ほとんど信じられないくらいでした。この一年間、探ねているような少女に私はとうとうめぐり合うことはできませんでした。

私がこのホテルへついたとき、私は、ほとほと疲れてしまいました。私は相続人を得ることをあきらめねばならぬかと、ひそかに覚悟したくらいです。……しかし、どうしても諦めきれぬところもあって、ご承知のような試みをやって見ました。もちろん、私の試みの性質にもよりましょうが私は、ここでさんざんな軽蔑のされようでした。

……ところで、そのうちに、ただ一人、このみすぼらしい老人にたいへんに親切にしてくれる少女を、発見しました。私は、とうとうゆきついたのでした。それは今年十九になる、いささかも浮薄な流行になじまぬ、快活で、控え目で、正直で、健康で、そして、美しい少女です。そればかりか、彼女は、私に『冬の円居』さえ弾いてくれました。私が彼女を撰ぶのに、何の躊躇するところがありましょう。……私は、石井剛子さんを、私の相続人に定めたいと思うのです。剛子さんは、この財産を私自身が使うより、もっと有用な使い方をしてくれるであろうことを信じて疑いません。

私は今朝までかかって必要な書類を全部揃えて置きましたから、あとは私の弁護士が外国の銀行の方の始末をつけ、遅くとも今年のクリスマスごろまでに、それを剛子さんにお渡しできるように骨を折ってくれることでしょう」

と、いうと、キャラコさんの方へ向き直って、こんなふうに、たずねた。

「剛子さん、あなた、お受け下さるでしょうね」

キャラコさんが、アッサリとこたえた。

「ありがとうございます」

まるで、ボンボンの箱でももらったような簡単な挨拶だったので、みな、声を合せて笑い出した。

秋作氏が、とつぜん立ちあがって、こんなことをいった。

「剛子の美しい性情は、質素の家庭に育ったためにいよいよ磨かれることになったともいえるのです。……この娘にそのような大金をお与えくださるのは有難いけれど、そのために剛子のすぐれた性質をだめにしてしまいませぬかと、それを恐れます。……失礼なことを申すようですが、人間の美しい性質に比べると、金などは、たいして価値のあるものではありませんからね」

山本氏は微笑を浮べながら胸のチョッキから一枚の小切手をとり出し、

「お言葉ですが、私は、剛子さんが、金などで性情が損われるような方でないと信じています。……では、最後の決定をする前にこういうことをしましょう。……ここに、即座に使われていい二十万円の金があります。これを、どういうふうに使われるつもりか、明日の朝までに返事をしていただきましょう。その使い方が、何びとも至当だと思う、最も自然な、最も有用な使い方だったら安心して財産をお任せすることにしましょう。それで、いかがですか?」

次の朝、『社交室』で、槇子と猪股氏の婚約が取り消され、槇子と秋作氏の婚約が発表された。山本氏も『社交室』の一同も、この廿万円の使い方は、最も自然で最も正当だと是認した。

ホテルの一同は、開通したばかりの伊豆の停車場まで山本さんを送っていって、プラット・ホームで万歳を三唱した。

山本氏の半白の鬢のあたりに、朝日がキラキラと輝く。山本氏は車窓から半身を乗りだし、しっかりと口を結んだまま一同の万歳にうなずいていた。

キャラコさんは、感動して、声が出なくなってしまった。喉の奥のところに固いかたまりのようなものができて、いくど咳払いをしてみてもらくにならなかった。

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